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田中角栄は日米エスタブの暗黙の“共謀”によって殺された!ロッキード事件の“真の黒幕”たちの姿


どうして今の自称「インテリ」は「立花隆」を「知の巨人」などと勘違いするのか?
世界基準で恥ずべきことだ。
(ゴロツキ評論家?ともいわれる「立花隆」は「知の巨人」などではない、DSの「パシリ」である。
「780」 角栄失脚・最後の真実 (1)   「日本の独立を急ぎすぎた国民政治家(ポピュリスト) 田中角栄。角栄は、日米エスタブリッシュメントの暗黙の“共謀”によって殺された!! ロッキード事件30年後に確定した、ロッキード事件の“真の黒幕”たちの姿」  2006.08.03
<<緊急レポート>>角栄失脚・最後の真実  「日本の独立を急ぎすぎた国民政治家(ポピュリスト) 田中角栄。角栄は、日米エスタブリッシュメントの暗黙の“共謀”によって殺された!! ロッキード事件30年後に確定した、ロッキード事件の“真の黒幕”たちの姿アルルの男・ヒロシ(中田安彦)記 2006.8.3記

今年(2006年)7月27日は、田中角栄元首相が、外為法違反の容疑で東京地検によって逮捕されてからちょうど30年になるらしい。7月27日に向けて、新聞各紙は各紙それぞれの視点で、「田中元首相が米航空機メーカー・ロッキード社からの民間機売り込みのための賄賂としての現金5億円を商社・丸紅を通じて受け取ったとされる贈収賄事件」を振り返る特集を組んでいた。

結局、田中角栄は、最高裁判所に有罪の判決を不服としている最中に死んでしまったので控訴は棄却され、角栄有罪の決め手となった、ロッキード社のコーチャン前副会長の嘱託尋問(しょくたくじんもん)の妥当性についても、平成7年にこの嘱託尋問書の「証拠能力無し」との判決によって、裁判においては田中角栄は“無罪“だったということになる。

しかし、ジャーナリストの立花隆氏や、嘱託尋問を担当した堀田力(ほった・つとむ)検事の著作などにより、一般的には「田中角栄はロッキード事件で有罪になったことで政治声明を断たれた」「日本政界の金権体質は角栄に始まる」と認識されているようである。

だが一方で、このロッキード事件には、発覚の直後から、「田中角栄がロッキード事件に絡んで訴追されたのはアメリカの謀略が背後にあった」という議論が多くなされている。

これについては、

(1)田中角栄が「日中国交正常化」をアメリカに先駆けて72年9月に行ったこと、(2)アメリカのメジャーを通さない独自の資源外交を角栄が目指していた点

を中心に説明される。

この議論を呼び起こすことになった直接のきっかけは、元テレビ東京プロデューサーで現在は「サンデー・プロジェクト」(テレビ朝日系)の司会者として有名な田原総一朗氏が「中央公論」(1976年7月号)に書いた『アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄』というレポートの登場であった。

実際に田中角栄の行動を調べていくと、アメリカの外交政策に挑戦していると見える点が数多く上がっており、この謀略があったという議論に拍車を掛けている。

ところが、最近になって、突如、「角栄失脚にアメリカの陰謀など存在しなかった」とする元ロイター通信記者の徳本栄一郎氏の本が出版され、再び角栄失脚の真の原因(黒幕)論議に火がついた。

ここで私は、ロッキード事件30年を期に「ロッキード事件の真の黒幕たち」の議論に決着をつけようと思う。

===

結論からいえば、「角栄失脚は、アメリカのエスタブリッシュメントと日本のエスタブリッシュメントたちが皆で共謀して“ポピュリスト”(反エスタブリッシュメントを暗黙のスローガンに掲げ人民の支持を獲得する民衆政治家のこと)であった田中角栄の押しつぶしに加担していた。昭和天皇ですらこれに暗黙に同意している節がみられる。

それだけ角栄の登場は極めて日米エスタブリッシュメントのインナーサークルにとって予測不可能な脅威であった。

そして、角栄潰しに奔走した、この事件のキーパーソンとしてはアメリカ側では、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官・チャールズ・パーシー上院議員が、日本側のキーパーソンとしては、中曽根康弘・宮澤喜一の二人が挙げられる。

もちろんそれ以外にも多くの人物がこの事件の登場人物(アクター)として登場する。(一番したの図表を参照せよ)

しかし、ロッキード事件の真相を解明していく場合、この4人を中心に考えていかなければならない。多くの論考は、それ以外の瑣末な人物の行動を取りあげている。日本における、ロッキード事件の解説本は、アメリカ側にあまり光を当てていない。これは次に示す理由によって、大いに問題である。

日本側のロッキード事件の研究者は殆どの場合、ロッキード事件がアメリカのリチャード・ニクソン大統領を退陣に追い込んだウォーターゲート事件から派生してきたものであることや、ウォーターゲート事件によって、アメリカの政財界の勢力分布の組み替えが行われたことをほとんど無視したうえで、あくまで日本の情勢だけに注目して議論を進めている。

20世紀の後半の世界情勢は、アメリカの国家戦略によって動かされてきたことは、多くの異論の無いところであり、アメリカの政治情勢の変化が、最大の同盟国であった日本に波及してくることも容易に頷けるところであろう。

ウォーターゲート事件で失脚したニクソンの懐刀であったヘンリー・キッシンジャーと、ロッキード事件で灰色高官の一人として取りざたされた中曽根康弘議員は、どちらも二つの政治スキャンダルを生き残り、その後もその前以上に政治的影響力を持つようになった。角栄失脚後の日米関係の扇の要になったのは、キッシンジャーと中曽根の個人的関係による所も大きい。

なぜ、この二人が生き残ったのか。それには必ず合理的な理由があるはずである。二つ事件の発覚で利益を得る権力者達が存在していたことを本稿では明確にする。

すなわち、この利益を得た権力者達が裏で糸を引くことで、二つの政治スキャンダルが明るみにでたのである。

<ポピュリスト 田中角栄>

本稿を執筆するにあたり、大いに参考になった本がある。それは元参議院議員の平野貞夫氏による『ロッキード事件 「葬られた真実」』(講談社刊)と『昭和天皇の極秘指令』(同)という本である。

本稿における、日本国内の政治情勢、ロッキード事件の推移については、この2冊を大いに参考にしている。著者の平野貞夫氏は、1935年高知県生まれの政治家で、1965年に園田直衆院副議長秘書、1973年からは、衆院議長の前尾繁三郎(まえお・しげざぶろう)の秘書を務めた。2004年の政界引退まで、「野党の野中広務」と恐れられた人物である。

ロッキード事件を題名に含んでいる方の本は今年8月初旬に発売されたもので、『昭和天皇の極秘指令』は2004年に刊行されている。後者も、ロッキード事件とその後の「ロッキード国会」の描写に内容の多くを割いている。平野氏は、田中角栄の政治家としての人となりとして、次のように書いている。

(引用開始)

保守合同によって自民党が誕生したとき、田中角栄は三七歳だった。なぜ政治家になろうと思ったのか、その動機はいまひとつはっきりしない。ただ、戦争体験が大きな影響を与えたことだけは確かのようである。

田中は敗戦を朝鮮半島の工事現場で迎えている。日本が戦争に負けたからには、一刻も早く故郷に帰りたいと思うのが人情だが、現実は甘くはなかった。(中略)

生まれ持った運の強さで、一面焼け野原の東京に舞い戻ったのは敗戦後一〇日目。飯田橋駅近くの自宅や、経営する田中土建工業は戦禍を逃れて無事だった。こんな所でも運が味方していたのだが、このとき田中は、「神様の思し召しと、これからは世のためになにかしなければならない」と心に決めたという。

(28歳で)衆議院議員に当選した三ヵ月後、本会議ではじめての演説を行う。

「国会議員の発言は、国民大衆の血の叫びだ!」

壇上に立った田中は、全身全霊を込めて絶叫した。高等小学校を卒業して一五歳で上京し、夜間学校に通いながら建設会社の下働き
や出版社の見習いなどで働き、弱冠二〇歳で経営者となり、二八歳で衆議院議員に当選した晴れ舞台というわけである。それにしても、この演説の意味は深い。

昭和九年三月に一五歳で上京するまで、彼は明治以来の近代国家日本の形成過程で生まれた「裏日本」(昭和四〇年代まで、国会でもこの言葉が使わ「裏日本」に住む人問を貧困から解放するため
には、「裏日本」の犠牲のうえに「表日本」の繁栄が成り立つという構造を打ち壊す必要があった。そこで、農工商が一体となって発展できる国土の再編と、均衡のとれた日本列島の再利
用を目指したのである。

田中にとって、「裏日本」とは新潟だけを指していたのではないだろう。近代日本が志向した中央集権国家という体制によって、政治の恩恵に浴することが少なかった多くの地域を「裏日本」と考えていたはずだ。この演説は、「裏日本」に住む人びとの人間性の復権と生活の向上、そして安定を願った言葉だった。

『昭和天皇の極秘指令』(26-27ページ)
(引用終わり)

この部分を読むと、田中角栄という人が、高等小学校を出て上京し建設会社を起こしたというたたき上げの人物であったと言うことが分かる。角栄が失脚した原因を理解するためには、この角栄が「裏日本」の最下層の出身者であることを踏まえておかなければならない。

この角栄の経歴とパラレルとなって、アメリカの中心部である東海岸の出身ではなくちょうど反対側に属するカリフォルニア出身のリチャード・ニクソンの存在がある。角栄とニクソンにはどこか通じる所がある。角栄とニクソンの二人を取りあげた書籍も出ている。(『頂きに立て!田中角栄とR・ニクソン』)

ニクソンの場合はそれでもデューク大学という大学を出ているが、田中角栄は小学校卒である。

彼は「ポピュリスト」と言われるタイプの政治家である。この言葉は日本ではかなり間違った意味合いで使われている。

侮蔑的に使用されているという点では正しいのだが、この言葉はある国の一定の支配層が非常に恐怖をもって相手を罵るときに使われているという点を日本人は殆ど理解していない。「あいつはポピュリストだ!」という場合には、「あいつは正統的な支配体制の秩序を揺るがしかねない危険人物である」という意味が常に込められている。日本のように「大衆迎合的な人物」という軽い意味ではないのである。

歴史上アメリカ国内で、このポピュリストとして、権力者層から恐れられていた人物としては、国務長官まで務めたウィリアム・ジェニングス・ブライアンと、ルイジアナ州選出上院議員で在職中に暗殺されたヒューイ・ロングの名前が知られている。ブライアンは農民の側に立って、アメリカの金融資本の肝いりで第一次世界大戦の戦費となるドル紙幣を無限に刷り散らかすために作られた、「アメリカ連邦準備制度(フェデラル・リザーブ・システム)」を批判し、ヒューイ・ロングは、モルガン、ロックフェラーなど巨大資本の独占支配に敢然と立ち向かった民衆政治家である。ヒューイ・ロングは、叩き上げの政治家であり、角栄同様に金権政治ぶりが激しく批判された人物である。

ロングが公共工事を支配することで、富の再分配を行ったことは、ルイジアナ州民には高く評価されている。新潟県民に新幹線を引っ張ってきた角栄が評価されているのと同じ構図である。

それで、ポピュリスト政治家として、現在真っ先に思い浮かぶのが、ヴェネズエラのフーゴ・チャベス大統領である。軍人出身のチャベス氏は、1980年代以降推進された新自由主義経済改革と、民主行動党とキリスト教社会党の二大政党制、富裕層や労働組合幹部に独占されていた医療や福祉に不満をもつ貧困層の圧倒的支持を受け1999年に大統領に選ばれた。

大統領就任後、チャベス政権はボリーバル憲法と呼ばれる新憲法を制定し、大統領権限の強化、一院制への移行などを行った。貧困層のための無料診療制度をととのえ、キューバから2万人の医師・歯科医師の派遣を受けたり、農場主の土地を収用して農民に分配するなどの農地改革や、為替管理や統制価格の導入、石油公団 (PDVSA) への統制強化など、反米・社会主義路線を明確にした人物である。(ウィキペディアより)

