『生体は人体は、『機械論(きかいろん)』だけでは語れない!』「第8章 動的平衡芸術論」「福岡伸一動的平衡3 チャンスは 準備された心にのみ降り立つ」を読む | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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『生体は人体は、『機械論(きかいろん)』だけでは語れない!』「第8章 動的平衡芸術論」「福岡伸一動的平衡3 チャンスは 準備された心にのみ降り立つ」を読む


第8章 動的平衡芸術論

プロフェッショナルの定義

 こんな調査がある。スポーツ、芸術、技能、どのような分野でもよい。圧倒的な力量を誇示するプロフェッショナルというものが存在する世界がある。そんじょそこらのアマチュアなどまったくよせつけないプロフェッショナルたち。そのような人たちがいかにして形成されたのか。それを調査したものである。

 世界的コンクールで優勝するピアニスト、囲碁や将棋の名人たち、トップアスリート。彼ら彼女らについて、ふつう私たちは半ばため息をつきつつ、次のように感じている。あのような人たちは天賦の才能の持ち主なのだ。われわれ凡人とはそのものの出来がまったく異なるのだと。

 ところが、天賦の才能の有無以前に、プロフェッショナルたちの多くは皆、ある特殊な時間を共有しているのである。一万時間。いずれの世界でも彼ら彼女らは、幼少時を起点として少なくとも一万時間、例外なくそのことだけに集中し、専心したゆまぬ努力をしているのだ。一万時間といえば、一日に三時間の練習をしたり、レッスンを受けるとして、一年に一〇〇〇時間、それを一〇年にわたって休まず継続するということである。そのうえで初めてプロフェッショナルが成り立つ。

 DNAの中には、ピアニストの遺伝子も将棋の遺伝子も存在してはいない。DNAには、人を生かすための仕組みが書かれてはいるが、いかに活かすかについては一切記載はない。プロの子女はしばしば同じ道を進むことは多く、それは一見、遺伝のように見える。けれどもおそらくそうではない。親はDNAではなく、環境を与えているのだ。やはり氏より育ち。DNA研究者の偽らざる感慨である。

 あるいは、私たちの生物学者にとっての「プロフェッショナル」の定義とはなんだろうか?それについて語るには、まず我々の「仕事」について説明する必要があるだろう。

 髭もじゃで髪は鳥の巣みたいな博士が、プクプク泡を立てている試験管や色とりどりの液が入ったフラスコのあいだを忙しく立ち歩いている・・・・・・。古いSF映画に出てきそうな、そんなステレオタイプな実験室を創造している方がいるとすれば、分子生物学の現場を見るときっと戸惑うことだろう。そこは基本的にとても清潔で、とてもしんとしている。そしてすべてのものがとても小さい。私たちが使う試験管は、二センチメートル足らずのプラスチック容器であり、円錐形の底にほんな少しだけたまっている反応液は、マイクロリットルの量、まさにすずめの涙ほどしかない。目を凝らして見ないと、あるのかないのかすらわからない。しかし、たとえ目を凝らしてもその液に溶け込んでいるDNAの姿はまったく見えない。私たちは、そこに一定量のDNAが溶け込んでいると想定して仕事を開始する。この試薬を添加するとDNAは切断され、別の操作を行うとそこに新しい配列が加わり、さらに特別な酵素を加えるとDNAが再結合する。そう信じながら実験を進める。

 このような過程を何段階も、あるいは何十段階も経て、初めて実験結果が目で見える地点に至る。たとえば、そのDNAを取り込んだ大腸菌のコロニーが発色するというような形で。そして多くの場合、実験結果は予想していたものとは異なるのである。私はいつも学生に言う。ここからがほんとうの実験の始まりだと。与えられた手続きを行って、予想した結果が得られるのは当たり前である。当たり前のことが起こらないとき、どこに問題があるのか。その所在を突き止める能力を身につけることこそがプロになるということなんだよと。

音楽の起源

 芸術の世界における「プロフェッショナル」の定義は、さらに曖昧だ。そもそも、音楽家や画家には、資格というものが存在せず、芸術が世界から消滅したところで人類が滅亡するわけでもない。

 それにもかかわらず、私たちの魂と肉体は切実に芸術を希求し、その道のプロによる美技を渇望し続けてきた。

 とある秋の一夜、私はグールドのピアノがゆっくりと演奏するバッハのゴルトベルク変奏曲を聴いていた。そこには呼吸があり、脈拍があり、そして起伏がある。私の思いは時間を遡り、過去のささいな袋小路につきあたり、とりとめのない夢想へと拡散する。ふと気がつくといつの間にか曲は終わって、静けさがあたりを包んでいる。

 私たちが、ひとりになって音楽に耳を傾けるのは一体なぜだろう。私たちがここまで切実に音楽を必要とする理由は一体なんだろうか。

 多くの研究者は、音楽の進化論的な起源が、生物の求愛行動コミュニケーションにあると考えている。

 生物化学者ライアル・ワトソンは、ミャンマーに生息する霊長類ギボンの、実に優雅なデュエットを紹介している。雄がまず独特の曲調で歌い始める。やがてそこへ雌が加わる。雌もまた独自の歌を持ち寄る。曲はみごとなまでに調和して、二匹だけの特別な歌となる。これがおそらく最初の歌で、音楽の初源的な形態だったのではないかと。

