⑯『十四 責任 「ほんとに、病院長にはなりたくないんだよ。策略にかかってしまった。」』「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む」 | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
新潟県柏崎市で矯正歯科・小児歯科・歯科ならきたざわ歯科です。

予約制📞0120-008-418
携帯電話からは☎0257-22-6231

9:00-12:00 / 14:00-18:00
(土曜日は17:00まで)

休診日 水・木(往診等致します)・日

⑯『十四 責任  「ほんとに、病院長にはなりたくないんだよ。策略にかかってしまった。」』「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む」


 

十四 責任

「ほんとに、病院長にはなりたくないんだよ。策略にかかってしまった。」

石原は、帰宅するなり、ほんとうに苦虫をかみ潰したような顔でそう言った。

昭和四四年一月、石原は歯学部付属病院の病院長に任命されると同時に大学の評議員になった。病院長になると、外来診療がほとんどできなくなる。それが何よりも困るが、評議員になるということは、大学の運営側に立つことを意味した。大学の運営側の一人になると、無駄な会議が増えることも閉口だが、それ以上に自分の背負えないものを背負う気持ちの負担が大きい。それが嫌だった。七月に計画していた渡欧も中止せざるを得なくなった。

その悪い予感は、すぐに的中した。一月十八、十九日の両日、東大の安田講堂に籠城する学生と機動隊が、まるで城攻めのような壮絶な攻防戦を演じた。そして、これを境に、全国の大学や高校で、スト、授業放棄、バリケード封鎖が文字どおり燎原のごとく広がったが、医科歯科大学もそのひとつだった。

安田講堂事件の当日、続々と学生らが本郷やお茶の水周辺に集まったのだが、行き場のない学生たちやが、駿河台通りをフランスのカルチェ・ラタンに見立てて解放区にしようとした。前の年の六月、明治大学に拠点のあった学生組合が駿河台通りの二ヵ所に机や椅子でバリケードらしきものを築き、学生街を解放区にしようとした事件があった。学生らが、神田カルチェ・ラタン闘争と呼んだ事件である。これは組織的に計画されたものだったが、バリケードはあっけなく機動隊によって排除された。翌年一月の事件でも、街路の学生たちは簡単に排除されたが、そのとき機動隊に追われた学生たちが医科歯科大学の構内に入った。駿河台通りを駆けあがって、お茶の水橋を渡りさえすれば大学構内である。神保町の街路は機動隊の制圧下にあったが、他方大学構内は「解放区」となって、他大学の学生が口内を我が物顔に徘徊した。そのときを境に、大学の食堂に居座ったグループがあった。日大の歯学部学生など十数人が医科歯科大学の食堂で起居し、公然と根城にするようになったのである。

利益優先の大学運営が随所に綻びをみせていた日大では、巨額の使途不明金の発覚を発端として学生の抗議活動が激しくなり、大衆団交で古田重二良会頭が全理事の退任を約束する事態にまで発展した。しかし大学側は、大衆団交が終わると手のひらを返すようにこれを反古にし、大学に機動隊を入れ、体育会系の学生を動員して手荒い収拾策を講じた。これが世に、日大全共闘という呼称を知らしめた日大紛争だが、このとき居場所を追われた学生活動家の一部が、医科歯科大学に移って居座ったのである。事実関係は不明だが、全共闘系学生にかかわる政治党派は、安田講堂事件以後、勢力の維持拡大をめぐって対立を深めていたので、拠点校をつくる狙いで、組織的に医科歯科大学に居座ったことは想像に難くない。

一月の解放区騒ぎで、デモ規制の機動隊が大学構内に入ったのだが、これに抗議して前年来ストに加わっていなかった歯学部学生がストを決め、二月末に歯学部の第一~第三講堂をバリケードで封鎖し、試験をボイコットした。紛争の中心は、医学部から歯学部に移った。

医科歯科大学新聞会の『医歯大新聞』は、再三再四、学生部長の総山教授に言及している。

三月「とくにこの間、学生部長の行っている言動は、学内右派イデオローグから体制右派イデオローグへの自覚過程として」位置づける必要がある。「もはや我々は、学生部長批判ではなく弾劾を必要と」している。

 