チャベス政権は、2002年4月にアメリカ政府が仕掛けたと言われる、クーデター事件で一時的に崩壊。親米派のカルモナ大統領が就任するが、クーデターがアメリカの謀略であることがバレてしまい、カルモナ大統領らはアメリカに亡命している。このアメリカの仕組んだクーデターの背景にはヴェネズエラの豊富な原油資源を巡る暗闘があったといわれている。

ヴェネズエラといえば、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーなどアメリカのメジャー会社が20世紀の前半に進出した地域であり、スタンダードの裏庭のような存在であった。2001年末にはチャベス大統領は、大規模な私有地の農民への分配、石油産業への国の統制の強化などを含む一連の新法を成立させた。これは、石油メジャーとベネズエラの富を支配する財界の利権とぶつかる。

チャベス政権は、現在も反米的姿勢を露骨に見せている。最近もイラン、ロシア、中国などの国々と「反米主義」を旗印に反米ブロックの結成を行うため積極外交を行っている。

ここで押さえておいてほしいのは、チャベス政権が既存のヴェネズエラ国内のエスタブリッシュメントとは異質の系譜に属し、福祉政策によって民衆の支持を得ている政治家であるというところである。かの田中角栄と非常に似ているであろう。

それでは、田中角栄はチャベスと同じように、アメリカの利権とぶつかるような政策を取り、そのためにアメリカによって失脚させられたのだろうか?この点が、当然疑問として起こってくるだろう。次に、日本の首相として田中角栄がどのような外交政策を取ったのか。これについて見ていくことにしよう。

ここでひとまず、平野貞夫氏の書籍から離れ、田中角栄という政治家がどのような政治家だったのかを振り返る。

<アメリカの虎の尾を踏みまくった田中角栄>

田中角栄の外交政策とアメリカの関係を取り扱ったレポートしては、田原総一朗氏の『アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄』(中央公論・1976年7月)に始まる一連の連載が存在する。このレポートは、伝聞によっているところが多いので証拠能力に欠けるという主張(徳本栄一郎氏)もあるが、角栄の外交政策を眺めるには適していると思われるので、参照していくことにする。

徳本氏によると、この田原総一朗氏のレポートには、「田中角栄の資源外交がアメリカの虎の尾を踏んだため角栄は失脚させられた」と書いてあるという。私も原文を取り寄せて読んでいる。

今回、改めて読み直してみたが、ここでは田中角栄の「資源外交」に関する事実の部分を抜き出しておくことにする。田原氏によれば、田中角栄が独自の資源外交を行ったとされるのは、以下の外国訪問である。読んでみると角栄の外遊は日本の資源の自立外交であったことが容易に理解できる。やや長いが田原論文の引用を行う。

(引用開始)

一九七二・八・三一  ニクソン大統領と会談(ハワイ)/九・二五  毛沢東・周恩来(北京)

一九七三・七・二九  ニクソン大統領   (ワシントン)/九・二六  ポンピドー大統領  (フランス)、ヒース首相(イギリス)、ブラント首相(西ドイツ)/十・十   ブレジネフ書記長、コスイギン首相   (ソ連)

さらに、翌七四年一月には東南アジアの国国をまわり、九月には、メキシコ、ブラジル、カナダをまわり、十月から十一月初旬にかけてオーストラリア、ニュージーランド、ビルマへ、首相としての最後の外遊をしている。

資源外交なる外遊の軌跡は、当時の新聞の縮刷版から拾ったのだが、田中角栄氏が会談した大統領や首相の名前を列記してみて驚いた。ニクソン大統領(一九七四・八・九、辞任)、周恩来首相(七六・一・八、死去)、ポンピドー仏大統領(七四・四・二、死去)、ヒース英首相(七四・三、総選挙で労働党に敗れて政権交替)、プラント西独首相(七四・五・六、側近が東独スパイだったことが判明して辞任)。

さらに、田中角栄氏がウラン鉱とウラン濃縮の共同開発をやろうと持ちかけたオーストラリアのホイットニラム首相も七五年十一月十日、ジョン・カー連邦総督によって解任され、その後の選挙でホイットラムの労働党は敗れてフレーザー首相の親米政権が樹立している。そして田中角栄氏自身が金脈問題で七五年十一月二十六日に辞任。

なんと、田中角栄氏を含めて七人がわずか二年ばかりの間に死去ないしは失脚しているのである。これは、偶然という言葉で片付けるには意味がありすぎる。ニクソン、周恩来、そして田中角栄氏についてはここでは触れないが、新聞記事を拾っただけでも、ポンピドー大統領は、「ヨーロッパの将来決定にアメリカの参加はいらない」とまでいいきり、西ドイツ、イギリスもアラブやソ連に接近してアメリカと激しい確執を起していたことが容易に読みとれるし、オーストラリアのホイットラム政権の瓦解にはウラン資源の発掘権をめぐってアメリカの多国籍企業とCIAの黒い手が動いたと取り沙汰されている。

「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(164-165ページ)
(引用終わり)

以上は、田原氏の初出論文からの引用である。

徳本氏の本には、田原氏の発言として石原慎太郎・都知事との対談本『勝つ日本』から、「オイル・メジャーに頼ることなく、自前のエネルギー戦略を持とうとした」田中角栄が、アメリカの国家利益と衝突し、74年に訪問したタイやインドネシアでは、激しい反日暴動が起き、宿舎から出られなくなった角栄は、インドネシア政権の要人と石油ビジネスの話ができなかったという部分が引用されている。(徳本152ページ)該当箇所を、田原氏のレポートから引用する。

(引用開始)

一月四日、キッシンジャー国務長官、「自国の都合だけを考えて石油危機と取り組もうとする日本の試みは、産油国の価格つり上げと、消費国による原油獲得競争を誘発するだけで、自殺行為である」
一月七日、田中首相、東南アジア歴訪の旅に出発。同日、午後、三木副首相、日本の対アラブ政策についてアメリカに理解を求めるために訪米。
一月九日、田中首相バンコク入り、学生五〇〇〇人の激しい反日デモ。

一月十五日、田中首相をむかえてインドネシア、ジャカルタで学生、民衆による反日デモ暴動化、軍隊出動。

一月二十四日、インガソル国務次官補、東京で記者倉見、日本の対米外交のあり方に警告を発し、内定していたはずのニクソソ訪日、天皇訪米の計画を否定。日本、ワシントンの石油消費国会議出席を決める。

二月十一日、石油消費国会議、十三ヶ国閣僚が出席。大平外相、自立路線を放棄、対米協調路線を表明。

二月十三日、キッシンジャー・大平会談。天皇訪米内定。

「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(173ページ)
(引用終わり)

田原氏は、国会議員の渡部恒三氏の話として、「‥‥過去何度も暴動を経験している中国人たちの情報によると、暴動グループは日本人の住所録を用意していた。マッチを手に、日本大使領員宅をめざして押しかけたグループもいた。…暴動現場では、中高校生が前面にいたため、治安を担当した軍隊も手を出せなかった。中高校生は鎮圧を妨げ、騒ぎを大きくするための、実戦部隊として組織的に使われていた疑いが濃い」(七四年一月二十二日、『東京新聞』)と書いている。

さらに、田原氏は、田中角栄の資源外交の究極の目的として、外交手段による新しい大東亜共栄圏の構築があったとして、次のように田中ブレーンの小長啓一氏(こながけいいち)の発言を出している。田原氏のレポートから更に引用。

(引用開始)

小長啓一氏は、田中角栄氏の「南北構想」をさらに具体的に絵解きしてくれる。

「アジア太平洋構想というのがありましてね。太平洋はオーシャンではなくて庭だ。キッシンジャーの持っている世界地図には海がないそうです。軍事的、資源的な視点に立てば、海も陸もありませんからねえ。田中さんの発想もその点は同じだったが、田中さんは、だからこそ、アジアが団結し、自立して、アメリカ、ソ連などの大国にむかうべきだという意見だったのです。中進国構想ってやつでしてねえ。中進国が結束して大国に対峙する。そのための会議、アジア太平洋会議を日本の手で開催する、というのが田中角栄さんの夢でしてねえ、いまとなっては、まぼろし的存在になってしまいましたが‥‥」

まぼろしのアジア太平洋構想。アメリカ抜き。ソ連抜き。中進国が結束して大国に対峙する。アジアの自立‥‥。(中略)

たとえば、反日暴動の洗礼を受けながら、田中角栄氏がインドネシアのスハルト大統領との会談でまとめた主なものはLNG開発、アサハン計画、ロンボクのCTS基地建設などである。

小長氏は、田中・スハルト会談で、特に、これまでの日本・インドネシアの関係を改めて、新たなる関係づくりをすべきだと、強調されたという。だが、「これまでの関係」「新たなる関係づくり」といわれても、わたしにはピンとこない。そこで、「これまでと「新たなる」の違いをしつこく問い直すと、小長氏は、「つまりは古いルートを切ること」だといった。

それでは、「古いルート」とは何なのか。(中略)「古いルート」とは、実はアメリカを指していたのではなかったのか。そして、「古い関係」とは、アメリカがらみの関係のことであり、「これまでの関係を改めて、新しい関係をつくる」とは、「米、日、インドネシア」という関係から、「米」をはずした「日、インドネシア」という関係に切りかえようということではなかったのだろうか。

「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(175-178ページ)
(引用終わり)

田原氏が、田中角栄の資源外交を「大東亜共栄圏」と呼んでいるのは非常に興味深い。実は、大東亜戦争(太平洋戦争)に日本が突き進んだ直接の原因は、南部仏印進駐による、アメリカのスタンダード石油の天然ゴムと原油資源の採掘権を巡る問題があったと分析するアメリカの経済史学者もいる。(マレー・ロスバード)

実際のところ、田中はフランスに対してもニジェールのウラン鉱の獲得やウラン濃縮の共同開発で歩調を取ろうとしていたわけだから、大東亜共栄圏どころの騒ぎではない。いずれにせよ、田中がアメリカからの自立を目指して、自覚的に資源外交を行っていたことは事実である。全ての戦争は何らかの利権を巡って発生すると言っていい。角栄の「大東亜共栄圏」構想、あるいは東アジア共同体構想はアメリカから徹底監視されたはずである。

<日本の太平洋構想の微妙な変化>

面白いことに、田原総一朗氏は、この雑誌論文の後の1980年に発表した著作、『日本のパワー・エリート』(カッパビジネス)の中で、田中のアジア太平洋構想が形を変えて「太平洋コミュニティ構想」としてスタートしたことを明らかにしている。

該当箇所を引用してみよう。ここでは日本側の重要人物として、宮澤喜一、大来佐武郎の二人が登場する。宮澤は田中政権に続く三木内閣の外相、大来は次いで登場した大平政権の外相である。

まず、田原氏は、ハト派の旗手だったはずの、宮澤喜一が突如、三木政権の外相に就任した後で、タカ派に豹変したことを怪訝がりながら書いている。

宮澤が、田中政権の木村俊夫外相の「北朝鮮は脅威に非ず」発言を逆手にとって、「朝鮮半島の情勢は、心配あり」と国会答弁したことなどを挙げている。今は北朝鮮が脅威と答弁するのは政治家にとって常識なのかもしれないが、あの当時はこの程度の変化でも「豹変」と言われることだったのである。

田原氏は「宮沢は、突然アメリカが見えるようになった」言っている。該当箇所を引用してみよう。

(引用開始)

当時の新聞を見ると、キッシンジャー国務長官、インガソル次官、そしてフォード大統領がじきじきに、くり返し日本政府の(注:角栄の外交)政策を、「世界を乱す、無責任で危険な政策」だと非難しており、その非難の強烈さ、そして頻度の激しさに、あらためて驚かされる。もちろん、米政府首脳が非難しているのは、田中政権の政策だった。(中略)

「彼は、どんなきっかけがあってかはわからないが、なにかを敏感に察知したのでしょうな。そこで、ハト派のレッテルを自らあっさりとはがした。」

宮沢喜一と二十年来のつき合いだという新聞記者は、首をかしげながらいった。

-敏感に、なにを察知したのですかP

「たとえば、彼の外交が、アメリカでたいへん歓迎され、評価されているという事実がある。おかげで、こじれていた目米関係はおおいに修復された。」

-アメリカの意向に合致した?