 私の考えは少し違う。私たちが音楽から感得するその呼吸と脈拍と起伏は、まさに自分自身の呼吸と脈拍と起伏そのものではないか。つまりリズムである。生命はリズムの循環に支配され、かつ駆動されている。肺の起伏、心臓の鼓動、筋肉の収縮のインパルス、セックスの律動。これらはすべて生命を刻むリズムであると同時に、私たちに自分のいのちの実在性を確認させる音でもある。つまり、音楽とは、私たちが外部に作り出した生命のリズムのレフェレンスなのだ。文字通り、音楽とは生命のメトロノームなのである。そのことについてワトソンと話してみたかった。

生命としてのストラディヴァリウス

 音楽を生命のメトロノームとして捉えようとするとき、優れた音楽家はその身体性を楽器にまで拡張する。そんなことを私に気づかせてくれたのが、『悪魔のいけにえ』で知られるホラー映画の巨匠、トビー・フェイバーの次の文章だった。

 「男性のヴァイオリニストは楽器を異性と捉える。マキシム・ヴェンゲーロフは、自分とストラディヴァリウスの関係を端的に「結婚」だと言った。一方、女性のヴァイオリニストは、楽器を自分の身体の延長を考える。アンネ・ゾフィー・ムターは、肩当てを使わず、露出した肩にストラディヴァリウスを直接当てる。文字通り、ストラディヴァリウスは生きているのだ。呼吸をし、温度を感じ、記憶する。ルイス・クラスナーは、ナタン・ミルシテインから譲り受けたストラディヴァリウス「ダンクラ」を手にしたとき、前の持ち主の弾き方や音がまだそのヴァイオリンの中にあるのを感じたという」(『ストラディヴァリウス―5挺のヴァイオリンと1挺のチェロと天才の物語』トビー・フェイバー著、中島伸子訳、白揚社)

 音楽は時間の芸術としてある。ヴァイオリンはそれを最も優美に物語る楽器だと思う。ヴァイオリンの音は、その弦が発しているのではない。音は常に求めらるものとしてある。弾き始められた音はその到達点を求めて、ブリッジを介しトウヒ材で作られた美しい表板を振動させる。表板の裏にはバス・バーという支持材が縦方向に取り付けられており、サウンドポストという細い円柱が、カエデ材で作られた裏板とのあいだをつないでいる。これらが音を伝える。表と裏、そして周りを囲むリブ材によって閉じ込められた音は内部を巡回し整流され出口を求める。そして初めてf字孔から輝かしい光の束として外部にこぼれ出す。次々と。音と音は時間の関数として互いに重なりあい、響きあって、音の色彩を作り出す。アントニオ・ストラディヴァリはこの音の動きと作用を正確に知っていた。

 思えば、彼が生まれた一七世紀はパラダイム・シフトの時代だった。レンズが磨かれ、光の動きと作用が解析された。望遠鏡と顕微鏡が作られ、マクロにも無限の小宇宙の扉が開かれた。その潮流の中にあって、ヨハネス・フェルメールは、光の粒が時間の関数として絶えず動いていることを知り、それを自在に自在に操ること希求した。つまり彼は絵の中に時間を描き出そうとした。

 同じ頃、まったく同じことをストラディヴァリは、音について気づいたのだ。楽器の中に時間を作り出すこと。音が音を求めること。フェルメールの光を、いまだに誰も超えることができないように、ストラディヴァリの音を、その後の技術は超えることができない。なぜならそれは、フェルメールの光もストラディヴァリの音も、最初から動的なものとして作られ、絶えず息吹を吹きこまれ、温度を受け入れ、記憶を更新し、解釈されつづけるもの、つまり生命的なものとしてこの世界に生み出され、今 なお生き続けるものだからである。

 だからこそ、この希有の楽器の生の音に触れることは、そのまま、長い歴史の移ろいと、そこに流れるみずみずしい生命の振動を体感する希有の時間となる。

暗闇がもたらす発見

 音楽が生命のメトロノームならば、視覚によって捉えられる芸術は、私たちにいかなる身体的発見をもたらしてくれるのだろうか。

 私たちは視覚情報をたいへん重要な手がかりとして生活している。百聞は一見に如かずというとおり、視覚、嗅覚、味覚、触覚の占める割合はたいへん高い。その視覚が、あるときまったく失われてしまうような状況に陥ったら、私たちは一体どうなるだろう。

 現代芸術家、荒川修作が岐阜県につくった世界最大の芸術作品、養老天命反転地を訪問したときのことである。すり鉢状の円形競技場のような場所に、斜めに建った家、行き止まりの廊下、迷路のような部屋など、感覚を幻惑するようなインスタレーションが散在していた。その中のひとつに挑戦してみた。斜面に穿たれた四角い入り口がひとつ。狭い通路が内部に続くが、暗い奥がどのようになっているかは見通せない。入ってみる。しばらくのあいだは入り口からわずかに入る光でほの明るい壁が見えているが、曲がりくねる通路を進むうちに完全な暗闇の中に閉ざされる。両手で壁を探りながら歩こうとするが、道路がどうなっているかまったくわからない。そのうち自分が袋小路に行き当たってしまったらしいことに気づいた。手探りで後退しようとするも、今、自分が来た道がわからない。あれ、こっちかな。その先に進もうとするとまたもや袋小路だ。完全な暗闇の中で迷ってしまった。このままここから出られなかったらどうしよう。その瞬間、底知れない恐怖感にとらわれた。と同時に、落ち着け、という心の声がした。目をつむり、両手に触れる壁の感覚に注意を向けた。壁が曲がっていく方向が感じ取れる。