四月、ストは歯学部の二年、三年へと拡大する。

「この闘争は、・・・東大―日大闘争に関連しての学内機動隊導入・総山学生部長の発言に抗議の運動であったが、」「総山発言とその後の教授会の対応については、・・・大学『自治』論の転倒、破産」とみると書いている。学生たちが考える自治とは、が学生と教員による自治だったが、総山が考えるのは教授会による自治だった。学生たちは、総山を引きずり出すために大衆団交を要求した。

学生運動は、一部の政治的背景をもつ学生グループに一般学生が同調しなければ、大衆運動にはならない。しかし一般学生を甘くみてはいけない。一般の政治的無関心層の学生も、感情を強くゆさぶられれば、目先の損得を忘れて行動する。その意味では、総山は、一般学生の反感を買う発言を繰り返し、ふいごで風を吹き込むように学生運動の火を燃え上がらせたのである。

続く四月末の沖縄反戦デーのデモに際しても機動隊が構内に入ったことで紛争は一段とエスカレートした。その過程で、反代々木系(反共産党系)の政治組織が学内の主導権争いにしのぎを削る状況が生まれ、学生たちの活動は複雑な力関係の渦に翻弄されつつあった。

学生部長の総山教授が、学生たちの要求する大衆団交に出ることにはなかったが、病院長の石原は、事態収拾のため、代わりに学生たちの要求を受けた。こうし動て歯学部付属病院長の石原が、学生たっとの“団交”の前面に立つことになった。

 

「今日は、学生自治会と“団交”なんだ」と言って出た日、意外にも、いつもより早く帰宅した。けがでもしてはいないかと心配だったが、「すまん、風呂に入りたい」といって、茶の間で新聞を拡げた。

どう声をかけていいかわからなかったが、「今の学生さんは、乱暴でいやですね。」と和が独り言のように呟くと、「いや、あれはあれでいいんだよ、ダメなのは教授会の方だ」と意外な応えが返ってきた。

学生たちに正面からまともに向き合うと、根本的なことを学生たちといっしょに真剣に考えるいい機会になる。何のために大学にいるのか、何のために学問をするのか、何のために歯科医学はあるのか、そういう議論は普段は青臭くてだれもしないのだが、そういう根本的な問いを学生自身が自分に問いかけるいいチャンスだと思っていた。前の年の十一月、東大の文学部長になった林健太郎が、バリケード封鎖された構内で文学部全共闘の学生たちに囲まれ、九日間、一七三時間にわたって監禁されたことが新聞記事になった。その話が、監禁事件として話題になったとき、林教授は、学生たちの意見をゆっくりと聞き、諄々と諭し、学生の方からもう止めようというまで席を立たないと覚悟を決めていた、そうに違いないと石原は想像した。運動のリーダーは、「支配層の代理人」たる学長を舞台の上に引っ張り出して、学生対中の前で吊るし上げる場面を演じて運動を盛り上げたが、林は吊るし上げられるのを承知で「その手に乗ろう」と考えた。林は、そういういう気概をもつ大学人だった。林は学長の代わりに、自ら進んで監禁された。「一教授じゃあ、不足だろうが、文学部長になったんだからね」石原は、林がそう言うだろうと想像した。

このとき学生たちは、大学側との舞台上での交渉を「団交」と呼んだ。かつて労働組合と雇用者側との交渉は、一握りの組合幹部と経営者の間で行われ、この密室取引で組合幹部が妥協の見返りに個人的な栄達を得るケースが多かったが、それを否定した直接民主主義が「団交」である。会社側につながった幹部は「ダラ幹」、秘密交渉は「ボス交」と呼ばれた。しかし、大学側として舞台上に引きずり出されるほうは、たまったものではない。活動家の学生らが意図したのは吊るし上げの劇場化であった。

四月、新聞部のAは、刷り上ったばかりの「医歯大新聞」を手に歯学部付属病院の病院長室を訪ねた。大学側の人間である病院長を個人的に訪ねることは、後ろめたさがあったが、新聞を届けることを自分への言い訳にして病院の建物に入った。Aは、活動家として目立った存在ではなかったが、団交の場に石原教授が出ることを控えてもらうように願い出るつもりだった。交渉の相手は、学長か、学部長、百歩譲って学生部長であるべきだ。その誰も彼もが不在で答えられない、その代わりに病院長の石原教授が出るというのは筋が違う。吊し上げの場に石原教授が出て来られても意味をなさないばかりか、本音を言えばこ個人的には申し訳ない気持ちでいっぱいだ、どうにかその気持ちを伝えたかった。