「じつはね、彼の外相就任も、三木首相は田中時代から引き継いで木村俊夫を考えていたのだが、アメリカ筋が、宮沢を強く推したのだということです。」

-宮沢喜一の豹変のきっかけはなんです?.なにがあったのですか。
「それがわからない。だけど、宮沢のふっきれ方を見ていると、なにかがあったにちがいない。そう思いますよ。だけど、それがなになのかはよくわからない。」

宮沢喜一をハト派からふっきらせたもの…、彼と親しいある評論家は、「なぜか、宮沢喜一が、アメリカに対して、たいへん自信を持ったようだ。」と語った。その自信が、彼をふっきらせたのではないか、というのである。

げんに、彼の外交は、アメリカで歓迎され、評価されているようだ。それでは、なにが、宮沢喜一に、アメリカに対する自信を強めさせたのか。なにゆえに、彼はアメリカが見えるようになったのか。

ここまでくれば、ポカンティコの会合を考えないわけにはいかなくなる。

『日本のパワー・エリート』(214ページ)
(引用終わり)

以上引用した中で、ポカンティコの会合というものが突然出てくるので、読者の中には「何じゃこれは」と思われる方がおられるだろう。

「田中角栄に通産相の椅子を奪われて惨憺たる状態だった宮沢喜一と、外相としての颯爽たるデビューとのギャップ。ハト派の論客とタカ派外相とのギャップを埋める鍵は、おそらくポカンティコの会合のなかに潜んでいるのだろう」というのである。 宮澤喜一のタカ派への豹変の鍵はポカンティコの会合にあったと書く。

このポカンティコというのは、NY郊外にある、アメリカの金融資本家のロックフェラー家のレジデントの一帯を指しているのだが、取りあえずここでは先に進む。

いずれ登場するので、「ポカンティコはロックフェラー邸宅であり、1972年7月に宮澤喜一と大来佐武郎という二人ののちの外相経験者を交えて会合が開かれた」とだけ覚えておいてほしい。

次に、田原氏は大来について、「アジア太平洋コミュニティ構想」との関連で取りあげている。それを引用する。

(引用開始)

宮沢喜一が、アメリカに飛び韓国に飛んで、(注:角栄が生みだした外交政策の)ギクシャクを修正していたころ、政府の肝いりで、日本のおもだったシンクタンクを結集して、大がかりな調査・研究がスタートした。日本の二十一世紀へ向けての”国策”を集大成しようという大プロジェクトである。

総合研究開発機構(向坂正男理事長)がまとめ役となり、野村総合研究所、三菱総合研究所、政策科学研究所、日本経済調査協議会など十四の民間シンクタンクが参加している。

そして、その躍国策4の柱の一つとなったのが、“太平洋コミュニティ構想”だった。

“太平洋コミュニティ構想“つくりの中心となった野村総研の佐伯豊社長(当時)は、説明する。

「日本の発展は、アジア・太平洋地域に託す。そして、日本の安定は、アメリカを中心とした日・米・欧の関係に託す。この二本のパイプを確保し、そのバランスを維持していかないと、日本は、糸の切れた凧になり、孤立し、世界から袋だたきにあう。」

“太平洋コミュニティ構想“といえば、当然ながら、読者は、田中角栄のアジア・太平洋構想を想起されることだろう。だが、田中角栄の構想と、“太平洋コミュニティ構想”とは、一点、決定的にちがう部分がある。

田中角栄構想には、アメリカは含まれていなかった。むしろ、アジアの先進国が結束して、米ソ両国に対置する、という考え方だった。ところが、”太平洋コミュニティ構想”はアメリカが入る。このちがいは重大である。(中略)

“太平洋コミュニティ構想”を、さらに迫ってみよう。

総合研究開発機構が発表した段階では、この構想は、まだ私的な一試案でしかなかった。

ところが、七八年十一月、自民党総裁選のときに、大平正芳が、“太平洋コミュニティ構想”を発展させた“環太平洋連帯構想”なるものを、彼の政策として打ち出すのである。

そして、一般の予想を大きく裏切り、福田赳夫を大破して、総裁の椅子を獲得した。こうして、“太平洋コミュニティ構想”いや、”環太平洋連帯構想”は、正式に、日本政府の政策となったのである。(中略)

大平正芳は、東京サミットを無難にこなすと、いよいよ、”環太平洋連帯構想”を、正面に高く掲げはじめた。と同時に、議席のない大来佐武郎を外相に起用した。

じつは、それまで大来佐武郎は、大平首相の私的諮問機関である「政策研究会・環太平洋連帯研究グループ」の議長をつとめていたのである。(後略)

『日本のパワー・エリート』(216-221ページ)
(引用終わり)

以上の引用の中で、田中角栄の「大東亜共栄圏」構想が、「環太平洋連帯構想」に変わったのは大平内閣時代の1978年である点、この動きにはポカンティコ会合に参加したもう一人の日本人、大来佐武郎が関与していると田原氏が書いている点に注目しておいてほしい。

<ポカンティコ会合とは何か>

それでは、次にポカンティコ会合とは何なのかという疑問が当然湧いてくるだろう。1972年の7月にポカンティコでいかなる会合が開かれたのか。ここで結論を先取りして言ってしまうと、この会合で、日米欧のラウンドテーブルである民間組織である「日米欧三極委員会」が結成されることが決まったのである。この会議は日米欧の政府関係者、民間人が密室で胸襟(きょうきん)を開いて語り合うことで、世界政治のマクロ・ミクロな政策形成の意志一致を行っていると言われている。


ポカンティコのゲストハウス

会合に参加していた、3人目の日本人は、日本国際交流センター(JCIE)理事長の山本正氏である。この山本氏と、現在のロックフェラー・グループの頂点に立つ、デヴィッド・ロックフェラー氏(現91歳)が当時について91年末に語り合った本(『21世紀に向けて』)から日米欧三極委員会創設の部分を引用する。

(引用開始)

山本 デービッドは、一九七三年にこの日米欧委員会を始められたときに、どのようなことを意図されていたのですか。

ロックフェラー この考えは、一九七二年に私が行ったスピーチに基づいています。チェース・マンハッタン銀行が開催した欧州各地を回る産業フォーラムで、私は国際環境が目まぐるしく変化する中で、各国政府は目先の問題を振り払うのに懸命で、将来の計画を立てるための十分な時間などないのではないかと指摘しました。これを受ける形で、非共産国のオピニオンリーダーが集まって、こうした問題に取り組むのは意義深いのではと考えたわけです。この案は当時あまり関心を呼ばなかったのですが、いくつかのマスコミがこれを取り上げました。その結果・ズビグニュー・ブレジンスキー(米元大統領補佐官)やハーバードの国際関係学部長のボブ・ボーウィー、ブルッキングス研究所のヘンリーオーエンなどが私に会いにきました。

彼らは、同じようなことを考えており、特に、北米、欧州間の協力が不可欠だという点を強調しました。

それからその春・ブレジンスキーと私がベルギーで、ビルダーバーグ・グループの会議に参加しました。ビルダーバーグは大西洋コミュニティーや大西洋機構に関心のある人たちで運営されていて、各国間の違いを越えて、いかにしてその同盟関係を強めていくかについて、大西洋コミュニティーの民問人たちはもっと考えるべきだという点で、われわれと同様のアプローチをしていました。これに日本を加えれば道理にかなうし、それこそわれわれが話し合っていたものになると、私とブレジンスキーは思ったのです。

そこで私はこの会議でそのことを提案しましたが、ものの見事に拒否されてしまいました。ほとんど賛同を得られなかったのです。彼らは気心の知れた仲間たちで、ほかのことにはじゃまされたくないと思ったのかどうか、ともかく、賛成しませんでした。

帰りの飛行機の中で、私とブレジンスキーは、「われわれ自身で何か始めるべきだ」と話し合いました。当時コロンビア大学で教えていた彼に、私は「もしこのプロジェクトが始まったら、しばらく休みをとって責任者になってくれないか」と頼みました。二人とも、外交間題評議会のディレクターを退任したばかりだったジョージ・フランクリンも、役に立つ人物だと考えました。とにかく必ず日米欧三地域からのグループを取りまとめたほうがいいということで一致していました。

そこで、今われわれがいるこの館で会合を催し、三地域からの有力者を集めました。宮沢喜一氏をリーダー格に大来佐武郎氏、タダシ(山本正氏)らが日本から参加しました。ヨーロッパからは、欧州共同体(EC)の副委員長を務めていたギード・コローナ氏、欧州共同体大学学長のマックス・コーンスタム氏、西独連邦議会のリーダーの一人だったカーク・カーステンス氏、アメリカからは、フォード財団理事長のマクジョージ・バンディ氏、ブルッキングス研究所のヘンリー・オーエン氏、外交問題評議会理事長のベイラス・マニング氏らが参加しました。

現在、オービリン大学学長のフレッド・スター氏と現在国際経済研究所長のフレッド・バーグステンの二人を記録係に頼んだことも覚えています。

二日間の会議でしたが、われわれはこれは試みるに値するすばらしい案だという点で合意しました。これは三年間ぐらい費やして実行すべきことだが、同時にまず、特に日本に関しては政府に好意的に受け止められるかどうか、実行可能かどうか試してみる必要があるとも感じました。そのころ宮沢氏は閣僚ではありませんでした。また、三地域のどれもに、ディレクターと国内実行委員会を設置し、それぞれの地域からメンバーを選ぶようにすべきだとも考えました。

そこで、日本が賛同するかどうかが鍵になると思いました。

七二年六月、この館での会議の後、私たちは日本に行き、当時の田中角栄蔵相と福田赴夫外相に会い、かなりの時間話し合った結果、彼らの賛同を得ることができました。

当時アジア開発銀行総裁を退任したばかりだった渡辺武氏を日本の委員長にしたらどうかとの提案があり、依頼することにしました。

また、ECにおいて卓越した経歴を持つマックス・コーンスタム氏にヨーロッパの委員長に、米政府の要職にあった経歴を持つ弁護士ジェリー・スミス氏にアメリカの委員長になってくれるよう依頼しました。

こうやって、日米欧委員会は始まったのです。

『21世紀に向けて』(読売新聞社・141-144ページ)
(引用終わり)

この中でデヴィッド・ロックフェラーは、田中角栄蔵相と福田赳夫外相に会って、話し合いを持ったと回想している。

田中角栄の資源外交が1972年8月のニクソン会談の後ににわかにスタートするまさに直前である。

そして、角栄はロッキード事件に巻き込まれる。その後は、三木政権の宮澤外相、大平政権の大来外相とポカンティコ会合参加組が外交のトップに立つ。

つまり、角栄は自らの推進する「環太平洋共同体」が、アメリカのロックフェラー・グループの推進する「日米欧三極委員会」に主導権を握られる可能性を想定しており、アメリカ以外の国との交流を強めることでその流れを牽制していた。だとすれば、田中は少し急ぎすぎた。あくまでこれは仮説であるが、そのように考えられるだろう。

田中角栄は、1974年に立花隆が暴いた金脈問題で、外国人記者クラブに引きずり出されたときに、「あれはロックフェラーのしわざなんだ!」と聞こえよがしに吐き捨てたといわれている。日本政界、スポーツ界に詳しい、ジャーナリスト、ロバート・ホワイティング氏の『東京アンダーワールド』(文庫版・268ページ)にそう書いてある。

仮説:田中はロックフェラーの虎の尾を踏んだので失脚した。アメリカと日本の両国に田中の独自外交を快く想わない人がいた。この仮説を本稿では、公開情報に基づいて証明する。


三極委員会1979年の主要メンバーの一部:非公式の組織ながら牛場信彦元駐米大使の名前もある(A・サットンの著作より)

<徳本栄一郎氏の反論:ロッキード事件はアメリカの陰謀ではない>

そうなると、ここでロッキード事件の背後でアメリカが陰謀を巡らしていたと言う主張に反対する論者に対して反論することが必要になってくる。

そこで、再三、名前に言及してきた、元ロイター通信記者の徳本栄一郎氏の一連のロッキード事件関連の著作に言及しなければなるまい。

徳本氏が最初に具体的に「ロッキード事件」について書いたのは、光文社から2004年末に出た『角栄失脚・歪められた真実』という本であるが、それをフォローする形で、「月刊現代」(2005年7月号)に『葬られたロッキード事件「アメリカ陰謀説」』を発表している。」念のために言っておくと、徳本氏はこの「ロッキード事件」の問題以外では、アメリカの経済金融戦略を批判的に論じることが多い評論家である。このロッキード問題だけが特殊なのである。