 まもなく通路の向こうにかすかな光が見え、自分が入ってきた通路がわかって事なきを得た。ほっとした。そして自分が入り込んだ暗い穴がそれほど深いわけでもなんでもないことを知った。

 少し前、たいへん興味深い本を読む機会があった。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著、光文社新書)である。著者は、東京工業大学リベラルアーツセンターの准教授で、視覚障がい者にインタビューしてこの本を書いた。

 あるときまで目が見えていたにもかかわらず、何らかの理由で視覚を失ってしまった人たちがどのようにして世界を感じ取っているか、その実感に寄り添って具体的に書き表されていく。シリアスなテーマにもかかわらず文体は軽やかでわかりやすい。資格を失った人たちはそれぞれの方法で、世界を再構築している。

 暗闇とは一体何なのか、暗闇の中で何が起こっているのか。荒川修作の作品や伊藤亜紗の著作が示そうとしていることをあえて一言でいうならば、暗闇で視覚が失われることは、欠落ではなく、むしろ脳の内部に新しい扉が開かれる契機だ、ということである。その開かれ方は人それぞれだが、欠落を補って余りあるほど豊かな方法で、視覚以外の感覚が立ち上がり、世界を新しい方法で捉え直そうとする。つまり暗闇は、私たちに生命の柔軟さ、可変性を体感させる刺激となる。その感覚は、暗闇から出たあとも持続するものとなるだろう。

 一九八八年にドイツの哲学博士アンドレス・ハイネッケが発案したエンターテインメント型ワークショック「ダイアログ・イン・ザ・ダーク』をご存知だろうか。このワークショップでは、参加者がグループを組んで光が遮断された空間に入り、視覚障がい者のアテンドにより、さまざまなシーンを体験する。

 ひとたびダイアログ・イン・ザ・ダークの暗闇に入ると、視覚は役に立たない。耳をそばだて、音や声を求めようとする。手や足の裏、白杖であたりを触り、手がかりをつかもうと躍起になる。耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ませるとき、まさにここをが開かれた状態になるのだ。仮に段差の感覚を得れば、とっさに危険だと判断し、身体は自然と平衡を保つ。それと同時に、今度は言葉に出して、周りの人に段差の存在を伝えようとする。伝えてもらった側は段差があるという情報だけでなく、教えてくれた人からの信頼や愛情を受けることになる。

 ダイアログ・イン・ザ・ダークという闇の空間は、こうして脳の内部に新しい扉を開く。開かれた扉の向こうでは他者との交流と交感がより動的なものになるのだ。

エッシャーの到達点

 二〇〇六年一一月にオランダの特異な版画家、M.C.エッシャーの大規模な展覧会であるスーパーエッシャー展が、渋谷で開催されたときのこと。最終日に至るまで連日大変な盛況で、入場券売り場の窓口にも行列ができていた(結局、一八万人以上が来場したという)。それだけエッシャーはたくさんの人たちに愛されているのだ。この展覧会は、過去幾度か日本で開催された大規模なエッシャー展と比べても、実に刮目すべき画期的な試みがなされている。エッシャーがそのあくなき情熱で取り組んだ幾何学的課題は科学的な視点から見ても極めて興味深いものである。けれどもそのことはひとまず措いて、スーパーエッシャー展では優れて実験的な試みが行われていた。

 それはまず展覧会のポスターに現れた。エッシャーは作品の隅に、自分の頭文字MCEを、彼が自ら作り出した、正方形に切り込みを入れた特異的なタイポグラフィで刻印している(MCEモノグラム)。ポスターはこのMCEの上に、同じエッシャー流タイポグラフィで、SUPERの文字を入れているのだ。オリジナルに、そのイミテーションを付加する。これはおそらく美術界(そういうものがあるとして)的にはルール違反ぎりぎりの実験だろう。しかしここにはそんな詮索を軽やかに跳ね返して、誰に対しても「あっ、エッシャーだ」と知らしめる快適な訴求力がある。もし彼が自らポスターを作製したらきっとこういうデザインで文字をしたためるだろうと思わせた点で、この展覧気合はすでに成功しているのだ(ただし、この実験の背景にはやはりオリジナルに対するそれなりの配慮があるようだ。ポスターをよく見ると小さな英字で、「エッシャーはその作品に、MCEモノグラムをサインするのが常でした。今回のスーパーエッシャー展では、最新のコンピュータ・グラフィックスを援用してこの特異的な版画家の新しい見方を提案します」〔福岡訳〕という意味の注が付記されている)。

 そのコンピュータ・グラフィックスは実際、エッシャーの作品自体を極めて斬新な拡大解釈で提示している。会場の一角にはCGを映し出す大型タッチパネルが設置してあり、そこにはエッシャーの作品から「立方体による空間充填」および、それと同じ技法で構成された、奇妙な魚が隊列を作って群泳する「深み」が再現されている(会場にはもちろんそのオリジナルがある)。これらの作品は、X、Y、Z軸に沿って均等に配置された格子もしくは魚を、斜めから無限の深みにまで眺めた様子を描いたもので、ちょうど建設中のビルの鉄骨組みを透かして見たような、くらくらとする資格を見た者にもたらす。