手にした医歯大新聞には、DⅡ、DⅢ(歯学部二年と三年)の無期限ストの突入の記事があった。トップの記事は「訣別への献辞 根源へ向かう眼を」という当時の学生によくあるこむずかしい言葉で飾り立てた文章で、流行語になってしまった「自己否定」を捨てて、学生であることや、研究者であることをほんとうに捨てることを真剣に考えるというようなことが書かれていた。見出しの下には、Aの好きな田村隆一の短い詩の一節を引いている。

 

ほんとうにものが見たいなら眼をえぐりたまえ ――田村隆一

石原病院長は、書籍に判を捺す手を休め、大学新聞を見ながら耳だけでAの弁解がましい団交の説明を聞いていたが、突然身を乗り出し、Aの言葉を遮るように話しはじめた。

「学問というのはね、つねに自分がとらわれているものを見直す営みなんですよ。・・・自分ですが、・・・いまの歯学部でいか程のことを学ぶことができるか。保険のための材料学をやり、保険のための修復学を勉強することは、ちっとも学問じゃあない。それを学ぶことは、学生の権利なんかじゃない。・・・研究が続けられないことは辛い。臨床ができないことはもっと辛い。患者さんに迷惑をかけていることは、ほんとうに申し訳ない。君たちのやり方は、誉められたやり方じゃない。これは君らの学問です。君らの学問を否定するつもりはありません。」

石原教授は、まっすぐAを凝視めて、ゆっくりと言葉を選んでこう語った。石原の言葉の重さに、Aは思わず身震いを感じた。それは真剣そのもので、ものわかりの良さというような生やさしいものではなかった。

「じゃあ、先生、機動隊は導入しないという約束はほんとうですか」

Aは、緊張して馬鹿なことを聞いてしまった。

「ほんとうです。約束します。」

石原病院長は、驚くほど誠実にそう応えた。Aの頭から、団交に出て欲しくないという意図を伝えようなどということは消えていた。

 

のちに讀賣新聞は次のように書いた。「石原教授が歯学部付属病院長、評議員に就任の直後まず一年生を皮切りに全学ストにはいり、さる、(九月)十三にちの機動隊導入によるロックアウトまで、三回にわたって全共闘の大衆団交に応じ、それぞれ七時間以上もかけて話合ったが物別れになっている。」

六月には、政府与党は国公立大学の紛争を解決するという理由をつけて、文部大臣が閉校・廃校措置を決める臨時措置法。いわゆる大学立法を国会に上程した。国・公立大学では、学長が紛争収拾のために、六ヵ月以内の期間、学部・研究所を閉鎖することができる。労働争議に対抗して工場閉鎖をするのと同じ、学長によるロックアウトである。文部大臣は紛争が九ヵ月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校措置)ができる。閉校後三ヵ月を経過しても収拾が困難な場合は、廃校措置をとる。紛争一年で廃校という文字どおりの治安立法である。こんな法律が成立すれば、学問の自由や大学の自治などすべて絵空事になってしまう。学生も馬鹿だが、国も無茶苦茶だ。国会に上程されたこの法案が紛争の火に、文字どおり油を注ぐ結果となった。

医科歯科大学でも、六月二七にちには大学立法反対で全学無期限ストに突入、七月十日臨床教授室、病院長室、新館が学生によって封鎖された。学生活動家たちの側も、夏休みで運動が終息してしまわないように、強攻策をとったのだ。

七月の末、石原は、平沼に呼ばれて愛知学院大学に出かけた。夏休みに入っても、石原のスケジュールは予測が立ちにくかったが、平沼は紛争収拾役を一人で背負う石原に一息ついてもらいたかったので、補綴歯科学会の東海支部に講師として招いたのだ。講演後、控え室で談笑したとき、「下顎運動に関する基礎的研究は大部分その目的を達し、今後は臨床的研究とさらに臨床との結びつきに主眼が移されて行く段階」と、研究の鳥瞰図を述べた石原は、「今年、来年は紛争に対してが主眼で、研究はしばらくストップだネ」と妙に冷めた様子だった。「紛争に対してが主眼」というのは、いかにも石原らしい。銅合金と同じように、下顎運動に関する臨床的研究も紛争に対処することも、どれもイーブンなのだ。

