し、いわく、まなびて、ときに、これをならう、また、よろこばしからずや
補足:
学而第一 1 子曰學而時習之章
001(01-01)
子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。
子し曰いわく、学まなびて時ときに之これを習ならう、亦また説よろこばしからずや。朋とも有あり、遠方えんぽうより来きたる、亦また楽たのしからずや。人ひと知しらずして慍いきどおらず、亦また君くん子しならずや。
現代語訳
先生 ――「ならってはおさらいするのは、たのしいことだね。なかまが遠くからくるのは、うれしいことだね。知られなくても平気なのは、りっぱな人じゃないか。」(魚返おがえり善雄『論語新訳』)
孔子様がおっしゃるよう、「先生に就つきまた書物を読んで道理を学ぶのがまず第一だが、ただ通り一遍いっぺんに学んだだけでなく、その上にまがなすきがな繰くり返し思し索さくしたり実行したりしてみると、だんだんと学問が身につき道理が心にとけこんでくる。何とうれしいことではないか。さて学問が進み修養が積んでくると、勉学修養の志を同じくする人たちが遠方からまで集って来て、どうぞ教えてください、いっしょに修行しましょう、ということになる。何と楽しいことではないか。ところである程度学問が進み修行ができると、自分はこれだけになったのになぜ世間が知ってくれないのだろうかと、不平も起りそうなことだが、もともと学問し修養するのも自分の人物をみがくためで、それがおのずから世のため人のためになることであろうとも、けっして他人に認識してもらうための学問修養ではない。そういう気持で『人ひと知しらずしていきどおらず』一心いっしん不ふ乱らんに学問修養をつづける人があるならば、それこそ本当の君子ではあるまいか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。なんと生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、なんと人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
子 … 先生。男子の尊称。ここでは孔子を指す。
曰 … 「曰いわく」と読む。学校教育の場では「曰いハク」に統一されているが、本来は「曰いわく」「曰いわく」のどちらでもよいので「曰いわく」で統一した。なお、「曰のたまわく」と読んでもよい。「のたまわく」は「いわく」の尊敬語であり、したがって孔子に対してだけは「のたまわく」の方がよいと思われるが、煩雑になるので採用しなかった。
学 … 学問する。ここでは『詩経』と『書経』を読み、礼と楽がくを学ぶこと。
而 … 接続詞の働きをする置き字。「~して」「~て」と、直前の語に続けて読み、訓読しないことが多い。
時 … やれる時はいつでもの意。「ときどき」の意ではない。
不亦説乎 … 「またよろこばしからずや」と読む。「不亦~乎」は、「また~ずや」と読み、「なんと~ではないか」と訳す。詠嘆の形。
亦 … 語調をゆるやかにする語。「~もまた」の意ではない。「亦また」「亦また」のどちらでもよい。
説 … 「悦」に同じ。「よろこぶ」と読む。
朋 … 学問について志を同じくする友人。
自 … 「より」と読み、「~から」と訳す。返読文字。時間・場所などの起点を示す。
不亦楽乎 … 「またたのしからずや」と読む。詠嘆の句形。
人不知而 … 「ひとしらずして」と読む。人が自分の学徳を認めてくれないこと。
不慍 … 「いからず」とも読む。腹を立てない、不平不満をいだかないこと。
不亦君子乎 … 「またくんしならずや」と読む。「なんと君子ではないか」と訳す。
君子 … 徳の高い立派な人。人格者。反対は小しょう人じん。
補説
子 … 『集解』に「馬融曰く、子とは、男子の通称、孔子を謂うなり、と」(馬融曰、子者男子通稱、謂孔子也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「子とは、孔子を指すなり。子は是れ有徳の称、古者は師を称して子と為すなり」(子者指於孔子也。子是有德之稱、古者稱師爲子也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
曰 … 『義疏』に「曰とは、発語の端なり。許氏の説文に云う、口を開き舌を吐く、之を謂いて曰と為す、と」(曰者發語之端也。許氏說文云、開口吐舌、謂之爲曰)とある。また『注疏』に「曰とは、説文に云う、詞なり」(曰者說文云詞也)とある。『論語註疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学 … 『義疏』に「学は幼より起はじむ。故に幼を以て先と為すなり」(學從幼起。故以幼爲先也)とある。また『集注』に「学の言たる、效なり。人の性は皆な善なり、而して覚さとるに先後有り。後に覚る者は、必ず先覚の為す所に效ならう。乃ち以て善を明らかにして、而して其の初めに復かえる可きなり」(學之爲言效也。人性皆善、而覺有先後。後覺者必效先覺之所爲。乃可以明善而復其初也)とある。『論語集註』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