 驚くべきは、来訪者がこのCG画面に手を触れると画像を縦横斜め、自由自在に動かすことができることである。つまり“深み”の幻惑感をあらゆる方向から再体験することが実現されているのだ。これはまさにCGならではの実験であり、実験はここでも見事な成功を収めている。というのも、もしエッシャーが今日生きていたとすれば、彼はこのCGをきっと心から気に入ったことだろうと思えるからだ。彼が実現したかったもののすべてがここにある。そして同時に来場者は、版画作品として彼のオリジナルがあるからこそこのCGに文字通り“深み”がもたらされていることにあらためて気づかされるのだ。

 その意味で、エッシャー作品は今後、さらに多様な形でCGに引用されていくのは間違いない。そしてその引用はオリジナル版画との間で、不思議な共鳴を起こすだろう。CGによるもうひとつの試みは、「円の極限」シリーズの展開である。「円の極限」は、エッシャーの最高傑作「天国と地獄」に代表されるように、天使と悪魔が互いに図と地を構成しながら球面を覆い尽くすという表現である。彼は、規則的な“図と地”のパターンを使って平面を埋め尽くす実験の虜となって、夥しい作品を生み出した。まもなくエッシャーの充填は辺縁のない全世界、つまり球体の表面全体を隙間なく埋め尽くす方向を目指すこととなる。

 それは平面での表現としては、円の中心点から周縁に向けて図と地が徐々に小さく窮まっていくという収束パターンをとる。しかしこれは、地球儀を眺めたとき緑の部分の国々がつぶれて見えるが、実際には地球儀を回せばその国を視界の中心に捉えることが出来るのと同様、ほんとうは同寸のパターンが周縁部にも存在するものとして描かれているはずなのだ。実際、会場のCG画面は指でドラッグすることによって周縁部の画像を“引き出せる”ように作られていた(が、地球儀のようにぐるぐる回せるまでにはなっていなかった)。

 このようにエッシャーが直面した平面上の静止画における制約をCGはいとも簡単に解除することができるのだ。

 しかしこの展覧会におけるもっとも大胆な“逸脱”は、エッシャーの作品に現れる不思議な、そして一度見ると忘れることのできない奇妙な造形を、「切り出して」しまったことにある。まずらしい昆虫の幼虫のような“カールアップ”(この日本語名は失礼にも、でんぐりでんぐり、とある)、「深み」の中を一心不乱に泳ぐ“魚”あるいは自らの翼を潜り抜ける“ドラゴン”。これらがなんとプラスチック模型となって会場に置かれた“ガチャガチャ”販売機でひとつ三〇〇円で買えるのだ。ガチャガチャの常としてカプセルを開けるまで何が出たのかわからない。そこで人々は好みのキャラクターが手に入るまで何個も“大人買い”することになる。切り出された造形には地下聖堂を歩く白マスクの行者が含まれ、中にはほんとうにレア商品があるという、実は私も数点入手してしまったが、机上に並べて眺めてみると、ある種のチープ感は否めない。これがエッシャー作品の“新しい見方(the creative path)”か否かは議論が分かれるだろう。しかし、エッシャーの造形をここまでキャラクタライズしてしまったこの展覧会の企画者たちに私はある意味で心から敬意を表する。なぜならここに現れたものはまぎれもなくエッシャーの魅力を象徴するアイコンであり、観る者をもう一度エッシャー作品の深みに引き込まずには措かないからである。

エッシャーの遺言、あるいは世界を支える三匹の蛇

 エッシャー最後の作品は、一九六九年に製作された「蛇」である。ブルーノ・エルンストの『エッシャーの宇宙』によれば、エッシャーは自作についてシンプルに次のように語っている。「外周と中央には小さな輪が連なり、その間は大きな輪によってつなげられ、鎖の網になっています。蛇は最も大きい輪の中に滑りこんでいるのである」

 この作品を見る者に対して、まずダイレクトに飛びかかってくるものは、爬虫類が放つ硬質な輝きのリアリティである。蛇は確かに今生きて、息を潜めている。赤みがかった茶色の鱗のエッジや窪みの質感が、木版技術だけでここまで高度に描き出されることに驚嘆せざるを得ない。リトグラフ、メゾチントなど様々な表現技術を自在に使いこなしたエッシャーが最後に木版に戻ったことも興味深い。

 次に、私たちは不思議な環の連鎖に捉えられる。環は真鍮を思わせる鋭い黄銅色をして交差しあっている。その環は中央に向かって収斂していくが、それは無限遠点への消失ではない。環は眼で見える小ささにとどまって中央に白い空隙を残す。

 この作品を、文字通り、エッシャーの“最終解答”と受け取ることが可能だと私には思える。彼はこのとき自分に残された時間に限りがあることを知っていたはずである。ここには、彼が長い間絶えず試行を続けてきた“お気に入り”のモチーフは何一つ現れていない。互いに絡まりあった蛇の姿は観る者を幻惑するが、二つに割れた舌を出して虚空を凝視する不気味な頭部から、生命観溢れる太い胴体、優美な曲線をもって尖る尾部を眼で追えば、それは確かに一匹の蛇であり、環の表と裏を行き来するトポロジーに乱れはない。つまりここには騙し絵的な仕掛けが満ち溢れているにもかかわらず、騙し絵の要素は一つもないのだ。あるいは、環の意匠にも、かつてのテーマ、すなわち規則正しい「図と地」のパターンによる空間の充填といったものはない。そういった希求はここでは一切姿を消している。なぜだろうか。

