⑮「十三 熱病」「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む」
「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む」
⑮「十三 熱病
医学部学生の抗議運動が激しくなったのは昭和四三年二月のことで、学生が学長室に乱入し、居合わせた学長と学生部長、医学部長を監禁するという事件起きた。その場で学生たちは、一月の青医連(青年医師連盟)インターン反対闘争の支援ストライキについて「学生には非はない故処分しない」と記した書面に署名を求め、学長らがこれに署名した。これを機に学長と学生部長が辞任したが、学長は辞任にあたって教授会の中の強硬派として知られた総山孝雄を学生部長に推薦した。総山は、紛争解決の救世主と目されたのである。総山が、救世主を自認したと言うべきかもしれない。 総山は大学の評議会で早速、医学部教授会の支援を決めたほか、脅迫されても譲歩しない、必要があれば警官隊の導入も辞さないという方針を公表し、「大学は暴力の前には絶対に譲歩しない。ストライキは君たちが止めるまで続く。・・・五ヵ月ストをやれば進学は五ヵ月遅れ、1年やれば1年遅れる」と一般学生に訴え始めた。こうして九月の学生大会でスト派学生を一掃して収拾に向かい、医学部の紛争は十月にほぼ解決した。しかし、この集会に初めて歯学部学生が参加し、医学部スト派学生に同調する事態になった。 今から振り返れば。授業を勝手に放棄して何が「闘争」なのだろう、何が国家試験ボイコットだ、いい身分の学生がなんて馬鹿なことをするのだろうと思われるかもしれない。当時の大学進学率は、ようやく二割。東京医科歯科大学は二期校だったので、東大医学部の滑り止めに受験して入学してきた者が多かった。そういう意味でも医学部生は、やや屈折したエリートであった。しかし、仮にもエリートの学生である。臨床研修医制に反発してストライキをするとは、どういうものだろう。その時代もそう言われた。 インターン反対、臨床研修医制反対というのは医学部生特有の事情だったが、それ以上に当時の学生たちが生きていた時代の空位というものを理解しなければ、この学生たちのストライキはわからない。 驚異的な経済成長が一段落し、満ち足りた不自由のない生活が可能になった時代である。外に目をやると、ベトナム戦争の戦禍は拡大の一途をたどり、沖縄の嘉手納基地からB52が編隊を組んで南ベトナムのケサンの爆弾に向かっていた。新宿駅で立川基地に向かう米軍のジェット燃料輸送列車が衝突爆発を起こし、あるいは嘉手納基地を飛び立とうとした大量の爆薬を積んだB52が墜落する事故は、青年たちに戦後の繁栄と自分たちの平和な日常が虚構のうえにあることを否定なく教えた。気がつくと、行動しなければならないという空気が熱病のように広がっていた。青年たちが、日常に見え隠れする大きな歴史に無関心ではいられないと考えたのはむしろ当然だったろう。何も行動せずに安閑としていれば、弱い者を支配する側に知らず知らず組み込まれてしまう。むしろ、、気がつくと社会の上の二割に属してしまっていたのだ。そのことに罪の意識を深くした学生は少なくなかった。 昭和四三年から翌年一月までの医科歯科大学の様子を大学側から克明に描いた証言として、昭和四四年二月に財界人懇談会で講演した総山の講演速記録を下敷きにした記事がある。総山は、学生たちに青臭い議論を心底嫌ったが、それ以上に学生たちの要求に耳を貸す共感に容赦なかった。 「物分かり良さをてらう人々は、学生に向かって『君たちの動機は良いのだが、方法が間違っている』といいます。しかし、私にいわせれば、動機そのものが根底から間違っているのです。」 総山が「物分かり良さをてらう人」と指弾する一人が、石原であった。長い軍隊生活を経験し、インドネシアでは謀報と謀略に明け暮れ、帰国しても結核で死地を彷徨った総山じすれば、学生運動など、わがままな子どもがだだとこねているよなものに見えただろう。それでいて暴力には総山の血が騒ぐ。それを、東大安田講堂事件の翌月に、財界人を前に話すことになった。大学側は、日大紛争の経験から妥協は禁物という教訓を得ていた。総山は、ストを主導している学生に、「下の学生が進んで来てダブれば、・・・諸君の卒業は半永久的に遅れるだろう。不法行為は必ず処分する。必要があれば直ちに警官隊を導入する」と言い渡した。実際、昭和四四年の医学部卒業生は在学中に合わせて一〇ヵ月におよぶ六度のストを経験したため、卒業は一〇ヵ月遅れ、十二月二七日にずれ込んだのである。ストを主導する自治会執行部の学生たちは、半共産党系政治党派の影響下にあったが、学内の活動では党派の壁を超えた全共闘(全学共闘会議)というかたちをとっていた。この全共闘学生たちは、総山を「反動(保守主義者)」の頭目として目の仇にし、尾行をつけて警戒するようになるのだが、総山は「昨日警察に行ったでしょう」と問い詰められれば、「ああ行ったよ。必要な場合の打合せにね」と応える。売られた喧嘩を喜んで買うという姿勢である。もっとも、実状は総山教授が語るほど格好のいいものではなく、教官たちの間では総山が大学に顔を出さず、学外にアパートを借りて論文制作にいそしんで、月給袋は秘書に頼んで自宅まで届けさせているというのがもっぱらの噂であった。医学部が紛争で騒然としていた昭和四三年の夏、石原は医歯薬出版の編集担当役員の訪問を受けた。この出版社には知り合いが何人かいたが、編集担当役員が来ることは珍しかった。その男が持参したのは、保母須弥也の書籍のゲラだった。それは、下顎運動に関する四章九〇ページほどで、その四章に目を通して欲しいということだったが、書籍は全体で九〇〇ページに及ぶという。頼みは、もうひとつ。巻頭に推薦文を書いてくれという。野心あふれる少壮の著書が書き上げた大著を出版するにあたって、出版社が巻頭に石原の推薦文を掲げることを強く求めたのである。出版社にとっては、担保のようなものだった。編集者に辞を低くして頼まれれば、石原が断るはずもない。石原が臨床家にこのほか敬意をもっていることは、出版社ではだれもが知っていた。