石原の教室の抄読会に参加することを無上の喜びにしていた開業医の金子一芳は、のちに「石原先生の存在はわれわれにとって、尊敬というより崇拝にちかかった。」と書いているが、昭和四四年になると、その抄読会が開かれることもなくなった。

「前年来次第に激しくなる大学紛争の中で、(石原先生は)極めて多忙な日々を送られるようになり、教室内にもそれにともなうさまざまな波風が立ちはじめた。」

 

元々、業績の多い石原教室では、教室員が水面下で互いに覇を競い、ちょっとした雑談に火花を散らすことがあった。それが石原の不在で、表面化した。

八月の終わりに、石原は博多に出かけたが、そこでひとつの事件が起こった。九州地区の歯科医師会合同の九州歯科医学大会の講演中に、聴衆の一人がやにわに舞台上に上がってきて、石原のネクタイをつかんで講演が一時中断するという事件が起こった。こう説明すると破廉恥な暴行事件のようだが、抗議の(仕方はともかく)内容は純粋に学術的なもので、石原はこれを甘んじてウケ、後日釈明のために抗議の主を訪れている。石原は講演が中断となったとき、屈辱でも怒りでもなく、自分が大学紛争による多忙を言い訳に講演スライドひとつ見直さなかったことに気づいて、我に返った。

評議員会、教授会などなど、心にもない事場が延々とやりとりされ、頭のなかがカスカスになるような飢餓感をもった。学生のストを罵る一方で、材料商の口車に乗せられて接待ゴルフに明け暮れて教授会を欠席する同僚教授もいた。教授会の欠席者が多いために、また弁明と再発防止策が議論された。そんなことが春以降、続いていた。それが講演中に、いきなり暴力的に臨床的な議論の場に引きずりだされた。冷たい春風が吹く野原に、突然裸のまま引きずりだされたような印象だったが、さわやかだった。

 

この九州の講演会は二日間で、二日目の八月二四日に演壇に立ったのは、大阪のY、東京歯科の金竹哲也、そして石原の三人の講師だった。前兆は、Yの講演のときにあった。客席から大声で野次った者がいたのだ。Yは、これを無視して講演を続けたので、このヤジは聴衆の記憶には残らなかった。しかし、これが前兆だった。

野次は客席の前列、講師関係者席からあがったものだった。声を挙げたのは、一日目の講師だった森克栄氏、先に石原が「Gnathology」の訳語のアドバイスをもらいに行って「ガクガク」がいいと茶化したアメリカ帰りの専攻生だった。

森については、先に紹介したが、難聴研究所の秋吉の下で歯周病の初期病変の組織標本を作製していた。左側中切歯から第一大臼歯までの上下各歯周組織の頬舌断という顔面の半分を切り取る大がかりな標本づくりだったが、この研究が米国歯周病学会のジャーナル・オブ・ぺリオドントロジーに、AkiyoshiとMoriの共著論として掲載された。日本人の投稿論文が掲載されることは珍しかったので、学内ではこれを快挙だと褒めちぎるものもいたが、専攻生の投稿であるにもかかわらず、共著者に主任教授の名前がなかった。米国の権威ある学会誌だけに、教授の怒りは尋常ではなかった。結局、無断投稿事件として扱われた。これを機に、総山と石川は、森に専攻生を辞めて、愛知学院へ就職することを促した。言葉を換えれば、厄介払いである。講師を一、二年やれば博士号がもらえる、という話しだったが、これをまた森は断った。

このAkiyoshiとMoriの論文は、米国の歯周治療学の権威プリチャード(J.F.Prichard)の目にふれ、翌年、森は八年振りに米国の研修旅行に出かけ、プリチャードに出会って再び、歯周組織検査のためのエックス線写真の重みを思い知らされた。プリチャードもまた歯内療法学のベンターと同じく、歯周治療学不遇の時代を生き抜くために制度の高いエックス線診査を心がけてきた一人だった。歯周組織を診るのは、きれいな平行法が必須だ。エックス線的に歯周組織の正常像が確認できれば、炎症は解消したと言える。森は大学側の内実のない形式主義、権威主義に一矢も二矢も報いたかった。森にとっては、総山も石原も権威者という意味では同じだった。野次の主には、野次る理由があったのである。