 彼がこの細工品を制作している現場を記録した映像が残されている(“metamorphose”.ヤン・ボスドリス監督、ESCOLAから日本版DVDが発売されている)。これを見るとひとつのヒントをうかがい知ることができる。エッシャーはこのとき七〇歳を越えていたが、おそらく彼が若い頃からずっと一貫して保ち続けていただろう静謐ながら快活なクラフツマンシップを湛えて一心に作業に集中している。そして、彼の手元を見ると、一二〇度の中心角を持つ三分の一ピースの版木を基本形として用い、それを三回、一二〇度ずつ回転することによってこの「蛇」の全世界が形作られていることがわかる。基本版木には、絡まりあう二匹の蛇の、頭部から胸部にかけての三分の一と胸部から尾部への残り三分の二が含まれている。それは正確に一匹分の蛇であり、三つの基本版木が結合されたとき前後がピタリと一致して三匹の蛇を生み出す。見事としかいいようがない。完成された版画からは接合線がどこにあるのかまったく分からない。

 エッシャーが、あたかもある仮設をめぐってたゆまず実験を繰り返す科学者のようにその一生をかけて追求した試みは、幾何学的規則による空間の充填である。それは、しばしば、平面を“分割(division)”するテーマとして語られることが多い。しかし、エッシャーが行っていた実験の意図はむしろ分割の逆であった。それは、平面の、あるいは空間の「充填」(filling)だった。ごくシンプルな規則によって、この世界を埋め尽くすことができるのではないだろうか。彼はこのパズルに没入したのである。やがて彼は、単に平面を充填することだけでは満足しなくなった。

 おそらく辺縁部分が、常に、ジグソーパズルのような枠のような線分で寸断されることに不全感を感じたのだろう。まもなく、エッシャーの「充填」は、辺縁のない全世界、すなわち球体の表面全体を埋め尽くす方向を目指すことになる。それは平面的な表現としては、円の中心から周縁に向けて徐々に窮まっていく無限への収束となった。光と影、善と悪、白と黒、天使と悪魔。図と地はそのようにして世界を充填することはできる。しかし、一方を見るとき他方は拝見として沈み、両方を同時に見ることはできない。二つの要素はどこまでも対立すること以外に存在することができない。エッシャーはもちろんそのことについても十分自覚的であったことだろう。

 代数的に世界は簡単に二等分できる。しかし、一を三で割り切ることができない。〇・三三三三三三・・・・・・という無限小数を与えるだけである。ところが、不思議なことに、幾何学的、つまりグラフィカルは、世界は実に簡単に三等分することができる。代数的に三で割り切れないはずの円は、それを描いたコンパスで円周を区切ると(六等分になるので)正確に三等分できる。そして、三つの等価なピースは、世界を対立する「図と地」としてではなく、三つの力の平衡として支えあうことができているのである。

 蛇は三匹いて、紬ぎあう環を持ち上げている。エッシャーのグラフィカルな認識の旅の到達点を、私はそのように捉えてみたい。

時間を・重ねることは・生きること

 メゾチント、という言葉を知ったのはいつのことだろう。たぶん、少年の頃、エッシャーの奇妙な作品――だまし絵であるとともに、宇宙的な深度を持っていた――を見た時だったと思う。そこに付されていたこの言葉に不思議な響きを感じた。銅版画の一種であるたしかったが、実際に行われていることは知らないまま時が過ぎた。

 その不思議な響きに再び触れたのは、日本橋蛎殻町にあるミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションを訪問したときだった。路面の円エントランスから続くスロープと木の内装は、スタイリッシュなカフェか輸入家具のショールームのように見える。それもそのはず。この美術館のデザインは、エドワード鈴木の手によるものなのだ。

 夏の企画展のタイトルは「千一億光年トンネル」。私はまず一階に飾られた浜口陽三の作品を拝見することにした。彼の名は知っていたが、間近できちんと作品に接するのは初めてである。モチーフはいずれも小さな生物や果物など。漆黒の背景に、クルミやサクランボ、レモンがさりげなく描かれている。そして、まるで夜光虫やヒカリゴケのようの、それ自体は発光しsているかのように、ぼんやり色づいて浮かんでいるように見える。これらはいずれも、浜口が考案したカラー・メゾチントの手法で作られているという。

 私は、切られたすいか、尾を外側に向けてならべられた魚、平たい器に盛られたぶどうとざくろに心を惹かれた。なぜだろう。絵の間を何度か往復しているうちに気づかされた。ここにはある種の均衡があるのだ。横長の構図は、いずれも左右に行くほど捕捉なってゆき、水平線におかれた三日月にようなそのかたちは、私に天秤の均衡を思い出させた。そう思って、他の絵をあらためて眺めてみると、青い皿にちらばったサクランボにも、」かにの集いにも、たばねられたアスパラガスにも、生命だけが放つバランスの妙を感じる取ることができる。メゾンチントの、細い線を重ねて作り出された形象には生命が吹き込まれている。

