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❶『生体は人体は、『機械論』だけでは語れない!』「福岡伸一動的平衡3  チャンスは準備された心にのみ降り立つ」を読む❶第1章 動的平衡組織論


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第1章 動的平衡組織論(どうてきへいこう そしきろん)

理想の詩

 詩人たちが言葉の森へ分け入り、自らの思い描く理想の詩を紡ぎ上げるように、研究者にも各々が追い求める「理想の詩」はある。私にとってのそれは、一言でいえば「プロセスを大切にすること」だろうか。私自身、動的平衡という概念に一直線に到達したわけではない。私が学んだ分子生物学は、生物を共通のミクロな単位で考えようという学問。研究員時代、細胞の森に分け入り、未知の遺伝子を探して名前をつける作業に没頭した。やっていることは、少年時代の昆虫採集と変わりない。そうやって大木の研究者がミクロのパーツをひとつずつ発見していき、ついにはアメリカ主導の大々的なヒトゲノム計画により、ヒトの遺伝子情報はすべて解読された。

 声明は遺伝子という設計図をもとに、ミクロなパーツの組み合わせでできている。分子生物学では、そのように考えるのだ。しかし、そんな機械論的な見方では、生命が持つしなやかさやダイナミズムの説明がつかない。そこで私は、あれこれ思い悩んだ挙げ句、動的平衡という新たな生命の捉え方を思いつくに至った。

 そう。教育を考えるとき、そして本を書くとき、私がいつも心がけているのは、プロセスを語ることだ。

 何かを説明するとき、学者先生の陥りやすいミスが「とはもの」で説明してしまうことだろう。動的平衡とは・・・・・・。分子生物学とは・・・・・・。このように説明するのは確かに簡単だ。しかしそれでは、インターネット上にあふれる情報と何も変わらない。

 インターネットの情報にないものは何か。それは、その答えに到達するまでの時間の経緯だ。そこには時間軸が決定的に欠けている。私は、きちんとプロセスをたどって答えに到達しないと、そこに至る喜びが味わえないのはもちろん、その答えを本当に理解したことにもならないと思う。

 「教養」と「物知り」の違いも、この辺にあるのではないだろうか。教養とは、知識が時間軸に沿って、その人の体験の中にきちんと組織化されていること。一方、物知りはネットのアーカイブのような、知識の羅列でしかない。

 私の著書『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)には「生命とは何か」をめぐる私自身の認識の旅路が書かれている。読み手も私と同じ船に乗って旅することができるので、おそらく多くの人に読んでいただけたのだろう。時間軸をもって語れば、それは物語になるからだ。「動的平衡とは・・・・・・」なんhんて書き出していたら、きっと誰も読んでくれなかっただろう。

 この「プロセスを大切にする」という発想は、大学で私の講義を受講している学生たちには、あまり伝わっていないかもしれない。私自身、学生時代は先生の話をあまり熱心に聞いていなかった。何年も後になって、「先生の言っていたのはこういうことか」と、いくつか気づくくらい。教育とは、そんなものだろう。きわめて歩留まりが悪いのだが、かといって、教育に効率や成果を求めてはいけない。

 そもそも、私が目指しているのも、役に立たないことなのだ。科学の最終目的は、「生命とはこうなっている」とわかりやすい言葉で語ること。それが語られても役に立たないし、お金儲けにもつながらない。しかし人生に、ある種の解答を与えられるはず。だからこそ私は、何とかそれを語ろうと努力を続けている。

 

経済をエントロピーから考える

 いきなり大きな物語から入るが、驚かないでいただきたい。宇宙の大原則に「エントロピー増大の法則」がある。エントロピーとは乱雑さのことであり、この世界のすべてのものごとは、時間の経過とともにエントロピーが増大する方向に進む。壮麗豪華な白亜の神殿も年月とともに風化・崩壊し、フェルメールの傑作でさえも退色し、機器も損耗する。整理整頓してあった机もあっという間にファイルや書類の山を化す。いかにすてきな恋愛もまもなく色褪せる。つまりこの世界では、あらゆる秩序はあまねく崩れ、乱雑になっていく方向にしか進まない。