弱冠三一歳、米国留学から帰って三年余。ひとつの研究実績ももたない、わずかな臨床経験があるだけの留学帰りの男が書き上げた大著である。しかし、古くコステン症候群の背景から新しい金属焼付ポーセレンの技術まで、その知識は該博で緻密であった。論理もしっかりしていた。「その歯科医療行為がリハビリテイションと呼ばれるためには、必ずその行為が1つの目的に結びつけられていなかればならない。その目的とは機能の回復である。」 こう明確に言い切った文章を目にして石原の胸は躍った。 石原は、前年十二月に目にした歯科医療管理学会誌の講演録「オーラル・巣はびりテイション」で、「ナソロジー学派は、(CRとCO)というものはピッタリ一致しなければならない」という機械そのもののような理屈に重大な懸念を感じたのだが、保母のこの本での論調は一八〇度違ったものになっていた。 中心位の説明に、大石が発表したばかりの顆頭安定位の研究を引用して「最後方位における安定性」と書いているところは感心しないが、肝心の「ナソロジー学派の学説」という項では、「中心位のそのものの解釈にはまだまだ判然としない点があり、・・・中心位の解釈次第ではロング(フリー)セントリック的傾向を持つのではないだろうか。このように考えていくと、両者の一致しない咬合をすべて病的と断定するナソロジー学派の主張はいささか正当性を欠くものといえよう。そこで中心位と咬頭嵌合位の一致しない症例のなかで、とくに咬合病の症状のある場合に限り、病的な咬合だとする慎重さが必要だと考える。」先の機械的な下顎位の解釈を完全に否定しているのだ。これなら問題はない。 巻頭に石原の短い推薦文が掲げられた大部の書籍『オーラル・リハビリテイション』が医歯薬出版から刊行されたのは、十月の終わりだった。 「保母氏の著書“オーラル・リハビリテイション”は、その内容が理論的に深く広範にわたるとともに、臨床上の実際面に役立つようによく整理されている点に心から敬服いたしました。」 推薦文は「敬服いたしました」と、硬く、どこかかよそよそしい。推測するに、石原は懸念を払拭できていなかったのであろう。 それはたとえば、保母の序論冒頭は「オーラル・リハビリテイションという妖怪が世界の歯科界を歩きまわっている。この妖怪の出現によって、歯科界は今日かつてない混乱と動揺に陥っている。」という文章で始まっている。保母はマルクスが共産主義を妖怪に譬えたことに倣って、歯科医療界に挑戦状を送りつけたのである。保母が、高揚する気分そのままにマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の「共産主義」を「オーラル・リハビリテイション」に置き換えた一文で序論を書き起こしたのは、昭和四三年という時代抜きには考えられない。『共産党宣言』を読むことは、当時の進歩的学生の通過儀礼だった。しかし、それにしても学術図書の序論が、これでは歌舞伎の口上ではないか。石原は、学術的な著作で、この種のレトリックを使うことが好きではなかった。そして傲岸にも「オーラル・リハビリテイションを体系づけたという意味では、わが国はもちろんアメリカいおいても、現時点では本書以上のものはないと確信でいています」(同書序)と保母は言い放った。ともかくしかし、保母の『オーラル・リハビリテイション』は、咬合の権威者石原のお墨付きを得た。石原のお墨付きはアカデミアの支持を意味した。保母は、石原の没後、再びナソロジー学派に対する評価を一八〇度変えて、彼自身がアジアにおけるナソロジー学派の第一人者になるのであるが、若い保母のとって、石原の支持はとてつもなく大きな威光となったのである。 保母の「オーラル・リハビリテイション」は、書籍の本分には「(COとCRの)両者の一致しない咬合をすべて病的と断定するナソロジー学派の主張はいささか正当性を欠く」と書いているが、後に一転、中心位に一致しない嵌合位をすべて病的だと断定するナソロジーの旗を振る。すでに、「オーラル・リハビリテイション」は、咬合面を失った人の咬合の再構築のように、重大な機能障害をかかえる人のための治療体系ではなくなっていた。むしろ、「オーラル・リハビリテイション」はナソロジーと出会って、理想的な口腔を新たに構築する体系となる。ここで主客は転倒されえて、治療ニーズは専門家が決めると言わんばかりの錯覚が生まれる。「理想的な口腔」と「理想的な身体」に置き換えれば、金髪碧眼のアーリア人を理想的な身体として、その列に並ばない劣等な種族を遺伝子ごと根絶やしにしようという優生思想と五十歩百歩なのだが、歯科の補綴と矯正の分野では、この時期から「理想的な口腔」という思想が苦もなく受け容れられる時代を迎えるのである。補綴学も矯正歯科学も、生物医学の言葉ではなく工学の言葉で組み立てられた学問である。多くの歯科医師は「理想的な咬合」に異議を唱えるどころか、これを熱狂的に歓迎した。 保母の「オーラル・リハビリテイション」とその研修事業が、この後のわが国の歯科医療に与えた影響は、計り知れない。結果論から言えば、この後一年で自死した石原の影響力が、直接には教室員の範囲に限定されてしまったのに対して、保母の「オーラル・リハビリテイション」は少なくとも十数年にわたって、あまねく日本の歯科開業医が熱病に浮かされるだけの強い感染力をもったのである。」
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