 キューレーターの神林菜穂子さんの特別な計らいで、私は、生まれて初めて、メゾチントがいかなるものなのか、この目で見て、体験することができた。彼女が、銅板と工具の数々を使わせてくれたのである。鋭く光る銅板に、ベルソーでギザギザをつけていく。ベルソーとは金属のヘラで、先端が微細なノコギリ歯のようになっている。ベルソーを前後に動かすと自然に歯が移動していく。

力の入れ具合や削る方向、回数、角度などを変えることによって、銅板上に刻印される微細なギザギザの深度に変化をあたえることができる。他にもスクレイパーやバニッシャーといった工具がああり、表面の凸凹にさらに微妙な変化を与えることができる。ここにインクをかぶせ、余分なインクは布でふきとる。深い谷には多量のインクが入り、深い黒に、浅い谷には少量のインクが入り、浅い黒になる。これらの調整することにより、同じ黒でも無限の階調を表現できることになる。エッシャーの宇宙はこうして作られていたのだ!浜口はさらに、数枚の銅板原画を色ごとに正確に重ね合わせることに成功し、多色刷りのメゾチントを開発したのだ。

 こんなことを言うのは不遜に聞こえるかもしれないが、膨大な時間を費やして、銅板に向かって一心に線を削り出していくという、まさに何光年もの真っ暗なトンネルをひとり掘り込んでいく孤独と愉悦を、私は感覚としてすぐに理解できるよな気がした。

 なぜなら――場所と道具こそ違えど――私もずっと似たようなトンネルを掘り進んできたからである。肉眼では見えない細胞のミクロな構造を観察するためには、顕微鏡をつかわなくてはならない。顕微鏡は、ちょうどメゾチントの技法が感染されたのと同じ一七世紀中葉に、エッシャーの国、オランダで開発された。そして細胞の細部を顕微鏡で見るためには、いまでも――ある意味でメゾチントに似た――工芸品あるいは芸術的な手作業が必要をなるのである。

 細胞は水をたっぷり含んだやわらかい袋だ。直径は数十マイクロメートルくらい、顕微鏡の焦点深度(フォーカスが合う範囲)は極めて浅いので、生のままの細胞は厚みがありすぎて見ることができない。細胞はもっと薄く、そぎ切りにしないと観察できないのだ。しかしやわらかい袋(たとえばイクラを考えてほしい)はそのままではそぎ切りなんてできない。くずれて内容物が流れ出てしまう。そこで生物学者は、細胞の内部構造はそのまま保ちながら、細胞の水分をすこしずつ、もっと硬い成分に置き換えることを思いついた。選ばれたのはハチ蝋である。細胞を蝋人形にしてしまうのだ。しかしこれは言うのは易く行うは難し。一気にはできない。すこしずつ、すこしずつ置き換えていくのである。水分を徐々に濃度の高いアルコールに換え、アルコールをさらに特殊な溶媒に換え、その溶媒をより蝋に近い溶媒へを置換していく。こうして細胞から水分を奪い取り、そのかわり蝋成分で閉じ込めた蝋細胞が作られる。この多段階工程はさながら染色や塗り物の伝統工芸に似ている。こうしてようやくできた蝋細胞を、特殊な万力のようなものにはさみ、するどいナイフで薄く薄くそぎ切りにしていく。そぎ切りされたかつお削りの節状の(実際は厚さ数マイクロメートル)細胞サンプルを切片(セクション)と呼ぶ。ここにも細心の注意と熟達の技術がいる。細胞はミクロすぎて、この段階ではmどちらの向きに薄切りが行われているか実験者は知ることができない。キウイを横に切れば種は円状に並ぶが、縦に切ればハシゴ状にならぶ。生物学者には実にこのような空間的なセンスが必要となる。薄切りにしたセクションに番号をつけ、さらに特殊な工程を経て、スライドグラスの上に固定される。この切片を順に顕微鏡観察しながら、生物学者は頭の中で、あたかもCTスキャンの映像を三次元的に再構成するように、細胞のイメージを思い浮かべるのである。

 そんなことを思い出しながら、私は美術館中央のらせん階段をおりて、地階の企画展会場に行った。そしてそこであっと声をあげそうになった。あらゆる場所に切片=セクションが散らばっていたからである。Nerholの作品は、文字通り、樹木の切り株のセクションを積み上げて、樹木がかつて形作っていた以上の空間を再現したものだったし、水戸部七絵の作品は、大胆で力強い方法でセクションが鉄板の上に、盛られ、積みあげられていた。そこには新しい生命のかたちが浮かび上がっている。奥村網雄の作品は、近くに行かなければ、それがどのような方法で作られているのかわからない。いや、近くで見てもそれが何なのかにわかには理解できない。神林さんはわざわざ作品を覆っている大きなアクリルケースを開けて、私が直に作品に触れられるようにしてくれた。もちろん、触れたといっても指先で触れたわけではない。嗅覚によって、作品の意味に触れさせてくれたのだ。それは直接的には皮脂の匂い、間接的には時間の香りだった。奥村綱雄が、小出由紀子事務所の作家だと聞い得心した。細い糸で隙間なく刺繍された布は、それ自体、無数のタンパク質の分子で稠密に満たされた細胞の内部を私に思い起こさせた。