時 … 『集解』に「王粛曰く、時とは、学ぶ者時を以て之を誦習す。誦習するに時を以てし、学廃業すること無し。悦懌えつえきと為す所以なり、と」(王肅曰、時者學者以時誦習之。誦習以時、學無廢業。所以爲悦懌也)とある。悦懌は、しこりがほぐれて喜ぶこと。また『義疏』に「時とは、凡そ学ぶに三時有り。一は是れ人身中に就くを時と為す。二は年中に就くを時と為す。三は日中に就くを時と為す。一の身中に就くとは、凡そ学を受くるの道は、時を択ぶを先と為す。長なれば則ち捍格かんかくし、幼なれば則ち迷昏す。故に学記に云う、発して然る後に禁ずれば、則ち捍格して勝たえず。時過ぎて然る後に学べば、則ち勤苦して成り難しとは、是れなり」(時者、凡學有三時。一是就人身中爲時。二就年中爲時。三就日中爲時也。一就身中者、凡受學之道、擇時爲先。長則捍格、幼則迷昏。故學記云、發然後禁、則捍格而不勝。時過然後學、則勤苦而難成、是也)とある。捍格は、相手を受け入れないこと。学記は、『礼記』の篇名。
習 … 『集注』に「習は、鳥の数〻しばしば飛ぶなり。之を学んで已やまざること、鳥の数〻飛ぶが如くするなり」(習、鳥數飛也。學之不已、如鳥數飛也)とある。
説 … 『義疏』では「悦」に作り、「悦とは、懐抱欣暢の謂いいなり」(悅者懷抱欣暢之謂也)とある。懐抱は、懐ふところに抱くこと。欣暢は、喜んで心がのびのびすること。『集注』に「説えつは、喜ぶの意なり。既に学んで又た時時じじに之を習えば、則ち学ぶ所の者熟し、而して中心喜き説えつし、其の進むこと自おのずから已やむ能わず。程子曰く、習とは、重ねて習うなり。時に復た思し繹えきし、中うちに浹しょう洽こうすれば、則ち説よろこぶなり。又た曰く、学ぶ者は将に以て之を行わんとするや、時に之を習えば、則ち学ぶ所の者我に在り。故に説ぶ、と」(說、喜意也。既學而又時時習之、則所學者熟、而中心喜說、其進自不能已矣。程子曰、習、重習也。時復思繹、浹洽於中、則說也。又曰、學者將以行之也、時習之、則所學者在我。故說)とある。思繹は、考えたずねること。浹洽は、すみずみまで行き渡ること。
有朋自遠方来 … 後藤点(後藤芝し山ざんのつけた訓点)では「朋有り、遠方より来たる」、道春点(林羅山のつけた訓点)では「朋、遠方より来たる有り」と読む。なお、武内義雄は「有朋とも(友朋)遠方より来きたる」と読んでいる(『論語』岩波文庫、『武内義雄全集 第二巻』所収)。
朋 … 『集解』に「苞氏曰く、同門を朋と曰うなり、と」(苞氏曰、同門曰朋也)とある。また『義疏』に「同処師門を朋と曰う。同ともに一志を執るを友と為す。朋は猶お党のごときなり。共に党類を為して師門に在るなり」(同處師門曰朋。同執一志爲友。朋猶黨也。共爲黨類在師門也)とある。また『集注』に「朋は、同類なり。遠方より来たれば、則ち近き者知る可し」(朋、同類也。自遠方來、則近者可知)とある。
楽 … 『集注』に「程子曰く、善を以て人に及ぼせば、信じ従う者衆おおし、故に楽しむ可し、と。又た曰く、説よろこぶことは心に在り、楽は発散して外に在るを主とす、と」(程子曰、以善及人、而信從者衆、故可樂。又曰、說在心、樂主發散在外)とある。
人 … 『義疏』に「人は、凡人を謂うなり」(人謂凡人也)とある。
慍 … 『説文解字』巻十下、心部に「慍うんは、怒るなり」(慍、怒也)とある。ウィキソース「說文解字/10」参照。また『集解』に「慍うんは怒るなり。凡そ人知らざる所有り。君子は慍いからざるなり」(慍怒也。凡人有所不知。君子不慍也)とある。また『義疏』に「慍は怒るなり」(慍怒也)とある。また『集注』に「慍は、怒りを含むの意」(慍、含怒意)とある。
君子 … 『義疏』に「君子は、徳有るの称なり」(君子有德之稱也)とある。また『集注』に「君子は、成徳の名」(君子、成德之名)とある。
伊藤仁斎『論語古義』に「夫子天地の為に道を立て、生民の為に極を建て、万世の為に太平を開きし所以の者も、亦た学の功なり。故に論語に学の一字を以て、一部の開首と為せり。而して門人此の章を以て諸これを一書の首はじめに置けり。蓋し一部の小論語と云う」(夫子所以爲天地立道、爲生民建極、爲萬世開太平者、亦學之功也。故論語以學之一字、爲一部開首。而門人以此章置諸一書之首。蓋一部小論語云)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
荻生徂徠『論語徴』に「蓋し先王の道は、民を安んずるの道なり。学とは、之を学ぶなり」(蓋先王之道、安民之道也。學者、學之也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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