 

野次ですめば良かったのだが、二日目最後の石原の講演の最中に、今度はフロアからの野次ではなく、森は壇上にまで上がった。森の席の目の前に舞台に上がる仮設の階段があったのがいけなかった。

話は、このちょうど二カ月前にさかのぼる。東京の九段会館で行われた歯科材料メーカー松風主催の講演会で、石原は、この九州の講演会とほぼ同じ話をした。そこでオーラルリハビリテーションの症例を示したのだが、森は鋳造クラウンの周囲の歯肉が線維性に肥厚していることを見逃さなかった。

専攻生の森は、プリチャードの仕事にショックを受けて帰ると、すぐに補綴の医局員の診療をのぞきに行った。予想したっとり、歯石が付いたままの歯に平然とクラウンを装着していた。これでは、いくら精密な印象を採っても意味がない。「石をつけたままじゃ」補綴の医局に行って、森はそう注意したが、反応はなかった。もう少し丁寧に説明すればいいようなものだが、自分は専攻生、相手は国から給与をもらっている大学院を出た助手だ、ひとこと言えばわかりそうなものだ、と森は考える。しばらくすると、注意したにもかかわらず、一向に改める様子がないことに腹が立った。森が、石原の示したオーラルリハビリテーションの症例写真に疑念をもったのには、そういう背景があった。

さらに悪いことに、九段会館の講演会の一ヵ月後、岐阜で再び石原が同じスライドを使って同じ話をした。石原は病院長の仕事と大学紛争の対応に忙殺されて、スライドの準備どころではなかったが、外に呼ばれて話をすることを喜んだ。おかしな偶然ということがあるもので、この講演会に森も参加した。森は、同じスライドを見せられて思わず質問をした。きちんと清掃すれば、炎症は改善するはずだが、いかだかという、やや意地の悪い質問だったが、石原は、指摘によって気づかされたと壇上で謙虚に感謝の言葉を返し、助言に礼を添えた。このときの森の質問は司会者によって許可された質問だった。控え室を訪れた森に「ありがとう。今後気をつけますね」と石原は約束した。

その一ヵ月後の福岡は、お互いに講師として呼ばれたのだが、石原は最後の演者だった。森は、石原が岐阜で約束したように、きれいに改善した歯肉のスライドを見せるのを待った。しかし、この二ヵ月、大学がどういう状況だったか、説明の必要はないだろう。そもそも補綴の教室員は、補綴処置の写真は撮影しても、同じ患者の経過観察スライドを撮影するような問題意識はまったくなかった。病院の外来も開店休業状態だった。さrに問題は、教室内だった。春以降、スト続きで教室員は休みがちで、研究は進んでいなかった。個々の教室員に対して、助手の団体やスト派の学生自治会、スト反対派、さらには大学側からも連携を探る動きがあって、教室内は互いに探り合い、疑い合い、基本的な連携がなくなってギクシャクしていた。石原には、講演スライドを準備する余裕など、まったくなかった。旅先から持ち帰ったスライドを病院長室に置くと、次の講演にでかけるときそれをそのままもって出るのがやっとだった。そういうわけで、同じスライドが出たのだが、すると森は、まるで指名を受けたような調子でスルスルと壇上に上がった。森の思考回路を理解することは難しいが、歯周組織を軽んじている同じ大学の補綴専門家の言葉の足らないところを補う義務が自分にはある、その役割を逃げるわけにはいかないという、そういう考え方だった。