この一連の徳本氏の著作は、ロッキード事件に、CIAであれ、キッシンジャー国務長官であれ、ロックフェラー・グループであれ、そのような勢力は関わっていない、ということを主たる主張として、戦後日米関係の実像に迫ろうという試みである。ところが、彼自身、ロッキード事件の全体像についてはほとんど述べていないに等しい。アメリカの関与はなかったということだけを切々と書き続けるのである・

ところが、私はこの本が2004年末に発売されるや、すぐ購入し読んだのだが、彼が並べている「論証」の多くが、田中角栄失脚にロックフェラー・グループが関わっていないとも取り方によっては取れるものの、同時にまったく逆の結論を引き出すための論拠としても用いることが可能ではないかという印象を強く持った。

それは、彼の取材のかなりの部分が、既に公表されていて、日米関係を研究している者であれば聞いたことはある文献を持ち出していたり、あるいはその解釈が「陰謀説否定ありき」の解釈である場合や、当時の関係者にインタビューした上でその関係者が「言下に陰謀の存在を否定した事実」を持って陰謀説には根拠無し、とするやり方だからである。

関係者が現在の時点で否定ないし、コメントを拒否したからといって、その人物が本当の事を話しているとは限らない。そんな理屈がとおるのであれば、犯罪者は罪を否定することで罪を逃れることになる。当時の時点で、それ以外には解釈のしようのない客観的な状況証拠があることが不可欠である。事実の一断片を示した所で、それには様々な解釈がある場合、それは仮説に過ぎないのではないだろうか。

それでは、徳本氏の主張を要点ごとに整理してみることにする。

(1)田中角栄に対するキッシンジャー国務長官の評価問題 (2)当時のチャーチ委員会関係者、アメリカ大使館、在日外国人特派員協会のメンバーたちによる現在における証言の問題 (3)ロックフェラー・グループの問題 (4)キッシンジャーの自白を本に書いた文明子女史の問題 (5)「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」論文に対する問題。大体この5点に集約できるだろう。この5点のうち、(4)は、テレビ朝日の情報番組「ビートたけしの陰謀のシナリオ!!」(2005年1月2日放送)に対する反論の形で盛り込まれたものである。

結論から言えば、(2)と(4)は、突き詰めれば、当事者から「陰謀はなかった」というコメントを引き出しているだけであり、当事者であればこそ嘘を付くという可能性をまったく考慮していない点で信憑性がないと言うしかない。(1)や(3)、(5)は解釈の問題で、黒にも白にもつけられそうな証拠である。

順に(1)~(5)の順で、徳本氏の著作の信憑性を検証していくことにする。

(1)田中角栄に対するキッシンジャー国務長官の評価問題

(ア)キッシンジャーは角栄に好意を持っていたか?

徳本氏は1972年の6月12日に角栄とキッシンジャー国務長官が東京で会見した際のホワイトハウスの作成した議事録を持っている。あくまでこの文書は表に発表するための公式の議事録であることに注意してほしい。この前月の5月9日に田中派は佐藤栄作首相の後継者としては角栄擁立を決めているという。

6月17日には佐藤首相が退陣している。田中政権誕生は7月7日である。この時点では、角栄はキッシンジャーに自分の顔を売り込んでいると徳本氏は解説している。私もこの解説に異論はない。

以下に徳本著から会見録からさわりを抜粋する。自分がいかに日本の首相として相応しい人物かをアピールしているか判るだろう。

(引用開始)

田中(以下田) 私は、故・吉田茂の弟子だった幣原(喜重郎)首相の下で政治家としてスタートを切り、現在に至るまで吉田学校の優等生として活動してきました。ですから、25年間にわたる日本の復興で、米政府に非常にお世話になったことも理解しております。(中略)

キ 新聞で、あなたが佐藤首相の後継候補の1人だと知りました。それが本当に正しいかどうかはわかりませんが……。

田 新聞というのは常に100%問違っているものです。

キ 各候補者の間に政策的な違いはありますか。それとも主にパーソナリティの問題ですか。

田 ほとんどはパーソナリティの問題です。田中、福田、大平、三木の違いは宗旨の問題と言っていいと思います。この4人では3人が外務大臣の経験を持ち、また福田と私は大蔵大臣も経験しました。過去の首相では幣原、吉田、池田、佐藤が自民党の忠実なメンバーで、それが首相に選ばれた理由でした。もちろん、私もずっと自民党のメンバーですし、大平もそうです。

一方、福田は初出馬は無所属での当選でした。彼の政治家としての歴史を簡単に説明すると(元首相の)岸が(A級戦犯として)追放され、その後、政界復帰した後に行動を共にしたのが福田だったわけです。したがって、福田の自民党入りは岸が当選した後のことでした。

(1972年6月1.2日、ホワイトハウス議事録)

徳本著(26-27ページ)
(引用終わり)

田中角栄が、さりげなくA級戦犯の岸首相を批判し、ついでにライバルの福田赳夫をも同じくくりで批判している事が判る。非常に興味深い会見録である。さらに引用する。

(引用開始)

田 私自身、自分は物事を処理するのにうってつけの人間だと思いますが、どうも率直に話しすぎるので、偉大な政治家ではありません。

キ もし、あなたが政治家と同じくらいの能力を持つ外交官だとすれば、世界中を飛び回っていたでしょうね。(中略) 大臣、あなたは非常に率直な方であり、お話できる機会を得たことを嬉しく思います。私もこれが我々の長い関係の始まりだと思っています。

(同議事録)
徳本著(29ページ)
(引用終わり)

この会見録に対して、徳本氏は「明らかにキッシンジャーは、田中に好意を抱いていた」と評価している。私もこの時点(1972年6月)ではキッシンジャーは田中に敵意を抱いてはいなかっただろうと推測している。

ところが、この数ヶ月後の9月29日、角栄は訪中し、日中国交回復を成し遂げる。一年後には、既に見たような独自の資源外交を始めるのである。その後、キッシンジャーの田中に関する評価がどうなったのか。

この件に関しては、長らく公式の機密文書の開示がなされていなかったが、2006年になって、共同通信がキッシンジャーの田中角栄の外交手法に対する評価を述べた公式文書を機密解除された文書群ら発見した。それを報じたニュース記事をそのまま引用しよう。記事は産経新聞、ニッカンスポーツのものを採った。

 

(引用開始)72年にキッシンジャー氏 日中国交正常化に不快感 米極秘文書

「ジャップは信頼できぬ」
【ワシントン=有元隆志】一九七二年の日本と中国の国交正常化をめぐり、当時、ニクソン米政権の大統領補佐官だったキッシンジャー氏が、政権内の会合で不快感を示していたことが二十六日、米民間シンクタンク「ナショナル・セキュリティー・アーカイブ」(NSA)が情報公開法に基づき入手したホワイトハウスの極秘文書で明らかになった。
「あらゆる信頼できない者の中でも、ジャップ(日本人の卑称)が他に抜きんでている」。キッシンジャー氏は七二年八月三十一日、滞在中のハワイ・オアフ島のホテルで行われた会合の席上、日中国交正常化交渉について、こう発言。さらに「彼らは中国との国交正常化を急ぐだけでなく、国慶節(十月一日の中国の建国記念の日)を選んだ」とも指摘した。
キッシンジャー氏は七二年二月に行われたニクソン大統領の中国訪問準備のため、七一年にひそかに訪中し、周恩来首相と会談するなど、米国の対中外交で主導的役割を果たしていた。
日本政府には事前に連絡せず、頭越しに交渉を進めたが、その日本政府がニクソン訪中からわずか七カ月後に、米国より先に国交を結ぶところまできていることに驚きを隠せなかったようだ。
実際には、日中共同声明が発表されたのは七二年九月二十九日。米国が中国と国交を樹立したのは七九年一月になってからだった。
キッシンジャー氏は「鶴見清彦外務審議官が私にひそかに会いたいと言ってきたが、会わないと伝えた」とも語り、日本政府への不信感をあらわにした。
同氏は「情報報告によると、中国人はその時(国慶節)には日本人どころか、いかなる外国人も招かなかったということだ」と述べ、中国側の対応にも意外感を抱いていることをうかがわせた。会合にはバンカー駐ベトナム大使らが同席した。キッシンジャー氏はこれだけ話すと「本題」であるベトナム情勢などに話題を移したという。
(産経新聞) – 5月28日3時1分更新
(引用終わり)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060528-00000010-san-int

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キッシンジャー氏、田中元首相をジャップ

ニクソン米大統領の中国訪問など70年代の米外交政策を主導したキッシンジャー大統領補佐官(後に国務長官)が72年夏、田中角栄首相が訪中して日中国交正常化を図る計画を知り「ジャップ(日本人への蔑称(べっしょう))」との表現を使って日本を「最悪の裏切り者」と非難していたことが、26日までに解禁された米公文書で分かった。

キッシンジャー氏の懐疑的な対日観は解禁済みの公文書から既に明らかになっているが、戦略性の高い外交案件をめぐり、同氏が日本に露骨な敵がい心を抱いていたことを明確に伝えている。日米繊維交渉などで険悪化した当時の両国関係を反映しており、70年代の日米関係史をひもとく重要資料といえる。

文書はシンクタンク「国家安全保障公文書館」が国立公文書館から入手。26日の公表前に共同通信に閲覧を認めた。

ハワイで日米首脳会談が行われた72年8月31日付の部内協議メモ(極秘)によると、キッシンジャー氏は部内協議の冒頭で「あらゆる裏切り者の中でも、ジャップが最悪だ」と発言した。

続けて、中国との国交正常化を伝えてきた日本の外交方針を「品のない拙速さ」と批判し、日中共同声明調印のために田中首相が中国の建国記念日に合わせ訪中する計画を非難。首相訪中に関する日本からの高官協議の申し入れを拒否したという。

またフォード大統領訪日を直前に控えた74年11月12日付の国務省会議録(秘密)によると、国務長官も兼務していた同氏は省内会議で田中首相について「日本の標準に照らしてみてもうそつきだ」と言明した。

今回判明した発言内容に関し、キッシンジャー氏は共同通信の取材に応じていない。

[2006年5月26日18時35分]
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060526-37344.html
(引用終わり)

以上の記事は徳本氏の著作、雑誌記事が出た後に解禁された公文書に基づいている。

彼は、「キッシンジャーと田中の会談記録、国務省やCIAが作成した田中内閣の分析など膨大な米外交機密文書を読み込んだが、日中国交回復がキッシンジャーの怒りを買い、ロッキード事件をしかけられたことを匂わすものは皆無だった」と雑誌記事の中で書いている。

しかし、公開されていない部分があったということである。6月12日に、好意的であったキッシンジャーの田中角栄に対する評価は2ヶ月後には「最悪のジャップ」というものに変わっていた。これで、キッシンジャーが角栄を好意的に見ていたとする主張は崩れることになった。

(イ) キッシンジャーは本当に田中を守るための手紙を書いたか?