 展覧会の通奏低音を無理につなげる必要はないかもしれないが、神林さんによればそれは「重ねる」という表現ではないか、ということだった。確かに、メゾチントには無数の溝が重ねられており、樹木には切片が、刺繍には糸が、鉄製パネルには重力が、「重ね」られている。一方で、そこに「重ね」られているのはマテリアルというよりも、時間そのものであるともいえる。

 私たち生物学者は、細胞を蝋で固め、そぎ切りにし、ガラスの上に貼り付けて、あまつさえ人工的な彩色までほどこして細胞の極小の構築を見極めようとする。ありのままの生命を生きたまま観察することができないので、仕方なくそうしているのである。

 確かに、そこには何らかの構造物が見えるのだが、実は、その時点ですでにそこには生命はない。細胞は完全に死んでおり、そこにあるのは死の一断片=セクションでしかない。つまり生命の時間は完全に止まっているのだ。しかし、私たちはかすかな願いをこめて、その断片を集め、重ね合わせることによって、あるいは隙間なくつなぎ直すことによって、そして、そのあいだを想像力によって埋めることによって、かつてそこにあったはずの生命の時間をわずかでも取り戻そうとしているのである。

 その意味においては――つまり、世界のあり方をなんとか再構築し、表現しようとする営みであるという点においては――科学と芸術は同じ目標をもち、互いにつながりあっているといってもよいかもしれない。

生命と芸術の局在論

 「その日は日曜日だったが、日曜日でも彼は診察していた。待合室に患者が二人いるだけで、ビルはがんとしている。彼はすぐ会ってくれた。ぼくたちは話をし、彼もていねいに僕の役に立つように応対してくれた・・・・・・と、ふと彼の頭上の棚に並んでいる五、六冊の非常に古い医学書をぼくは見あげた。そして彼に仕業だなとわかった」

(『レッド・ドラゴン』トマス・ハリス著、小倉多加志訳、早川書房)

 以上犯罪捜査の専門家ウィル・グレアムは、連続殺人事件を調査していた。いずれも被害者は猟奇的な方法で殺されていた。六人目の犠牲者は特にひどかった。腹が割かれ、刺し傷や切り傷が至るところにつけられ、手足を開いて衝立に縛りつけられていた。太ももには矢までが突き刺されていた。どんな些細なことでもいい、手がかりを必死に求めていたグレアムは、被害者の脚に古傷があるのを見つけた。記録を調べ、五年前、その傷を最初に手当てした救急治療室勤務のっレジデント医を訪問した。ハンニバル・レクター。現在、彼は精神科医として開業したいた。上記の一節は、グレアムが、このレクターこそ真犯人だと気づく、息詰まる一瞬を引用したものである。

 なぜグレアムは、古い医学書の背表紙を見ただけでレクターが犯人だとわかったのか。グレアムもすぐには自分の胸騒ぎの原因がわからなかった。やっと理由がわかったのは、彼が病院に運ばれて一週間くらいたってからのことだった。古い医学書にしばしば掲載された「負傷者」の絵。グレアムはかつてそれをジョージ・ワシントン大学で受けた講義で見たことがあった。「負傷者」とは、一つの人体図にさまざまな種類の戦傷を示し、その対処法が記載された中世の図解である。「あの六人目の犠牲者の躰の恰好と不詳の具合が、その〈負傷者〉にそっくりだったんだ」

 グレアムは、まず応援を呼ばねばならないと感じた。さりげなくレクターの診察室を辞して廊下に出て、公衆電話から連絡しようとした。背後に、靴を脱いで足音を消したレクターが迫っていることに彼はまったく気づかなかった。

 この小説を読んで以来、私はずっと「負傷者」を実際に見てみたいと思っていた。というのも、「負傷者」には、現代の科学研究にも通じる局在論的な世界の捉え方が見て取れたのだ。

 それがウェルカム財団のコレクションを見学することによってとうとう実現した。『武器による傷の対処法』(一五世紀半ば)がそれである。両腕を開いて、右足を軽く開いた男の身体のあらゆる場所に、刀や剣、槍や矢などが突き刺さり、打ちかかり、裂傷などの創傷がことごとく赤く口を開いている。しかし男の表情はうつろで、どこまでも平然としている。

 レクター博士は、この図解を面白いと感じたのだ。アーティスティックだと思ったのだ。ある種のデザイン性を見て取ったのだ。そこで自らそれを正確に再現してみたくなったのだ。そして――ここが奇才トマス・ハリスが造形した、類まれなる天才レクター博士をめぐる物語の真骨頂なのだが――そのことに気づいたウィル・グレアムはまた、かつて「負傷者」を見たとき、同じように感じたに違いないのである。面白いと感じ、アーティスティックだと思い、デザイン性を見てとったのだ。だからこそ彼は覚えていたのだし、気づくこともできたのである。この絵をいつか見てみたいと願っていた私も、この展覧会にわざわざ足を運んだ来場者も、また同じ嗜好のなかにある。

 ここには人体を、あるいは世界を、分けて、分けて、分けて、その内部を、目を皿のようにして覗き見ようとしてきた人間の歴史がある。どうして私たちはそれほどまで切実に、私たち自身の中を開けてみたかったのだろう。もちろんそれは私とはいったい何かを、そして世界の成り立ちをわかりたかったからである。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは処刑場にかよって、腑分けされた人体を克明にスケッチした。ミケランジェロはきれいに皮を剥がれた脚の筋肉の走行を記録した。ペルシャでもチベットでも、そして日本でも、内臓や血管、子宮内部に育つ胎児の様子が描かれている。それはいずれも世界を開けて、開いて、分けて、その結果、得られたものである。