二ヶ月前に麗々しく指摘に感謝すると言った石原本人が、そのまま同じスライドを使ったのだ。

「スライド、戻してください。戻してください。もいちど歯肉を見せてください。臨床の先生方はわかってくださるはずだ。これはファイロボティックな炎症ですよ。」

森は講師の足らないところを聴衆に向かって解説するようなつもりだった。壇上に上がると興奮してしまった。線維性の歯肉の炎症もブラッシングによって改善することを聴衆に教える必要があった。石原が、不適切な咬合を改善すれば炎症のない歯肉が得られるという説明をしたので、その点についても咬合の改善で炎症は改善しないと説明する必要があった。しかし、聴衆は異常事態に驚くばかりで、森が何を言っていたか理解した者はおそらく一人もいなかっただろう。森の叫んだ言葉が聞こえたとしても、聴衆が関心をもっているのは全部の歯にクラウンをかぶせるオーラルリハビリテーションであって、歯肉の炎症ではない。聴衆の理解の文脈にないので、意味のないことを叫んでいるようにしか聞こえない。何者かかが突然舞台に上がって、石原教授の講演の邪魔をしていることだけはわかった。森自身にも、自分の姿が聴衆の目にそのようい映っていることが見えた。森は興奮していたので、詳細な経緯はよく覚えていない。気がつくと石原のネクタイをつかんでいた。森にも、暴漢が講師の胸ぐらをつかんでいるような図になっていることがわかった。

座長の金替茂実(当時、福岡市歯科医師会会長)は、学術畑の好漢である、その場をとりなおそうとマイクをつかんだとき、ふと頭に浮かんだのは「江戸の敵を長崎で討つ」というフレーズだったのだが、精一杯の頓智を働かせて「森先生、森先生、江戸の喧嘩は、江戸でやってください」とやっとのことで言ったものの、声はうわずっていた。しかし、金替のひとことで、会場からは小さな笑い声が漏れ、森が舞台から降りると、石原は何事もなかったように講演を続けることができた。

帰京翌日、石原は病理の研究室に森を訪ねた。どうみても無礼なやり方で講演を邪魔されたのだが、石原はそうは思っていなかった。石原は直情径行の若い森をむしろ好ましく思っていた。同郷のよしみということもあったかもしれない。

「咬合の話ですから、あそこで歯肉の炎症についてふれにくくて、折角ご助言いただいてお約束したのに・・・」と謝った。約束を破ってしまったことを謝りたかった。講演前にスライドを見直す余裕がなく、あのスライドが出て来たときには、全身から血が引く思いだった。差し換えると約束したスライドが出て来て、石原は驚いた。オーラルリハビリテーションなるものを口にする以上、歯石の除去のような術前の処置は前提条件だ、と森の気持ちに通じる思いをもっていただけに、石原は本気で詫びた。

 

「困った。ほんとうに困った。」

教室がまったく機能していない。病院の問題と紛争の対応に追われて研究も教育も教室員まかせになっているのだが、それが完全に機能不全に陥っていた。若手の教員にとっては、ものわかりのいい石原教授だけが、大学側の交渉窓口だった。大学側には機動隊の出動を要請して強硬に学生を排除し、正常化しようという意見から、学生の主張にも耳を傾けよう、という医研まで、小さな事件が起きるたびに喧々囂々議論になった。前者の最右翼が学生部長だった総山孝雄、後者の筆頭が病院長の石原寿郎だった。

教室を任せているⅠも、信頼に欠けた。

和は、寿郎がⅠについて面白い表現をしたのを覚えている。

「トリスなんかウイスキーじゃないなんて言っているくせに、スコッチの瓶に入れてやったら、美味いと言って喜んで飲む口だよ。」

見栄を張ることを笑っているように和は理解したが、そうではない。Ⅰには、自分がない。この混乱している時期に、若手の助手グループに囲まれてストに賛成だと言ったかと思うと、学部長に呼ばれれば位置に地も早い整除かに努めたいと口にしてしまう。あっちに行っては、はいそうです、こっちに来てはごもっともでは、却って混乱をひどくするだけだ。そういう定見のなさを「スコッチの瓶に騙されるやつだ」と嘆いたのだ。

第学派、校舎の封鎖を解除し正常化するために、九月十三日に警視庁機動隊に出動を要請した。以下は、九月十三日夕刊の朝日新聞の記事である。

――――――――-――――――――――――――――――-――――-―――

二月末から校舎の占拠、封鎖が続けられていた東京医科歯科大学・・・に十三日早朝、大学側の要請で警視庁から機動隊が出動、実力で封鎖を解除した。

大学当局は当分の間、病院を除き、医、歯学部構内への学生らの立入りを禁止する掲示を出した。三十余人の学生が泊り込んでいたが、大学側の退去要求にすなおに応じ、混乱はなかった。