キッシンジャーと田中角栄の関係では、徳本氏は自著で、キッシンジャーが田中角栄を守ろうとして、当時のレヴィ司法長官に対して出した手紙を引き合いに出している。次にこの手紙が本当に角栄を守るために出されたものなのかという点を検証する。

まず、徳本氏の著作の中で該当する部分を引用する。雑誌記事の方が簡潔にまとまっており、内容の主旨は同じなのでこちらを引用しよう。

(引用開始)

75年11月19日、ロッキード社の顧問弁護士を務めるロジャーズ・アンド・ウェルズ法律事務所から、キッシンジャー国務長官に1通の手紙が届いた。

米議会が進めるロッキード社の海外不正工作の調査に介入を促す内容だった。

手紙の文面は、外国政府高官名が公表された場合、会社の株主、従業員への打撃のみならず、友好国の指導者を一方的に中傷することになると警告している。

この手紙から9日後の11月28日、キッシンジャーは、エドワード・レビ司法長官に手紙を送り、ロッキード社関連の資料公表を控えるよう要請した。

「われわれは、いかなるものであれ、これら(不正)支払いを繰り返し強く批判するものである。しかし、本事件における準備的な手続き段階において特定の外国高官の氏名、国籍を早まって第三者に開示することは、米国の外交関係に損害を与えることになる点も留意しなければならない。(キッシンジャーからレビ司法長官への手紙より)

徳本雑誌記事(122ページ)
(引用終わり)

徳本氏は、「田中を守るための手紙」とこの引用文の直前で書いておきながら、この手紙文の引用の直後に「無論、キッシンジャーは、田中に同情して介入したわけではない。東西冷戦の最中、西側の同盟国日本の、それも元首相のスキャンダルを暴露すれば無用な混乱を招く」という彼なりの解釈を書き加えておくことを忘れてはいない。

つまり、彼の見方は、キッシンジャーは日米工作に対する裏の歴史(後述する、児玉系:岸信介、中曽根康弘のラインの歴史)の発覚が日米関係の不安定をもたらすという配慮からこの手紙を書いたというわけである。結局、何が言いたいのか判らないのである。

しかも、徳本氏の主張は、「ジャップ発言」が露見した今では根拠が弱い。

さらにいえば、ロッキード事件というのは、日本に対する民間航空機の売り込みだけの問題ではなく、オランダ、西ドイツの政府に対する軍用機スターファイターの売り込みも絡んでの一大疑獄事件であったことを忘れてはならない。日本だけは不思議なことに民間機の売り込み(民間ビジネス問題)であり、海外では軍用機の売り込み(税金が絡む問題)であったのである。この点も大きな今後の論証の伏線となるので注意してほしい。

(ウ)キッシンジャーの手紙の本当の意味

ロッキード事件全体を見据えた上で、キッシンジャーのレビ司法長官への手紙を解説した文献がある。英国の名ジャーナリスト、アンソニー・サンプソンの『兵器市場』(TBSブリタニカ)である。この本は国際的なロッキード事件の真相を描き出そうとした力作であるが、358ページ以下に次のように書かれている。

(引用開始)

五カ月後、チャーチ委員会は罪状をさらに強く指し示す資料を集め、一九七六年二月、公聴会を再開した。会場には外国人ジャーナリストらが待ち構えた。報道席のテーブルに資料の束が投げ出されたが、それは、手書きの手紙、銀行の通知書、暗号で書いた領収書などで、日本、イタリア、西ドイツの政治情勢にからんだ暗示的で謎めいたものばかりだった。なかには「ピーナッツ一〇〇個領収」と書かれた東京からの領収書もあった。続いて出てきた証拠から、徐々にだが、意味は明らかになってきた。

その週末には、議場に外国人ジャーナリストが殺到した。先頭には東京から大挙して押しかけた日本人記者団がいた。記者たちは、警察に追い出されて慎重にテーブルが割り当てられるまで議場を占拠した。日本やオランダ、イタリアの記者は、委員会スタッフやロッキード社の重役を追い回し、自宅で待ち伏せしたり電話取材攻勢をかけた。

それも無理はない。各国の首相や政府の命運がワシントンでの暴露にかかっていたのだ。国務省の困惑はすでに深かった。ロッキード社は、アメリカ政府が自分たちの代理人や親しい要人たちを守ってくれると確信し、元国務長官で弁護士業に戻っていたウィリアム・ロジャーズに一仕事頼んだ。そしてロジャーズは現職のキッシンジャーに手紙を送り、ロッキード社代理人の名が公表されないよう取り計らいを頼んだ。するとキッシンジャーは律儀に、エドワード・レビ司法長官に手紙を書いた。ロッキード資料には「裏付けのない、センセーショナルで悪影響をおよぼしかねない情報」が含まれ、外交関係を損なうと抗議したのだ。

しかし、要請は拒否され、チャーチ委員会はすべての事実の公表を決議した。委員会は外国で騒がれることは予期していたが、それほどの大事件に発展するとは考えていなかった。(中略)

まずショックを与えたのは、一般に汚職の少ない(少なくとも航空字宙産業以外では)オランダに関する証拠だった。オランダでの贈賄の最初の鍵は、西ドイツの元ロッキード社役員、頑固なエルネスト・ハウザーが提供した。彼はスターファイター売込みの一九六〇年代初め、ロッキード社に雇われた。アリゾナに移住したハウザーは、元の雇い主をおとしめようと決意し、衝撃的な情報をチャーチ委貝会の他、『ウォールストリート・ジャーナル』紙にも提供した。なかでも彼は、ロッキード社がオランダのベルンハルト殿下に巨額の金を包んだことを語った。彼の証拠の多くはきわめて信愚性に乏しいとわかったが、決定的な触媒となった。

チャーチ委貝会は秘密会で、ロッキード社がベルンハルト殿下にいくらかでも払ったかとダン・ホートンに質問した。ホートンは「その質間が出なければよかった」と答えた。事実、殿下に一〇〇万ドル払ったとの告白に、議員たちは唖然とした。翌日、公聴会でコーチャンが証言し、今度はもっと言葉を選んで、一〇〇万ドルを”オランダの一高官”に払ったと答えた。しかし、じきに高官とは事実、ベルンハルト殿下だとの情報が漏れた。

オランダのマスコミは興奮したが、半信半疑だった。三日後、オランダの首相は、欧州裁判所のA・M・ドンネル判事を座長とする三賢人委員会を設けた。以後六カ月間、委員会はバ:バンクからハーグまで苦悩の捜査を進めたが、殿下は記憶がないと逃げ、フレッド・モイゼルもスイス政府に守られて協力を拒否した.最初、ロッキード社はこれまで社の代理人を守ってきたように、一致して殿下を守った。ところが委員会が最後にバーバンクを訪れたとき、ある役員がついに分別を捨て、殿下が賄賂を強要したと抗議し、殿下の罪を示すカネを要求する二通の手紙を出して見せた。最終的にドンネル報告は、ベルンハルあ罪状を確認してさら蓉疑を広げ、彼をあらゆる公職から辞任させた。ロッキード事件はあわやオランダ王政の崩壊を招くところだった。

『兵器市場』(358-360ページ)
(引用終わり)

以上のように、ロッキード事件の日本の海外における受け止め方は以上の様に、【軍用機】売り込みを巡るロッキード社の政府高官に対する贈賄工作というものであった。レビ司法長官の手紙にしても、決して日本の政府高官だけを守ろうとしたものではなく、むしろ、キッシンジャーがビルダーバーグ会議(日米欧委員会のヨーロッパ版、前出。初代委員長はベルンハルト皇太子)などの国際会議で親交の深かったベルンハルト皇太子を守るための行動である可能性すらある。

更にいえば、キッシンジャーは決して田中角栄を守れと名指しで角栄を守ろうとした事実はまったく存在しないということなのである。彼が守ろうとした日本の政府高官がいるとすれば、それは中曽根康弘氏である。角栄ではない。詳しくは後述する。

ここではキッシンジャーの手紙は田中本人を守ろうとしたものであるとは断じて言えないということだけを確認しておきたい。

(2)当時のチャーチ委員会関係者、アメリカ大使館、在日外国人特派員協会のメンバーたちによる現在における証言の問題

(ア)当時の関係者が事実を否定したことは証拠になりうるか?

次に、徳本氏がインタビューを試みた、チャーチ委員会の調査官の一人である、ジャック・ブラムという人物の「アメリカの陰謀なんてあり得ない」という主張について見ていきたい。結論から言えば、この発言だけでは、全くの信憑性がない。彼がここで「アメリカの陰謀の存在」を認める合理性・利益は何にもないからである。同様に、徳本氏がインタビューしている、日本の外国人特派員協会の記者達の証言も同様に証拠能力がない。仮に皆で一九七四年に角栄をこき下ろせという新聞各社の上層部の指示に従っていたとすれば、その当事者であった特派員たちが謀略への加担を認める可能性は殆ど存在しないからだ。同じように徳本氏が雑誌記事で紹介している、テレビ朝日の番組に対して「アメリカ大使館の人たちがハラを抱えて笑った」(同記事120ページ)という内容も同じように、「ただ彼らがそう言っているだけ」という類の主張である。

(イ)チャーチ委員会の調査員のメンバーの回想

ただ、ブラム氏の発言を注意深く見ていくと、チャーチ委員会のメンバーの中でも情報格差があったのではないかとも思えてくる。つまり、チャーチ委員会のメンバー構成について見ていく必要があるということだ。これについては(3)で検証するが、例えばブラム氏の以下の発言は、サンプソンの著作で描かれたロッキード事件に対する世界的な認識と一致している。

(引用開始)

Q(注:徳本氏) チャーチ委員会がロッキード事件に取り組んだきっかけは何だったのですか。

A(注:ブラム氏)最初はロッキード社ではなく、ノースロップ社(米国の大手航空機メーカー)の活動を調査していた。ところが、われわれの調べに、彼らは海外への不正送金はロッキード社の手法を真似たと証言してきた。驚いたわれわれは、すぐにロッキード社の幹部から事情を聞いた。彼らのドイツでの不正工作を調べていたとき、現地社員が『本当のスキャンダルがあるのは日本だ』と教えてくれた。それが日本の件を調べ始めたきっかけだった。

Q どんな調査から始めたのですか。

A ロッキード社の資料からまず判明したのは、彼らの秘密代理人が児玉誉士夫という男だということだった。公文書館で彼の記録を調べて愕然とした。戦争中、中国大陸で略奪の限りを尽くしたA級戦犯ではないか!東西冷戦中、共産主義に対抗する目的とは言え、そんな人物の復活を許していたとは信じられなかった。まして、米国のロッキード社が彼をエージェントにしていたとは。ただ不正行為を見つけても議会は起訴する権限を持たない。日本の首相を公聴会に呼ぶのは、外交上も憲法上も難しかった。

Q ロッキード社の秘密書類がチャーチ委員会に誤配された経緯は何ですか。一体、誰が何の目的で仕掛けたのですか。

A (怪認そうな表情で)一体何の話だ。委員会の資料は真相を究明するため、ロッキード社から正規の手順で入手したものだ。あなたの言う陰謀などなかった。

当時、委員会に資料が渡らぬよう、ロッキード社があらゆる手段を使っていたのは事実だ。ロジャーズ・アンド・ウェルズ法律事務所(ロジャーズ元国務長官が幹部を務める大手法律事務所)やキッシンジャーも、資料が渡されないよう圧力をかけてきた。われわれもキッシンジャーと田中の関係は承知していたが、あれは田中を守るためでなく、純粋にロッキード社のために働いていたのだろう。

徳本著(114-115ページ)
(引用終わり)

このブラム氏の主張からは、キッシンジャーのレビ司法長官への手紙は純粋にアメリカの基幹産業であるロッキード社を守るために、資料の公開を阻止したという雰囲気が見えてくる。

やはり田中角栄を守ろうとしたわけではない。

また、ブラム氏にインタビューを試みた中には2006年7月の読売新聞のロッキード事件特集があるが、このシリーズ記事の中で、徳本氏の本の別の箇所で出てくるジェローム・レビンソン同委員会首席調査官に関する記述がある。

7月23日付けの記事では、「秘密公聴会で、『わいろは誰に渡したのか』とロ社幹部に迫ると、幹部はため息をついた後、声をひそめて「タナカ」の名を口にした」と書かれている。普段は取材に応じることの無かったレビンソン氏が自費出版の回顧録執筆を期に読売の取材に特別に応じたと記事には書かれているこの「タナカ」発言は76年1月から2月にかけての事だという。

このロッキード社の幹部の証言と前後して、同社の社内資料が2月4日に公開された。読売の特集には、日本の検察が4月10日に受け取った資料には、ロッキード社が作成した人物相関図の中にタナカの名前があったという。だが、この事実は確認されたものではないようだ。

参議院議員の平野貞夫氏の著作『ロッキード事件「葬られた真実」』の190ページには、「この資料には田中角栄の名前が一切無かった」と書いてある。読売の記事は、「新事実」と言えるだろうが、今ひとつ明確に角栄の関与を書いていない。どちらが正しいのか分からないが、仮にこの時点で角栄の名前が出ていたのであれば、日本のメディアで「政府高官は誰だ」という推測合戦が行われるはずがない。