 価値を生み出すこと。商品を作り出すこと。ビジネスを考案すること。利益を生み出すことは、結局のところ「エントロピー増大の法則」に抗って、乱雑さの中から秩序を創出することに他ならない。宇宙の大原則に逆らって行う行為である以上――つまり坂を転がり落ちる岩を止めるようなものである以上――エネルギーがいる。そして、最終的には決して宇宙の大原則には勝つことができないゆえに、止めた岩はまもなく転がり落ちてしまう。つまり、ありていに言えば、商行為とは、使ったエネルギーよりも作り出した秩序により大きな価値を創造すること、そしてその秩序が再び無秩序に還るまえに、その状態を転移することである。たとえば、川底に土砂の中から、砂金を取り出してくること。精製は乱雑さの中から秩序を生み出す作業、つまりエントロピーを下げる行為である。だからそこに価値が生まれる。逆に、土砂の中に砂金を混ぜること。足し算なので価値が加算されるように見えて、一瞬にして価値は無に帰す。エントロピーが増大するからだ。いったん混ぜたものを再びセパレートするには膨大な労力を要する。しかも混ぜることは常に危険を孕む。混ぜることで、乱雑さがより拡散することになり、大きなリスクを生み出しうる。

 

動的平衡としての生命体

 絶え間なく増大するエントロピーと必死に闘っているのは何も商社パーソンだけではない。もっとも果敢にエントロピー増大の法則と対峙しているのは何あろう、もっとも高度な秩序を維持している私たち生命体である。如何にして?

 私は生命のこの営為を「動的平衡」と名づけた。

 生命にとって、エントロピーの増大は、老廃物の蓄積、加齢による酸化、タンパク質の変性、遺伝子の変異・・・・・・といった形で絶え間なく降り注いでくる。油断するとすぐにエントロピー増大の法則に凌駕され、秩序は崩壊する。それは生命の死を意味する。これと闘うため、生命は端から頑丈に作ること、すなわち丈夫な壁や鎧で自らを守るという選択をあきらめた。そうではなく、むしろ自分をやわかく、ゆるゆる・やわやわに作った。その上で、自らを常に、壊し分解しつつ、作りなおし、更新し、次々とバトンタッチするという方法をとった。この絶え間のない分解と更新と交換の流れこそが生きているということの本質であり、これこそが系の内部にたまるエントロピーを絶えず外部に捨て続ける唯一の方法だった。動きつつ、釣り合いをとる。これが動的平衡の意味である。

 生命の秩序は、過去三八億年、エントロピー増大という宇宙の大法則と対峙しながら、今日まで連綿と引き継がれてきた。これはエントロピー増大の法則を打ち破ったという意味ではない。打ち負かされそうになりながらも、絶えずずらし、避け、やり過ごしながら、ここまで来た、ということである。つまり生命は大勝することはなかったものの、大敗もしなかった。動的平衡を基本原理として、(大きく)変わらないために(つねに小さく)変わり続けてきたからだ。

 

動的平衡を組織論に応用する

 動的平衡の原理を、人間の営み、人間の組織に当てはめて考えることができるだろうか。生命は、細胞、タンパク質、DNAなどの構築物を作り出しているが、その作り方は基本的には一通りである。これに対して、細胞解体、タンパク質の分解、遺伝子情報の消去や抑制の方法は、千差万別、何通りもあり、いついかなるときでも分解が滞らないように、何重にもバックアップが用意されている。つまり生命は、作ることよりも、壊すことのほうをより一生懸命にやっている。これは第一義的にはエントロピー増大を防ぐためだが、もう一つ重要な意味を持つ。それは、つねに動的な状態を維持することによって、いつでも更新でき、可変であり、不足があれば補い、損傷があれば修復できる体制をとっているということだ。だからこそ生命は、環境に柔軟で適応的であり、進化が可能になる。そして動的平衡において重要なのは構成要素そのものよりも、その関係性にある、という点だ。

 自動車は走りながら故障を直すことなどできない。それは構成要素の機能分担が一義的に決まっていて、しかもその役割が機械論的なアルゴリズムの中に一義的に固定されているからだ。どれか一つが壊れれば交換するしかない。