・・・ロックアウトのため同大学付属病院は十三日から当分の間、外来診療を休止する。

朝日新聞昭和四四年(1969年)9月13日夕刊

―————————————————-―—————-

新聞報道によれば、

「ロックアウト後は、同学部助手98人を集めて、機動隊導入の事情を説明、協力を求めた。しかし一部の教官グループが強く反発、16日から再開された再来患者の診療には助手会が診療を拒否したため悩んでいたという。」 讀賣新聞 昭和44年(1969年)9月19日夕刊

 

九月十七日までに、ほぼすべての教室員が石原からの電話を受けている。石原は、一人ひとりに今後の研究の考えを尋ねた。

「わかった。じゃあ、それをやりたまえ。」

そう言って電話は切れた。

河野は、新しいCT装置が入った名古屋大学に行って顎関節の画像を撮影することを確認した。

「じゃあ、それをやりたまえ。」

翌朝、院生の中尾は、石原に呼び止められた。

「君には電話が通じなかった、すまんが、まあいい。」

交わしたことばはこれだけだった。

十八日午後、講師以上の教室員といっしょに診療と授業の再開について、二時間にわたって話し合い、午後七時から四時間、歯学部内で開かれた評議会に出席、同十一時すぎ帰宅した。「桐野学部長の車で送ってもらった」と言って、入浴後いつものように食事もせず、「相手の写真をもう一度見せてくれ」と言った。娘の見合い写真のことだった。娘は「パパみたいん、学者みたいな暗いのはいや」と父親の勧める相手にはこれまで関心を示してこなかった。しばらくみつめてから「これで決めてくれるといいんだがな」と呟いた。

 

このものがたりは、唐突に終わる。写映中のフィルムが切れるように、だれもが予測しない終わり方をする。

妻の和に封筒をもってこさせ「私は仕事があるから先に寝なさい」といって書斎に入った。和は大学の仕事の整理をするのだろうと、便せんと封筒を渡した。これが、寿郎と交わした最後の言葉になった。

新聞各社は十九日の夕刊で、石原の自死を詳しく報じた。以下、東京新聞の記事から抜粋する。東京新聞は夕刊の一面の見出しに「助教授ら突き上げ 機動隊導入めぐり 当局との板ばさみ」と書いた。

———————————————————————–

長引く大学紛争を苦にして、東京医科歯科大学歯学部付属病院長が自殺した。まじめな学究肌の人で、付属病院の自責と紛争の板ばさみに悩んだらしく、大学関係者らにあてた四通の遺書があった。学園紛争にからんで自殺した教授は東京工業大学の新楽(にいら)和夫教授(当時四九歳)、九州大学文学部の鬼頭英一教授(当時六十一歳)などことしに入り四人目である。

 

同署の調べでは、書斎の机の上に妻子と清水文彦同大学長代行、井上昌幸同大学歯学部助教授、愛知県にいる母親にあてた封筒にはいった四通の遺書があり、覚悟の自殺をみられる。・・・

さる一月病院長に就任してからは、とくに大学紛争について苦悩していた。

 

毎晩おそくまで書斎にこもりがちで、一週間前には和子さん(ママ)に『紛争解決に助教授や助手が協力してくれなくて困る』と悩みをもらしていた。四日前ごろから大学でも家でもほとんど口をきかなくなり、紛争解決について絶望的になっていたようだという。

遺書の内容は次のとおり。

清水学長代行あて=ご迷惑をおかけしますことをお許し下さい。

第二歩哲学教室の井上昌幸助教授と教室メンバーあて=長い間お世話になりました。今回のこと、どうしてもつぐなうことのできぬ誤りを犯しました。おわびする方法がありません。あなた方に対する責任も果たさず、はずかしいと思います。補綴の将来はあなたにお願いするほかありません。(“今回のこと”とあるのは、さる十三日の機動隊導入を決めた評議会の決定を石原病院長が井上助教授らに伝えておかなかったことをさすものと見られる)

妻の和子さん(ママ)あて=あとのことを思うと申しわけなくて、なんとおわびしてよいかわかりません。秀代(長女)康一郎(長男)のことは、つらいでしょうがなんとかお願いします。長い間ありがとう。あなた方のことを思うと、生きてなくてはいけないと思うのですが、どうもだめです。秀代、弱いパパを許してください。幸福にしてあげられなくてすみません。康一郎、強い男になってください。さようなら。