徳本氏がチャーチ委員会の議事録を引用しているのでそれをここに転載する。

(引用開始)

その児玉の名前が出たのは、次のようなやり取りだった。

チャーチ委員長「なぜロッキード社は、このような男に数百万ドルの金を支払ったのか。あなたも当然質問したと思うが、どういう説明を受けたのか」

フィンドレー「日本で極めて影響力のある人物で、強力なロビイストだと言われました。ロッキード社はわれわれに、日本での競争は熾烈だが、注文を取ることがどうしても必要で、それには児玉氏が最適の助けになると言いました」

チャーチ委員長「日本で注文を獲得する目的で、彼は数百万ドルの支払いを受けたのか」

フィンドレー「その通りです。私はそう理解しています」

チャーチ委員長「支払いはどのようにして行われたのか。公然とか、それとも秘密裏にか」

フィンドレー「様々な方法です。われわれの調査によると、児玉氏は多額の現金と高額の小切手を受け取っています」

チャーチ委員長「多額の現金を実際にどんなやり方で渡したのか」

フィンドレー「私の記憶では、会社(ロッキード社)が日本の外為ブローカーから日本円を買い、それを現金で児玉氏に届けていました」(以下略)

(1976年2月4日、チャーチ委員会議事録)
徳本著(92-93ページ)
(引用終わり)

ここで初めてロッキード社のエージェントとして、日本の右翼の大物、児玉誉志夫(こだま・よしお)の名前が出て来たのである。続く、2月6日の公聴会であった。更に議事録からの引用を続ける。

(引用開始)

チャーチ委員長「先日、フィンドレー氏が、ロッキード社は児玉に700万ドルを超える金を支払ったと証言した。われわれの情報によると、1970年の支払いは最大で10万ドルだが、1971年はその4倍に達している。この急増の理由は何か」

コーチャン「1968年からL1011(トライスター)を販売する運動を始めたので、彼にそのための努力を強めるよう要請したからです」(中略)

チャーチ委員長「ロッキード社は児玉に、1970年に10万ドル、1971年に40万ドルを支払っている。ところが、1972年には一気に224万ドルという劇的な増加を見せた。この増加で、一体、児玉はロッキード社のために何をしたのか。彼はあなたを小佐野氏に紹介したのか」

コーチャン「そうです。(中略)児玉氏が紹介してくれた小佐野氏とは、私が日本にいる間、大変親密な関係になりました。彼は非常に影響力のある人物で、われわれのために
役立ってくれました。日本の政財界は、極めて結束の強い個人グループからなっており、誰かが米国から来て、そのなかにいきなり入っていこうとしても極めて難しいということを理解して下さい」(中略)

パーシー委員「彼(丸紅の伊藤宏専務)は受け取った1億円をどうしたのか」
コーチャン「彼に渡った金は日本政府当局者govemment officials(筆者注・原文の英語は複数形)への支払いのために使われました」(中略)

パーシー委員「1人だけ名前をあげてくれますか。これは米国の外交政策にとって極めて重要だからです。道やエレベーターで会った人から言われたわけではないでしょう。小佐野氏がそう進言したのか」

コーチャン「いいえ、違います」

パーシー委員「それでは誰なのか」

コーチャン「それは……それは差し控えたいと思います。なぜなら、この状況で誰かを名指しすれば、彼らに迷惑をかけ、不必要に非難することにつながりますから」

(1976年2月6日、チャーチ委員会議事録)
徳本著(96-98ページ)
(引用終わり)

ここで児玉と並ぶ政商、小佐野賢治(おさの・けんじ)の名前が出てくる。ここで重要なのは、小佐野は角栄の「刎頸の友」であるが、児玉に関しては角栄との接点はあまり無かったという事実である。

児玉と関係が深かったのはむしろ中曽根康弘氏の方であった。この公聴会がきっかけでコーチャンのいう「政府高官たち」の名前を推測するような新聞記事が日本中にあふれることになったのだから、この時点では小佐野と児玉以外の名前は直接名指しで取りざたされてはいなかっただろう。読売の記事の「タナカ」というつぶやき発言の記事はこの点で疑問が残る。

(3)ロックフェラー・グループの問題

徳本氏がやや冷静さを欠いて反論していると思われる部分がロックフェラー・グループの関与問題に関する部分である。まず、ここで言っておかなければならないのは、わざわざロックフェラーの関与を示唆するときに「ユダヤの陰謀」と結びつけて考えるのは短絡的であるということだ。

ロックフェラー家と関係が非常に深かったキッシンジャーはユダヤ人であるが、ロックフェラー自身はユダヤ人ではない。確かに、過去数世代に遡れば、ロックフェラーの祖先がスペインのスファラディ・ユダヤ人だったという事実があるようである(ロン・チャーナウ『タイタン』など)。

しかし、一般的にはこの事実をもって「ロックフェラーはユダヤ人」という風には言わないだろう。この点にこだわり続けると、本筋の問題を見落としてしまう事になる。

ユダヤであろうが無かろうが、ロックフェラーグループが1970年代のアメリカにおいて頂点に立っていたのは事実である。

ウォーターゲート事件に見舞われたニクソン政権の次のフォード政権の副大統領はロックフェラー5人兄弟の一人ネルソンであり、チェイス・マンハッタン銀行の頭取としてデヴィッド・ロックフェラーが君臨し、中国ビジネスを手がけようと様々動いていたのもこの時期である。

ここで徳本氏は、「ロックフェラー財閥陰謀説」が成り立ち得ない論拠として、ネルソン副大統領と日本の訪米議員団との会見メモ、前出のキッシンジャーの資料公開を差し止めようとした手紙の存在を挙げている。

しかし、既に述べたように、このうち、キッシンジャーの手紙については、様々な解釈が可能であるので、直ちに「陰謀」を否定する論拠として使うのは不適切である。ネルソンのメモも徳本氏が評価するほどのものではない。

さらに、徳本氏が、「ロックフェラーはユダヤ」という前提のもとで、田中の資源外交が反ユダヤ的とする陰謀説の存在を紹介している。この点に関して言えば、徳本氏が「石油メジャーにユダヤ系が殆どいない」という主張も含めて、それは事実なのだろうが、問題はそんなことではない。徳本氏のユダヤ・カードの持ち出し方は、反ユダヤ主義者同様に卑劣である。

ロックフェラーがユダヤであったかどうかということは本質とは関係のない問題である。

それでは、何が重要なのか。ロッキード事件の頃、ロックフェラー・グループがどのような“民間外交”を行っていたのかという点と、アメリカ政治における東部エスタブリッシュメントとしてのロックフェラー財閥の位置の検証である。この点について(ア)デヴィッド・ロックフェラーの中国外交、(イ)アメリカ国内における、東部エスタブリッシュメントと地域資本の権力闘争 の観点で見ていくことにする。

(ア)デヴィッド・ロックフェラーの中国外交

デヴィッド・ロックフェラーは、現在91歳の第4代ロックフェラー家の当主である。初代のジョン・D・ロックフェラーから数えて5代目となる現在の当主はデヴィッドの息子の、デヴィッド・ロックフェラー・ジュニアというロックフェラー系財団の理事を務めるボンクラ息子である。田中角栄が72年9月29日に中国と国交回復をした数ヶ月後の73年6月にデヴィッド・ロックフェラーは北京空港に降り立った。ロックフェラーは、中国ビジネスの交渉に訪れたのである。この事実について、評論家の青木直人氏は著書『田中角栄と毛沢東』(講談社)の104ページ以下で次のように書いている。(デヴィッド・ロックフェラー3世という記述は何かの誤りである)

(引用開始)

七三年六月、四つの石油メジャーを支配下に置くロックフェラー財閥の当主で、全米有数の巨大銀行であるチェース・マンハッタン銀行会長のデビッド・ロックフェラー三世(引用者注:正しくはデヴィッド・ロックフェラー・シニア)が北京空港に降り立った。四九年に共産中国が生まれてから初めての訪問である。


73年訪中時に周恩来首相と会談したロックフェラー

中国訪問の前、ロックフェラー会長はローマで開催された同行の国際金融セミナーで「アメリカは共産圏諸国との経済の掛け橋を築くうえで、ヨーロッパや日本に取り残されようとしている」として、鉄のカーテンを板ガラスのカーテンに替えるべきときだと訴えた。

チェース・マンハッタン銀行は、ソ連にはすでに駐在事務所を開設していた。ロックフェラー会長の次の標的は北京だった。彼は小平副首相と会談し、中国銀行とコルレス契約を結ぶことに漕ぎつけた。これは銀行間で外国為替をスムーズに処理する際に使われるやり方で、ある銀行が外国の銀行と為替取引をする際に業務を仲介することを言う。この結果、アメリカの銀行が中国と外国為替取引をする場合、自動的にチェース・マンハッタン銀行をを通じて、業務処理をずるしかなくなった。

チェース・マンハッタン銀行は世界中の金融機関のなかでもコルレス契約数では突出している。

ロックフェラー会長は帰国後、『ニューヨーク・タイムズ』に中国レポートを発表したが、そのなかで「中国には安い大量の労働力がある。これを武器にすれば、彼らは大量の貿易資金をたやすく手に入れることができる」と指摘している。戦後長らく閉ざされたままだった中国市場に対する進出意欲には並々ならぬものがあった。

中国訪問から二年後の七五年、ロックフェラー会長はある席で、次のようなビジネス・プロジェクトをぶち上げた。

「今後十年間かけて、八五年までにアジア太平洋地域で六千億バーレルの石油を手に入れたい。そのためにも、この地域に総額で一兆二千億ドルの投資が必要である」

この発言は同年四月に、ロックフェラー傘下で世界最大のメジャーであるエクソンのJ・K・ジャーミン会長が北京入りしたことを受けてのものだった。

国際石油メジャーのトップがアジア資源開発の青写真を発表したことで、メジャーとアメリカ政府の首脳たちによる北京詣でが始まった。

同年五月ガルフのJ・E・リー社長(同年十月にも再訪中)
同月石油開発協議のため、モートン商務省長官が北京入り
十月ソーカル、アトランチック・リッチフィールド、ガルフの探査技術者

この年の暮れには、ニクソンの後を継いだフォード大統領も中国に渡った。フォードは-、毛沢東と会見を済ませて、副首相と実務的な話し合いを行っている。訪問団は総勢四百五十人、このなかには相当数のエネルギー開発の関係者が含まれていた。

フォードの中国訪問は政治的意味合いから言えば、ニクソンの時と違ってほとんどインパクトを残していない。だが、先のロックフェラー会長のアジア資源開発構想と重ね合わせてみると、その評価は一変する。米中間で話されたのは、資源開発、海底油田の採掘の協力だったからだ。

フォードが中国に滞在したのは十二月一日から五日まで、その後北京を離れてアメリカ本土に帰国する途上、七日にハワイに立ち寄っている。ハワイ大学で講演を行うためである。演説は「フォードドクトリン」と名付けられた。

〈アメリカの力は太平洋における安定した勢力均衡の基礎となっている。アジアにおける友好国と同盟諸国の主権と独立を維持することがアメリカの政策の最高目標の一つである〉

この原則のうえに、①戦略の柱は日本との協力関係にある、②中国との国交正常化、③東南アジアの安定と安全保障に利害関係を持つ、ことなどが発表された。

発言のポイントは②の中国との国交正常化にあった。ニクソンが北京を訪れてから三年以上経っている。中国の指導者からは正常化の歩みが遅々として進んでいない現状に不満の声が土がり始めていた。

それ以上に、中国とのビジネスに強い関心を持つアメリカの財界からも国交正常化実現の期待が高まっている。すでに七三年五月には、自国企業の中国進出をバックアップするために、経済交流を目的に北京連絡事務所を設置していた。国交正常化を期に中国進出に乗り出してきた日本への対抗心もあった。

フォードドクトリンは、ロックフェラー会長の発言と完全に重なりあう。そして、ロックフェラー財閥のバックにいたのが、対中国政策で田中に先を越されたキッシンジャーだった。

キッシンジャーはオイルショックの際、アラブ支持を打ち出した田中に対し、報復措置として、自分自身で直接立ち会って明記した共同声明のなかの「七四年中の天皇訪米」を撤回した。それも、インガソル国務次官補が来日して、日本政府に口頭で決定を伝えたほど露骨なものだった。