 しかし生命の構成要素(細胞、タンパク質、遺伝子など)は、絶えず更新され、動的であるがゆえに、その関係性は可変的で柔軟だ。もし何かが欠落したり、不足したとしても、増減を調整したり、ピンチヒッターになりかわったり、バイパスを作ったりして、問題にすぐ対処できる。構成要素はどれも基本的には多機能性であり、異なる役割を果たしうる。

 さたに大切なことは、生命の動的平衡は自立分散型である、ということだ。個々の細胞やタンパク質は、ちょうどジグソーパズルのピースのようなもので、前後左右のピースと連携を取りながら絶えず更新されている。ピース近傍の補完的な関係性(相補性)さえ保たれていれば、ピース自体が交換されても、ジグソーパズルは全体としてゆるく連携しあっており、絵柄は変わらない。

 新しく参加したピースは、郷に入っては郷に従うの言うとおり、周囲の関係性の中で自分の位置を役割を定める。既存のピースは、寛容をもって新入りのピースのために場所を空けてやる。こうして絶えずピース自体は更新されつつ、組織もその都度、微調整され、新たな平衡を求めて、刷新されていく。

 そしてここのピースは、いずれも必ずしも鳥瞰的に全体像を知っている必要はない。ローカルで、自律分散的な細胞の集合体であり、各細胞はただローカルな動的平衡を保っているだけだ。脳は生命にとって実は「中枢」ではない。むしろ知覚・感覚情報を集約し、必要な部局に中継するサーバー的なサービス業務をしているにすぎない。情報に対してどのように動くかはローカルな個々の細胞や臓器の自律性に委ねられる。

 かつてサッカーの岡田武史監督と対談したときのこと。読書家の岡田監督は、私の動的平衡論を読んで、高く評価してくださった。そして、これは組織論としても応用可能だ、各選手が、自立分散的に可変性・相補性をもって状況に対応できれば最強のサッカーが実現される、という主旨のことをおっしゃってくださった。

 この議論をさらに進めれば、自立分散的な動的平衡のサッカーにおいて、少なくとも試合のまただ中においては、いちいち指示を出す必要のないゲームが実現するだろう。おそらく理想の組織とはそうおいものではないだろうか。

 

生命と情報

 生命と情報の問題について、エントロピーの視点から触れておきたい。生命活動にとって、環境から正しい情報を捉えて(餌のありか、パートナーの居場所、敵の動向、気温や酸素濃度・・・・・・)、それに対して正しく応答することが生き延びるために必須である。つまり生命現象という秩序の維持には適切な情報を汲み取ることが必要だ。それを誤ると生命の秩序はたちまち平衡を失い、生存の危機に陥る。つまりエントロピー(乱雑さ)が急増してしまう。この意味において生命にとっての情報収集とは、負のエントロピーを得ること、つまりエントロピーの増大を逓減させる重要な武器となる。ただし、誤ってはいけないのは、生命にとっての情報とは、「変化(量)」である。気温や酸素濃度が急に下がること、血の匂いが立ち上ること、不審な音が聞こえること・・・・・・その差分――今までなかったものが現れる、あるいはあったものが消える消える――そのような変化こそが生命にとっての情報である。

 私たちはインターネット上の知識やデータなどを情報と呼んでいるが、それは静的なアーカイブ(蓄積)にすぎない。つまり単なる膨大な砂粒でしかない。その中から有用な砂金を検出して選り分けること、その行為が生命にとっての情報収集である。そして次のアクションに結びつかない情報は生命にとって情報ではない。その意味でも生命は常に宇宙の大原則、エントロピーの増大と闘っているのである。

 以上、エントロピーの視点から生命の動的平衡について概観してみた。生命の動的平衡を支えるミクロな構成要素(細胞や分子)の融通無得な動態は、たとえば商社という組織を支える構成メンバーのあり方に重ね合わせることができ、その対比から学ぶべきことが見出せるはずだ。なぜなら商社もまたダイナミックな生命体、すなわち動的平衡に他ならないからである。

 

つづく・・・・2025/6/16/