東京新聞 昭和44年(1969年)9月19日夕刊

————————————————————————

東京新聞は、社会面で自死の理由を詮索した。和夫人と歯学部長の桐野忠大教授以外に、果たして大学内の事情を知る者に取材したかどうか、かなり疑わしい。もし、大学内の幾人かの教官に取材したとしても、あるいはもし石原教室の教室員にじっくりと話を聞いたとしても、自死に至る石原の真教を推し量ることなど、できるはずがない。その意味では、「はてしない紛争と、そこに生まれた若い医局員たちとの“断絶”の重荷が耐えきれなかったのだろう」と推測した記事は、まったくの想像の産物だった。

たしかに新聞記者が書いたように、「教授会のタカ派に押し切られ機動隊が導入されてからは、石原院長が主任教授をしていた歯学部補てつ学第二教室でじゃ、若手の助教授、助手たちから石原院長の責任を追及する」そのような声はあっただろう。しかしそれは、「強い突き上げ」などというものではなく、大きな期待と落胆だった。教室員たちには、学内のさまざまな精力からさまざまなアプローチ、硬軟さまざまな圧力があった。石原は、雑務に忙殺されながらも、努めて教室員の意見に耳を傾けた。ときには無責任な要求に、声を荒げたこともあったが、その対立は深刻なものでなかった。むしろ、機動隊導入後、教室員たちは病院長から距離をおいた。これは遠慮ということもあっただろう、石原ひとりを頼みにしても無理な話は通らない。

「ここ一週間ほど同教室で、助教授や助手たちとほとんど口をきくこともなくなり、一人で悩んでいたらしいという。家に帰ってからも、眠れない夜が続いていたようで、和子夫人(ママ)に『若手が協力してくれない』という意味の悩みをもらしていた。」

このとき石原がもっと腐心していたのは、病院の外来診療の再開であったが、そのために必要な医局員の協力が得られなかった。しかし、その悩みは、自死につながるような問題ではなかった。

「石原病院長は十八日、桐野忠大医学部長(ママ)に『自分が、全部責任をとる』と語ったが、桐野部長(ママ)はこれを、やむをえず機動隊を導入したことや、若手教授たちの説得が出来なかったことから、病院長をやめる意味に受け取ったという。」

病院長を辞めることで責任がとれるなら、石原にとってそれほど楽なことはない。づン総が本格化するさなか、病院長をいう籤を引かされた時点で、紛争収拾の責任をとって辞職するという選択枝はなかった。

「和さんは『主人はさる十三日の機動隊導入の責任を強く感じていたようで、それ以来、夜も眠れぬ様子でした。帰ってもあまり学校のことはしゃべってくれないので、きょうにも井上さん8昌幸助教授)に電話して相談しようと思っていた』と泣きくずれていた。」

石原の自死の知らせを受けて、電話口で耳を疑わなかった者はいなかっただろう。

大学新聞のAは、駅に新聞を買いに走った。大きな見出しを見ても、こんな白々しい虚報をどうして大きくとり上げるのだとうと奇妙な感覚にとらわれた。Aは、意味もなくお茶の水の大学に向かった。大学は授業も中止、病院の外来も閉鎖されていたため、何事もなかったかのように閑散として静かだった。石原教授が難しい立場にあることは分かっていたが、バリケードなどと言っても子ども遊びのようなものである。校舎の入口にパイプ机やロッカーを天井まで積み重ねて、一見猫のの入る隙間もなさそうだが、ところどころ机を内側から縛った番線が覗いていた。いまは、すっかり片付けられていたが、機動隊どころか、腕力も人の数を恃む必要もない、番線カッター1本あれば、解体できそうなバリケードだった。

気遣いに溢れた石原は、だれかれとなく気遣っていたが、石原を気遣うことはだれもが忘れていた。新聞は、「機動隊導入の責任」と書いていたが、それが石原の自死につながったとは信じられなかった。

夜半、代々木の石原の家の玄関前に、数人の学生が、新聞記者や学校関係者をかき分けるようにして訪れた。皆、青ざめた顔をしていた。対応に出た和夫人は、その中のひとりに見覚えがあった。大学新聞のAだった。

和夫人は、後に「最初にお線香をあげに来てくださったのは、学生さんたちでした」と語っている。」

 

①「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む①・・・2024/10/04