田中とキッシンジャーの因縁は、ロッキード事件にまで持ち越されることになる。

『田中角栄と毛沢東』(104-107ページ)
(引用終わり)

ちなみに、キッシンジャーが撤回した昭和天皇ご夫妻の訪米は、一九七六年にずれ込むことになった。

以上の青木直人氏から、アメリカ、とりわけ東部エスタブリッシュメントの雄であった、ロックフェラーがアメリカで利権を開拓するのに意欲満々だったことは明白である。

田中角栄の東アジア外交とこのロックフェラーの路線は見事にバッティングしたのである。

アメリカと日本は石油利権を巡って常に争ってきた。大東亜戦争もそれが原因で起こったようなものである。まさに「石油の一滴は血の一滴である」。昭和天皇は「あの戦争は石油にはじまり、石油に終わった」と回想している。太平洋戦争の敗戦でギリギリのところで訴追を免れた昭和天皇の思いががにじみ伝わってくる発言である。

余談であるが、昭和天皇が角栄の失脚にあまり同情的でなかったとか、角栄がテレビをつけると天皇がテレビを消したといううわさ話があるのも、角栄の資源外交が再び日本とアメリカの関係を危うくするという現実主義的な懸念があったからかも知れない。

(イ)東部エスタブリッシュメントと地域資本の暗闘について

次に、一九七〇年代当時のアメリカの財界資本と政権の関係について、明治大学教授の越智道雄氏の画期的労作、『アメリカン・エスタブリッシュメント』(NTT出版)を使って分析を試みる。

越智氏だけではなく、田原総一朗氏や青木直人氏も、ニクソンを失脚に追い込んだウォーターゲート事件は、アメリカ国内で資本の基盤を東部資本におくか、地域資本におくかで違う勢力の権力闘争の一環であったと認識している。ロックフェラー財閥は、アメリカの本流であるNY金融界・ワシントンを中心にした「東部エスタブリッシュメント」の中核を形成し、ニクソンの権力基盤は、ニクソン自身の出身地であったカリフォルニア州に当時は本拠があったロッキード社にあったという分析である。青木直人氏の前掲書によれば中国で発行されている、『国際時事辞典』(一九八〇年版)には次のように書かれている。青木氏の著作から引用する。一三〇ページ以下。

(引用開始)

<ロッキード事件 一九七六年二月に多国籍企業小委員会のチャーチ委員長(民主党議員)が明らかにしたロッキード航空会社の海外での自社機売り込みのための賄賂工作。

同社が膨大なカネを政治献金、カンパの名目で直接、間接的に外国の皇室関係者、政府高官、議員、大企業オーナーに渡して、政府にロッキード社の航空機を購入させようとしたことから関心を集めた。

事件はアメリカ内外に広く大きい影響を及ぼし、関係国の政治勢力は事件を自分たちの政治的な武器に利用しようとした。アメリカでも事件は東部エスタブリヅシュメントかケ西部・南部エスタブリツシュメントヘの反撃に利用された。ウォーターゲート事件に続く二度目の権力闘争でもあった>

事実関係を紹介した前半部分はともかく、注目すべきは事件の背景を解説した後半部分である。中国は当時、国際的事件が発覚するたびに社会主義国特有のイデオロギー色の濃い解説を行っていた。ここにもそういう傾向はある。だが、興味深いのは、解説が事実かどうかではなく、中国ではロッキード事件が権力者間の政治闘争、内紛に利用されたと捉えていることだ。

文中にある「東部」「西部」「南部」のエスタブリッシュメントとはそもそもどういう意味なのか。『国際時事辞典』の別のぺージから引用する。

<東部エスタブリッシュメント 本社を米国の東部地域に持つ諸財閥を指す。ロックフェラー、モルガン、ファーストシティバンク、メロン、デュポン、ハリマン、ジャーマン・ゴールドマンなどが該当する。なかでも最も大きい財閥がロックフェラーとモルガンの二大勢力である。東部資本家グループは第二次大戦以前からの古い歴史を持つ伝統的な勢力で、そのパワーは強大。米国の政治経済の実権は長い間彼らに支配されていた。主要企業は石油、軍需産業、軽工業、運輸、公共事業分野にまたがっている。
東部勢力の金融部門はニューヨークのウォール街にある>

ピルグリムファーザーズがイギリスからアメリカの東部地域に移住して、アメリカ合衆国を建国した。彼らはニュージャージーに腰をすえ、西に向かって国を開いた。東部財閥は建国当時からアメリカ経済に根をはった中核の重厚長大産業である。日本の例でいうと、明治維新の産業振興とともに成長した三菱、三井財閥を想像すればいい。

対する「西部」「南部」勢力は新興グループだ。

<西部・南部エスタブリッシュメント 新興工業金融グループ。バンクオブアメリカ、サウスカリフォルニア、テキサス、サンフランシスコの資本家グループなどがこれにあたる。

第二次大戦以後、アメリカ財閥勢力の最大の変化は西部、南部地方に相次いで新興財閥集団が誕生したことだ。最初に大戦で財をなしたカイサルファミリーが西海岸に登場し、バンクオブアメリカ、サンフランシスコ財閥など新興勢力を形成した。南部にはテキサス財閥が生まれた。彼らは戦争とともに肥大化し、連邦政府の財政的な支援のもとで先端技術開発を推し進めた。その中心企業は新興軍事産業、地方石油、ハイテクノロジー、農業関連である。

西部、南部集団は政治経済分野で東部集団に対抗して新興財閥のネットワークを形成、政治的な関与を強めた。五〇年代から本格化した連邦政府の海外への軍事的関与に伴い、七〇年代に入ると年間の国防総予算のうち、毎年平均で四五パーセント前後を受注する隈どの成長を遂げ東部企業を凌駕した>

西部・南部エスタブリッシュメントは、、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争における最大の受益集団だった。冷戦構造下の戦争は、連邦政府の戦争経済化を加速させ彼らに膨大な利益をもたらしたが、同時に国民はなんのために自分たちが戦っているのかもわからないような「戦争のための戦争」が続いたのも事実だった。

『田中角栄と毛沢東』(130-133ページ)
(引用終わり)

ニクソンの政権基盤はカリフォルニアの軍需財閥であり、軍需財閥が推進するベトナム戦争のせいで、アメリカは経済の閉塞状態に陥った。この責任を取らせるべく、東部財閥が、ニクソンを失脚させたのが、ウォーターゲート事件であるというわけだ。確かにこの説を裏付ける事実として、東部財閥出身のヘンリー・キッシンジャーが事件によって失脚しなかったこと、同じく東部財閥のアレクザンダー・ヘイグ大統領補佐官がキッシンジャー同様に生き残り、中国ビジネスに関与するようになったことが挙げられる。

越智道雄氏に依れば、現在のブッシュ大統領はテキサス州という新興財閥、地域資本と東部財閥の両方にまたをかける、全国的な「アメリカン・エスタブリッシュメント」であると見るべきであるという。

ウォーターゲート事件、ロッキード事件の結果、東部資本が巻き返したが、レーガン政権誕生でも分かるように、カリフォルニア州の軍需産業、半導体産業を背景にした地域資本はやがて、東部資本とグチャグチャに融合していったというのが越智氏の説である。

確かに、レーガン政権の国務長官であった、ジョージ・P・シュルツ氏とデヴィッド・ロックフェラーがつい最近までチェイスマンハッタン銀行とJPモルガンが合併したことで誕生した、JPモルガンチェイス銀行の国際諮問委員会に席を同じくしているという事実はこれを裏付けている。

さて、越智氏は自著の中で、ニクソン(氏はニクスンと発音)と東部エスタブリッシュメントの冷めた関係について詳述している。ここでは、重要な部分に絞って抜き出して引用したい。この本は非常に専門的で初読者には到底理解できない内容であるが、非常に網羅的にアメリカの政財界について研究されている。難しいので理解できなければ、次に進んでほしい。

(引用開始)

ニクスンは、第二次大戦でアイク(注:アイゼンハウアー大統領)の参謀長、彼の政権では首席補佐官だったウォルター・ベデル・スミス将軍に、「私はアイクの尻拭屋だった」と述懐、激してきて涙まで流したという。アイクが悠然とゴルフに興じている問に、ニクスンはさんざ首切り役やら譴責役やらの汚れ仕事を押しつけられたというのだ。

皮肉なことに、ゴルフのお相手はエスタブリッシュメントの中枢、プレスコット・S・ブッシュ上院議員、つまり現大統領の祖父だった。だから後に政権を握ったニクスンがその息子(現大統領の父ジョージ・H・W・ブッシュ)を国連大使、中国駐在事務所長、全国共和党委員会委員長などの周辺的地位に遠ざけ続けたのは、エスタブリッシュメントの寵児に対する報復という側面もあったのである。(中略)

ともかく、アイクはそんなニクスンに冷淡だった。例えば、「副大統領(ニクスン)の功績を上げてほしい」と記者から聞かれて、一週間くれたら一つくらい思い出すよ」と答えたというのである。もっとも、いずれも両者が姻戚関係になる前の話である。

アイクの冷淡さの背後に、ニクスンは「東部エスタブリッシュメント」の意向を付度していた。この恐るべぎ敵こそ、昔から自分を排除し続けてきたのだ。無名のデューク大を出て、ジョン・フォスター・ダレスの名門法律事務所サリヴァン&クロムウェルの門を叩いたときも、ニクスン再年は揆ねつけられた。後にダレスはアイクの国務長官として、再び副大統領ニクスンを疎外し続けたのだ。一九六〇年の大統領予備選では、四十年ぶりに共和党が一致してニクスンを推す空気になっていたのに、かねてからアイクがニクスンを副大統領職につけたことを非難して止まなかったエスタブリッシュメント側は、この大統領選では自陣営のネルスン・ロックフェラーを候補に立てようと粘り抜いた。やっとのことで相手(ネルスン)を説得したニクスンは、本選挙でケネディにしてやられたのである。

アイクがニクスンに冷淡だったのは、一九五二年の大統領選挙でエスタブリッシュメント側から担がれたアイクが、対立候補ロバート・A・タフトを推す地域資本側を宥めるためにニクスンを受け入れざるをえなかったからだった。他方、アイクが一九六八年ニクスンと姻戚関係になるのは、ネルスン・ロックフェラーがアイク政権に対するエスタブリッシュメント側の深刻な失望を、「五番街の契約」と称する一九六〇年大統領選への立候補綱領に露骨に表明したことにアイクが怒り、一九六一年の辞任演説で「軍産複合体」の跳梁践雇を非難する発言をイタチの最後っ屍として放って以来、彼がエスタブリッシュメント側から地域資本側に座標軸を移した結果である。歴代大統領の大半が非エスタブリッシュメントの出で、エスタブリッシュメントが補佐してきただけだから、アイクもまた、その補佐から解放されて元通り自らの階層側に戻ったわけだ。

「五番街の契約」とは、上流WASPのタウンハウスやマンションがある、マンハッタンの「五番街」を指し、ネルスンのトリプレックス(三階分マンション)もここにあった。一九六〇年の大統領選の土壇場でネルスンが出してきたこの綱領は、四十年ぶりに共和党で地域資本側の代表としてニクスンに一本化しかけている状況に対してエスタブリッシュメント側が投げた爆弾だった。「五番街」というタイトル自体が臆面もないエスタブリッシュメント側からの要求事項を表していた。前述のニクスンによるネルスン・ロックフェラーの説得は、セントラル・パークを見下ろす相手のトリプレックス、つまり「新型タウンハウス」へ本命候補(ニクスン)が駆けつけてなされた。

怒号の党大会の後で展開された本選挙でニクスンはケネディに僅差で敗退する。そのケネディ政権に、元来は共和党員の「エスタブリヅシュメンタリアン」ら(ダグラス.ディーン、マクジョージ・バンディ、ジョン・J・マクロイ、後見役として長老のロバート・ラヴェットら)が民主党側のエスタブリッシュメンタリアン、ディーン・アチスン、エイヴレル・ハリマンたちとともになだれこむのは、幻に終わった「ネルスン・ロックフェラー政権」の代替物としてだった。

