第二次世界大戦末期、

沖縄本島に上陸した米軍は

「ニミッツ布告」を公布して占領を開始した。

その後、沖縄が日本に復帰するまでには

米兵によるいくつもの犯罪・事件が起きている。

例えば、1940年代後半には米兵が夜な夜な民家を訪れ、

人妻や若い娘などを拉致し、

もてあそぶ事態が横行していた。

『証言記録 沖縄住民虐殺 日兵逆殺と米軍犯罪 〈新装版〉』

(佐木隆三著、徳間書店)より一部抜粋し、お届けする。

(全3回の1回目/続きを読む

終戦後、米国が占領する沖縄では米兵の“女漁り”が横行していた
©YANCHINGNOW/イメージマート

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「プッシュ・オーケー?」

と家をのぞきこむ米兵

1947年9月9日、午後10時ごろだった。

越来(ごえく)村字安慶田(あげだ)(現沖縄市)の松林で、

ドラム罐をたたく音がし始めた。

それは松林のなかの仮小屋から始まって、

しだいに丘の下のほうへ伝わり、

木の枝に吊った酸素ボンベや

軒先の石油罐など、一斉に鳴りだした。

敗戦から2年後、いったん“捕虜”の扱いをうけた住民も

収容所から出されて、ほとんどが仮小屋の不便な暮らしながらも、

生活の建てなおしをはかっている時期である。

この住民区域に、夜になると米兵が女漁りにあらわれ、

「プッシュ・プッシュ・オーケー?」

と誘惑とも脅迫ともつかぬことば

(プッシュは性交の意味)をならべながら、家をのぞきこむ。

人妻であろうが娘だろうが拉致して行き、

2、3日もてあそんでから帰すようなことが頻繁に起こっていた。

住民はたった一つの自衛手段として、

音のするものをガンガンたたき、

斧や棒切れをかざして、ワーワー騒ぐしかなかったのである。

この夜さらわれたのは、

27歳の主婦・奥間シゲコさんだった。

彼女は、この年6月に生まれたばかりの

三男がむずかってしかたないので、

カンテラを灯して小屋の外で授乳していた。

すぐ近くの小屋から、

奥間カマタさん(当時34歳)も出てきて、

2人は世間話の最中だった。

シゲコさんの夫・奥間政栄さん(当時27歳)は、

小屋の中ですでに就寝していた。

病身の政栄さんは、胡屋(ごや)の中央病院へ行って注射をうってもらい、

早くから寝ていたのである。