◎凄(すさ)まじい鍛錬(たんれん)◎の賜物(たまもの)だからこそ⇒本物の空手は「鍛えられぬ目玉や、金的を素早く打ち抜くこと。急所を打ち抜く空手が最強だ」なのかもしれない | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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◎凄(すさ)まじい鍛錬(たんれん)◎の賜物(たまもの)だからこそ⇒本物の空手は「鍛えられぬ目玉や、金的を素早く打ち抜くこと。急所を打ち抜く空手が最強だ」なのかもしれない


昭和28年 玄制流空手道を創始して本格的に指導を開始。
昭和40年 新武道『躰道』を公表。

祝嶺最高師範は「瓦(かわら)を割(わ)る」などの無意味な練習はしないが、

・・・TV番組の趣向で「それならやってみよう」で結果「38枚」が割れた・・・

有名な逸話(いつわ)である。

①「https://genseiryu.jp/media/magazine/karatedo2001_04/karatedo1-1.html

 

 

 

驚異の鍛練の果てに

大正14年に沖縄県・名護市に生まれた祝嶺正献氏は、琉球国王家の血統を受け、また祖父は法律家、父は教育家という家庭で育った。
そんな祝嶺氏と、空手の出会いは、同じく教育者である富名腰義珍と親交のあった父のすすめによるものであった。

瓦35枚割りに挑戦する祝嶺氏。昭和29年10月、神田の共立講堂において、日本テレビ主催の空手道演武会が開催され、小西康弘(神道自然流)、坂上隆祥(糸す会)、金城裕(研修会)、西山英峻(日本空手協会)、糸川寛喜(剛柔流)、赤嶺至冠(剛柔流)などのそうそうたるメンバーの中でも祝嶺氏は、手刀による瓦35枚の試割を成功させた。

 祝嶺氏の最初の師匠は、古流唐手の使い手・佐渡山安恒であった。当時、祝嶺氏は8歳。あくまでも稽古よりも虚弱であった祝嶺氏の体質改善が目的であった。だが、その鍛練は凄まじかった。
仏桑毛の花で垣根を作り、それを飛び越していくものだ。仏桑毛の苗木は約25cm程度だが、その成長は極めて早い。一日約1cmずつ成長する。毎日伸び続ける仏桑毛の成長力と、それを飛び越す力=跳躍力との競争であった。言い換えれば自然と人との闘いでもあった。
そして自然との戦いに勝利した祝嶺氏は、屈強な肉体と、跳躍力を身に付けることとなる。驚くべきことに成人になる頃にはその跳躍力は、約2メートル近くにまで達したという。
次に祝嶺氏が師事したのは、岸本祖孝老師であった。
岸本老師は、若い頃から「掛け試し(実戦)」で腕を研き、自らの空手を練り上げた無類の実戦武者であった。
「剛柔流も、上地流も体を固めるのみ。それではケンカはできない。鍛えられぬ目玉や、金的を素早く打ち抜くこと。急所を打ち抜く空手が最強だ」と考える岸本老師は、剛よりも柔に重きを置き、より迅速に動く実技・より正確に施す実技・より収縮を用いる実技・より急所を狙う実技を祝嶺氏に指導した。もちろん、その稽古は、無言・模倣・理屈抜きであり、老師が首を縦に振るまで続けられたという厳格な指導法であった。
まさに「一技一事」--数多くある技の中から、自分にあったものを選び、それを極めよ、ということである。
ゆえに祝嶺氏が13歳から、約5年間で学んだ形はたったの3つ。ナイファンチ・公相君・バッサイのみであった。特にナイファンチは型の真髄ということで田んぼに膝まで沈め、約2年間がこの型の習得のみに費やされたという。

②「https://taido.gr.jp/founder/

躰道は
沖縄の「⼿(ティー)」を
⺟体にして昭和40年に
祝嶺正献最⾼師範よって
創始された新しい武道。

躰道の創始者である
祝嶺正献最高師範は幼少のころから
沖縄武道である「手(ティー)」を学び、
さきの第二次世界大戦では、
特殊潜航艇(人間魚雷)の特攻隊員として
山口県の海軍柳井潜水艦基地において
肉迫必中の術策を懸命に思案してたところ、
昭和20年8月、終戦を迎え
九死に一生を得た経験をした。

その後、戦時中の訓練において
体得した運動法則、
つまり、旋・運・変・捻・転の動きを
基に三次元の運動空間に
適応できる実技の創作をおこなった。

また、平和な時代の武道の在り方として、
その成果を社会に還元することこそが
武道の責務であると考え、
社会における思考形式と
躰道における行動形式を
統一することにより
社会還元ができやすいように
躰道の理念を整理した。

昭和40年1月23日、
新武道『躰道』を公表し、
日本躰道協会と躰道本院
(現在の一般社団法人日本武藝躰道本院)を
設立。

昭和58年、
世界躰道連盟を設立して
同連盟総長・最高師範に就任。
国内35都道府県躰道協会に所属する
268市町村躰道協会およぴ
国・公・私立の34大学躰道部で
指導教授のほか、
国外12カ国躰道協会を指導統轄した。

躰道を創始し
日本の武道文化として
世界に普及・拡大を推進されてきた
祝嶺正献最高師範は、
平成13年11月、
76歳の生涯を閉じた

https://blog.goo.ne.jp/ikeuchi_1945/e/37191f7b8362fcd08a8a323ac9ae2edd

 

 

③東京大学 躰道部

https://toudaitaidou.com/%E8%BA%B0%E9%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF/

躰道とは

躰道の特徴

躰道の概要

躰道の歩み

躰道五条訓

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歩み

 

昭和20年第二次世界大戦の末期、玄制流空手最高師範祝嶺制献
シュクミネセイケン)
が特攻隊員として沖縄近海で作戦中の敵艦に攻撃
の内命を受け、肉迫必中術策を懸命に思案。そのときに旋・運・変・念・転
の運動法則を基にした動態に発想をえて、三次元の運動空間に適応でき
る実技を編み出した。
昭和21年、大分県南海部群明治村の山中、23年沖縄県国頭群久志
村の海上にある無人島で運技・変技・転技の一部を創作して24年静岡
県伊東市において実技を初めて公開。28年から約10年間東京を中心に
大学・自衛隊・会社団体など120余の関係道場で実験的に指導するなか
で、新武道を創造するための基礎的な内容を整え、37年に旋技・捻技を
完成し、各技をまとめて躰道と称するようになった。
昭和38年「躰道」として旋・運・変・捻・転の実技を科学的に解明するた
めに、人間の存在、社会の状態、宇宙の処理等と、武道における公理の
根源要素、法形完成の思想との相関関係を基に原理化をはかる。
昭和40年に、動向<相対の原理>制御<相剋の原理>体気<呼吸
の方法>法形<体・制・玄>経絡<陰陽の調整>などと「物理像」「生理
像」「心理像」「情緒像」を一元的に体系化して「躰道」を集大成した。

 

⑤「http://www.tmdutaido.jp/

母校:東京医科歯科大学 躰道部

今は縁がなくなりましたが、みんな後輩は活躍してますね・・・

嬉しい事です・・・

以下は、おまけ、参考映画