ニクスンは、ついに七転び八起きで政権を獲得した一九六八年、こう言った。「私が勝てたのは、インサイダーとしてだったが、アウトサイダーの偏見を持ってこの選挙を征したのだ」。ここにこそ、「東部資本(エスタブリッシュメント)と地域資本双方にまたがらないとホワイトハウスには入れない」という不文律が露呈している。ブッシュ父子も、まさにこの不文律を礎にしていた。しかし、ブッシュ父子の本心は東部資本側にあったのに対して、ニクスンの本心は地域資本側にあったのである。

『アメリカン・エスタブリッシュメント』(100-103ページ)
(引用終わり)

アイクは巧くエスタブリッシュメントにすり寄って大統領にしてもらったが、最終的には退任演説における「軍産複合体」発言でエスタブリッシュメントに反旗を翻した形になっている。

一方、カリフォルニアの「田舎もの」であった、リチャード・ニクソンは、ロックフェラーと共和党の大統領指名を争った結果、一九六八年に政権を獲得することにはなるが、内部にキッシンジャーというロックフェラー家の「忍者」を抱え込むことになる。越智氏によると、ケヴィン・フィリップスなどのアメリカの政治評論家達は、ウォーターゲート事件を、「ヤンキー(ニューイングランド人)の反撃」とみる見方があったことを書いている。

越智氏に依れば、ニクソンの外交政策は「米・ソ・日・中・西欧」の五強と見なし、日欧の頭越しに中ソと交渉した「ペンタゴナリズム」と言えるのであり、これがロックフェラー-ブレジンスキーの「日米欧」の三極による「トライラテラリズム」(三極主義)に対比されるのだという。

この説に従えば、ニクソン政権の中央部に忍者として陣取っていたキッシンジャーは、ニクソンの失脚とともに、ブレジンスキーの提唱した「トライラテラリズム」路線に遅ればせながら同乗することを表明したわけである。ロックフェラー政権であったカーター政権において、キッシンジャーではなく、ブレジンスキーがその大統領首席補佐官となったのはその論功行賞だっただろう。しかし、キッシンジャーの巻き返しももの凄く、キッシンジャーの方が毎回、日米欧三極委員会やビルダーバーグ会議といった、エスタブリッシュメントの秘密会議に出席するようになっている。ロックフェラーの寵愛を彼は再び確実なものとしたのである。

以上を見てきて解るように、

ウォーターゲート事件、それに派生するロッキード事件は、単純にアメリカの政財界の汚職体質の払拭を目指して取りざたされたのではなく、ニクソンの支持基盤であった地域資本の利権の東部資本への回収という思惑があって、そのシナリオの上で進められたものだったのである。

(4)キッシンジャーの自白を本に書いた文明子女史の問題
(5)「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」論文に対する問題

最後に(4)と(5)である。(5)に関して言えば、これまで述べてきたように角栄の独自の資源外交があったということは事実なのであり、徳本氏が田原論文が伝聞証拠に基づいているから信憑性に欠けるというというのは、それだけではとても陰謀説を否定する根拠にはなり得ない。

また(4)であるが、これは在米韓国人ジャーナリストの文明子女史が著作『朴正煕と金大中』(共同通信社)の中で取りあげているキッシンジャー発言の信憑性に関する問題である。徳本氏は、金女史とキッシンジャーサイドに直接電話取材したらしい。ここではこの模様を記録した「月刊現代」の雑誌記事を引用する。

(引用開始)

同番組はもうひとつ、米国陰謀説を裏づける証拠として、文明子という在米韓国人ジャーナリストの著書を引用した。1930年生まれの彼女は、朝鮮日報や東亜日報のワシントン特派員などを務めた後、73年の金大中拉致事件で韓国内の報道管制を破ったことから米国に政治亡命した。

以来、米国を拠点にUSアジアニュースサービスを設立し、旺盛な取材活動を行ってきた。中国の故都小平や北朝鮮の故金日成らにインタビューした実績を持つ大物言論人で、2000年には、当時の森喜朗首相から金正日への親書を仲介したことが、わが国の国会でも取り上げられた。

番組が引用したのは、01年2月、共同通信から出版された彼女の著書『朴正煕と金大中』で、この本は朴正煕政権時代、彼女がワシントンを舞台に韓国民主化運動などに奔走した日々を回顧したものだ。原書は99年、韓国で出版されている。

このなかで文明子は、76年、ヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)に同行し、大統領専用機・エアフォースワンに搭乗した際の模様に触れている。ちょうどロッキード粛件発覚後で、田中の命運に関心が集まっており、キッシンジャーは機内で同行記者団と非公式に会見したという。彼女の著書からそのまま引用する。

〈記者たちはキッシンジャーにかみつき、ぶら下がった。
「田中は長続きしますかね?」
キッシンジャーは大変傲慢な姿勢で答えた。
「田中程度なら、いつでも取り替えられる」

瞬間、私はひどくうろたえた。キッシンジャーは言葉を続けた。
「彼はあまりにも生意気だ。米国の後を迫って日中関係を改善する程度ならよいが、米国を差し置いて日中関係を改善してしまった」(中略)

私は、キッシンジャーに尋ねた。
「ヘンリー、ロッキード事件もあなたが起こしたんじゃないのですか?」
私はいまだにその時、彼の答えた表情と抑揚を忘れることができない。
「オブ・コース(もちろんだとも)」〉

「月刊現代」(二〇〇五年七月号記事 120ページ)
(引用終わり)

キッシンジャーの発言は、記者を目の前にしたジョークとも取れそうであるが、今年になって発覚した田中角栄に対するジャップ発言とあわせて考えるとまんざら冗談で無いとも言えない。

徳本氏は、この件について、キッシンジャーと文明子サイド双方に取材を試みている。しかし、当然のようにネガティブな反応しか返ってこない。当然だ。同盟国・日本の首相を存命の元国務長官が失脚させたか、何らかの追い落としに関わっていたということが事実として本人が認めれば、日米関係は大混乱に陥るからである。ただ、一応念のために、二人と徳本氏のやりとりを引用しておく。

(引用開始)

こうして見ると、当時の政治情勢と文明子のキッシンジャー黒幕説は明らかに矛盾する。このギャップをどう説明するのか。仮にキッシンジャーが田中潰しの陰謀を認めたなら、いつ、どの目的地へ向かう大統領専用機だったのか。他にどんな記者が同席していたのか。キッシンジャーの発言を録音したテープ、当時のメモはあるのか。

これらの疑問を、米・ヴァージニア州在住の文明子に直接確認してみることにした。彼女の自宅に国際電話を入れ、取材の趣旨を説明すると、先方が日本語に堪能であることがわかった。途中で英語から日本語に切り替えたのだが、そのやりとりは何とも奇妙なものだった。

まず、本当に大統領専用機内でキッシンジャーが、田中を葬るような発言をしたのかと尋ねたところ、文明子はあっさりと、「違うわ。そんなこと言っていません」とこたえた。いきなり、自着の内容を否定してきたのだ。

面食らった筆着は、とりあえず彼女の著書の、ロッキード事件に関する部分をファックスで送ってみた。しばらくして、再度電話を入れ、これについて検証レポートを準備している旨を伝えると、文明子は明らかに慌てた様子だった。

「1976年のことなのに、いまさら私に確認してどうするつもりなの。私は真実かどうか言いたくないし……とにかく、こういう電話はやめてちょうだい」
彼女は、一気にまくし立てて電話を切ってしまった。

じつは、キッシンジャー黒幕説を匂わせたのは文明子だけではない。前述の中曽根もその一人だ。昨年出版された回顧録『自省録 歴史法廷の被告として』で、彼はこう述へている。

「世界を支配している石油メジャーの力は絶大です。このことが淵源となり間接的に影響して『ロッキード事件』が惹き起こされたのではないかと想像するところがあります。ずいぶん経ってから、キッシンジャーとハワイで会った時に、彼は『ロッキード事件は間違いだった』と密かに私に言ったことがあります。キッシンジャーは事件の真相について、かなり知っていた様子です」

読老のなかには、これを、キッシンジャーが田中失脚工作を告白したと解釈する人も多いはずだ。

一方、名指しされた当のキッシンジャーは、これらの指摘にどう答えるか。

ニューヨーク市内の。パーク・アベニューにあるキッシンジャー事務所に連絡を入れた。窓口はジェシカ・インカオという女性で、筆者はテレビ朝日の番組内容を説明し、本当に彼が文明子や中曽根元首相の著書にあるような発言をしたのか確認するよう依頼した。

しばらくしてキッシンジャーのコメントがメールで送られてぎた。
要約すると、文明子と個人的親交はなく、彼女の著書にあるような発言を行った事実は一切ない。76年に大統領専用機で彼女と同乗したのかどうかも大いに疑わしいという。

また中曽根元首相の著書については、そういう不正確な記述がされたこと自体信じられないとの回答であった。

中曽根元首相にも問い合わせたが、「本の記述以上の詳細は記憶になく、『ロッキード事件は簡違だった』という発言の真意もわからない」という返答だった。

前掲雑誌記事(123-124ページ)
(引用終わり)

この二つの回答文と、私が既に疑義を挟んでおいたキッシンジャーのレビ司法長官に対する書簡を根拠に、徳本氏は「ロッキード事件アメリカ陰謀説」を一蹴するのであるが、「犯人が自ら進んで自白するはずがない」という常識の線で考えれば、この関係者の否定コメントは、「そう言うコメントがあった」という以上の価値を持たないのは明らかである。

以上のように、

徳本栄一郎氏が指摘する5つの主要な論点はどれも「どちらともとれるような論拠」でしかない。

一方私が、様々な書籍の記述を踏まえて描き出した、1970年代当時のアメリカの政財界と日本の角栄の資源外交の事実は、角栄とアメリカのロックフェラー財閥の利権闘争が影で存在したことを充分に伺わせる内容になっていることがお分かり頂けるだろう。

角栄は日本のカストロか今で言えばヴェネズエラのチャベス大統領のような存在として、アメリカでは認識されていたのであろう。

しかし、それだけの理由で、角栄は日本の政界から消え去ったのであろうか。

そう考えていくと、次に日本国内の政治情勢の推移について検討していきアメリカの政財界の動向とどのようなリンケージがあったのかついて、検討していかなければならないことが分かった。

日本では、田中角栄と同様にロッキード事件に連座するのではないかとして灰色高官の一人として取りざたされた人物がいる。それは、ロッキード事件をアメリカの陰謀と発言した中曽根康弘元総理である。この中曽根氏と、ウォーターゲート事件を逃げ切ったアメリカ政界の超大物キッシンジャーの存在がある。

この二人の出会いは1953年(昭和28年)にまで遡る。そして、この二人は「読売新聞社」の渡辺恒雄元会長を軸にしながら、長年の友好関係を育んでいくのである。

次回は、平野貞夫氏の「ロッキード事件の黒幕は中曽根康弘だった」という説を検証しながら、ロッキード事件の追及に関わったチャーチ委員会の主要メンバーであった、ある上院議員とロックフェラー家との浅からぬ関係について述べる。

そして、最後に30年前の日本政界を揺るがしたロッキード事件が、実は「ロックフェラーのアメリカ財界完全制覇の動きの中で、それに対する日本エスタブリッシュメントの対応としての“王殺し”だったという事実を白日の下に明らかにしようと思う。

ロッキード事件による角栄失脚は、アメリカの圧力とともに日本国内で「内側から鍵を開けた人間」が存在してこそ、起こりえた。次回はその話を中心に行う。

(つづく)

アルルの男・ヒロシ 拝

ロッキード事件を巡る日米相関図

<参考文献>

平野貞夫『ロッキード事件 「葬られた真実」』(講談社・2006)
同   『昭和天皇の「極秘指令」』(講談社・2004)

デヴィッド・ロックフェラー/盛田昭夫/山本正『21世紀に向けて』(読売新聞社・1992)

徳本栄一郎『角栄失脚 歪められた真実』(光文社・2004)
同 雑誌記事『月刊現代』(2005年7月号 『葬られたロッキード事件「アメリカ陰謀説」』)

アンソニー・サンプソン『新版 兵器市場』(TBSブリタニカ・邦訳1993)

読売新聞記事『ロッキード事件30年 米国からの証言』(2006年7月23日~25日連載)