靖国の名に背きまつれる神々を思えばうれひの深くもあるか [神やぶれたまはず] | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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靖国の名に背きまつれる神々を思えばうれひの深くもあるか [神やぶれたまはず]


靖国の名に背きまつれる神々を思えばうれひの深くもあるか 

[神やぶれたまはず]

靖国の名に背きまつれる神々を思えばうれひの深くもあるか

昭和天皇御製という。副島隆彦氏の「安倍の靖国参拝問題が大きな火種に。日本は世界中を敵に回してはいけない。」2014.1.9)によってはじめて知った。副島氏が言う如く昭和天皇の世界認識の確かさを背景にした御製なのだろうか。そしてあらためて、「神やぶれたまはず」を思う。昭和208月のある一瞬――ほんの一瞬――日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(供犠)のたきぎの上に横たはっていたのである。》(p.282国民は、その一瞬が過ぎるやたきぎの上からたちまち降り立ち明日から生きてゆくための行動を開始した。薪の上に載った一瞬などその時だけの一瞬に過ぎない。そんな記憶は時間と共にどんどん遠ざかってゆくだけだ。そうしてあっという間に68年が過ぎてしまった。しかし、国民にとっては「ほんの一瞬」であった 「この一瞬」は、昭和天皇にとってはその後の生を通して背負い続けなければならなかった「永遠の一瞬」だった。いまあらためてあの一瞬からいままでの時の流れをふりかえるとき、あの一瞬が夢だったのか、はたまたあの一瞬を忘れて過ぎ去った68年の時の流れが夢だったのか。長谷川氏の「神やぶれたまはず」を読んだいま、私には過ぎ去った68年の方が夢だったのかと思えてしまう。昭和天皇はその間、われわれにとってたちまち過ぎたあの一瞬を夢ではない現実として、たきぎの上から降り立つことのないまま昭和を生きて、平成の御代へとバトンを引き継がれていったのではなかったか。薪の上に在りつづけた昭和天皇のお姿こそが夢ではない現実ではなかったのか。そのことを抉り出してみせてくれたのが、他ならぬ「神やぶれたまはず」であった。民よ、再び薪の上に戻れ。そこで「神人対晤」のかけがえのなさを知れ。確たる現実はそこからしか始まりようがない。さもなくば日本人の精神はとめどないメルトダウンに抗すべくもなし。あの一瞬に目を瞑っての日本再生は、かつて辿った道を遡る道に過ぎない。アベノミクスに踊らさせる動きがそうである如く。株の大納会にのこのこ出かけてシャンシャン手拍子する安倍首相のなんと稚拙で情けない姿であることか。安倍さんよ、目を醒せ。副島氏は浜矩子氏の次の文章を評価する。  (転載はじめ)

「意図(いと)無ければ罪も無しか」   浜 矩子(はまのりこ) 

 東京新聞 2013年1229日



「もとより、中国あるいは韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」。
十二月二十六日、靖国神社参拝後に安倍晋三首相がこういった。

 この発言を含む首相談話の英語版が、首相官邸のホームページに掲載されている。上記の英語バージョンは次のとおりだ。
 It is not my intention at all to hurt the feelings of the Chinese and Korean people.

 日本語の「考えは毛頭ない」に相当する部分が It is not my intention at all の個所だ。 intention は「意志」あるいは「意図」の意味だ。

 「そんな意志は全くございません」「そのようなことは、全然意図しておりません」。こういう言い方を聞くと、たちどころに歯が浮いてかなわない。実に誠意がない。こんなふうにうそぶく人々は、およそ、何をたくらんでいるか分からない。実に腹立たしい。

 意図してさえいなければ、どんな結果を招いていてもいいというのか。許されるというのか。こちらに傷つける意図がなければ、相手は決して傷つかないとでも思うのか。あるいは、こっちが意図していないなら、傷つく方が悪いというのか。勝手に傷つくなら、致し方ない。知ったことか。そういうことなのか。

 この種の発言で突っ走って行く人は、やがて、つぎのようにいうようになる。「そんなつもりじゃなかったんです」。これが出た時は、もう手遅れだ。取り返しのつかないところまで、相手を傷つけてしまっているのである。

 意図が無ければ罪はない。意図が良ければ、悪くない。傷つける意図無き者は、決して相手を傷つけない。これが大人のいうことか。人の足を目いっぱい踏みつけても、意図がなければ、相手は痛がらないのか。相手がいくら痛がっていても、「だって知らなかったんだもん」と舌を出してそっぽを向くのか。その気が無ければ、人を車でひき殺しても、相手は死なないとでも言うのか。こちらにその気が無ければ、相手はひき殺されても仕方がないのか。

 かくも幼児的感覚で、政治が執り行われていいのか。政策が形成されていいのか。

 子どもと大人の最大の違いは、どこにあると考えるか。答えは明らかだ。それは、人の痛みが分かるか否かにある。新生児には、人の痛みが全く分からない。そこから出発して、人間は次第に人の思いに心を配るようになる。そして願わくば、人の痛みを自分の痛みとして受け止めることができるようになる。そのような魂の力こそ、大人の力だ。

 皆さんはアダム・スミスをご存じだろう。経済学の生みの親だ。大著「国富論」の著者だ。彼はまた、「道徳感情論」の著者でもある。

 「道徳感情論」あっての「国富論」だった。そのようにいわれる。経済活動は、道徳的感情に根差していなければならない。ざっくりいえば、そのような理念に基づく書だ。

 その中で、スミス先生は次のように言っている。「我々は、他者の悲しみを目の当たりにして、しばしば悲しみを感じる。…このような感情は、何も高潔で人間性あふれる人々に限ったものではない…。最大級の悪者で、最も平然と社会の秩序を踏みにじるヤカラでさえ、このような感情と無縁ではない」(翻訳筆者)。そのはずだと思う。そう思いたい。だが、今、そこがかなり心配になって来ている。

信仰厚きスミス先生、どうか、我らのために祈りたまえ。
(転載おわり)「だが、今、そこがかなり心配になって来ている」と言われるその危惧がよくわかる。実は、三月程前から日々の祝詞にこう付け加えるようになっている。「辞別て白さく、一昨々年の三月十一日東北地方太平洋沖を震源とする比類なき大地震そして大津波、さらに加ふるに、福島原子力発電所爆発によるかつてなき放射能の拡散のさまに、青人草恐れおののきをるに、その源たどれば、金を先んじ諍ひ世の常と成し人の命軽んじて顧みぬ穢き企み世にはびこること明らかになるに及びたるは、諍ひの源祓ひ清め、世の萬の皆々心ゆるやかに和み合ひ、神の心の人の心なる世に移り行かしめ給ひて諸人たちの身も心も平穏に守り恵み幸へ給へと畏み畏みも乞祈み奉らくと白す。」切にそう思う。私如きがそう祈らずにいられないくらいなのだから、同じ思いは世に充満しつつ在るに違いない。なんとしても祈りを届けねばならぬ。昭和天皇の世界認識の確かさに思いを致しつつ、そして今上天皇皇后両陛下の平和への願いを深く身に体しつつ。

必中 磐山人.jpg