 私たちは「ボディ・パーツ」からなっている。心臓はポンプに、肺はふいごに、血管は樋に、関節は滑車に、骨はまさに骨組に、たとえられた。そこにはメカニズムがあり、秩序があった。秩序には確かな美が宿っていた。

 やがて分けることの解像度が上がると、つまり顕微鏡が発明されると、ボディ・パーツはよりミクロな、斉一的なサブレベルの秩序から成り立っていることがわかった。細胞の発見だった。まさに分けることによってわかったのである。細胞はさらに細かい小器官から成り立っていた。小器官はより小さな粒子、つまりタンパク質やDNAから成り立っている。

 一九五三年、分ける行為がひとつの極点に達した。イギリスのケンブリッジ大学におたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、DNAが二重らせん構造をしているというあまりにも美しくかつシンプルな事実を発表した。当時、ワトソンはまだ二〇代、クリックも三〇代だった。

 二重らせんが重大な意味を持っていたは、その構造が美しい秩序を持っていたことだけでなく、その秩序が機能を内包していたからである。DNAの二重らせんは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重らせんが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。ポジを元にあたらしいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られる。すると、そこには二組の新しいDNA二重らせんが誕生する。ここに生命とは、自己を複製しうるメカニズムであるとするテーゼが過不足なく宣明されたのだった。クリックが当時描いたスケッチは現在でも保存されている。らせんを示す丸い球の列のあいだに、円盤状の塩基の「対」がはっきりと記されている。クリックの鉛筆が描き出したさりげないカーブには、一種、自己陶酔に似た揺れにような何かが含まれているように見える。

 このようにして、私たちは世界を分けて、分け続けてきた。これによって私たちは膨大な知識を獲得した。生と死のメカニズム。疾患の分子的メカニズム。あるいはヒトゲノム計画によって解読された三〇億文字もの遺伝情報。クリックが描いた円盤のひとつひとつがその一文字にあたる。私たちが享受する医学の発展、たくさんの画期的な薬物、先端的なバイオテクノロジーはすべてその上にある。

 一方で、この腑分けによって私たちが見失い続けてきたものがある。見失うかわりに造り上げたある種の幻想があるといってもよい。

 それはすでに世界の分解が進行していた19世紀に、以下のような諫言として現れていた。

 「あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるのが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っていいるのです」

 これは一体誰の言明だろうか。意外に聞こえるかもしれないが、これはアンリ・ファーブルの『昆虫記』(奥本大三郎訳、集英社版)の一節である。孤高の生物学者ファーブルはおそらく気づいていたのだ。絶え間なく動き続けている現象を見極めること。それは私たちが最も苦手とするものである。だから人間はいつも時間を止めようとする。止めてから世界を腑分けしようとする。

 時間を止めたとき、そこに見えるのいはなんだろうか。そこに見えるのは、本来、動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた、無惨な姿である。それはレクター博士によって、アーティスティックに傷つけられた身体を持つ人物の眼のうつろさに似ている。

 それにもかかわらず、私たち科学者はずっと生命現象をそのような操作によって見極めようとしてきた。それしか対象を解析するすべがなかったからである。構成要素が、絶え間なく消長、交換、変化を遂げているはずのもの。それを止め、脱水し、かわりにパラフィンを充填し、薄く切って、顕微鏡で覗く。そのとき見えるものはなんだろうか。そこに見えるものは、本来、危ういバランスを保ちながら一時もとどまることのないふるまい、つまり、かつて動的な平衡にあったもの、「影」である。そこには秩序がある。それはもごとなまでに精密な機械=メカニズムに見える。

 それはしかしある種の幻でもある。機械、すなわちメカニズムの中では、個々のパーツはそれぞれ固有の役割を有する。物質と機能は一対一で対応している。AはBに作用をなし、BはCに作用をなすように見える。一連の因果関係が、単純な線を構成しているように見える。ある機能が、sる特定の部品の上に、あるいはある特定の場所に、「局在」しているという幻想がここに成立した。

 しかし実は、それは単に、そのように見える、ということにすぎない。一時停止のボタンを解除すると、対象はたちまち動きを取り戻す。そして次の一瞬には、それぞれのパーツは、先ほどとはまったく異なった関係性の中に散らばり、そこで新たな相互作用を生み出す。そこでは個々のパーツは新たな文脈の中に置かれ、新たな役割を負荷される。物質と機能の対応は先ほどの一瞬とは異なったものとなり、関係性も変化する。つまり、因果の順番が入れかわる。

 この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界にも、身体にも本来、部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補してる。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、共し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また他の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。私たちは確かに今、パラダイム・シフトが必要なのだ。その手がかりはどこにあるのだろうか。

 自らの脳の上に乗ってそれを軽快にドライブして見せている現代のファーブルは、私たちが現在、すっかりとらわれてしまっている生命の局在論を、その哄笑性によって、あたかも水上スキーの波しぶきのように、粉々に蹴散らせているかのように見える。

2025/10/16/ つづく・・・・

 

 

 

だまし絵の天才エッシャーを超解説!目の錯覚を利用した絵とは?

こんにちは!

今回は、エッシャーについてです。

早速見ていきましょう!

マウリッツ・コルネリス・エッシャー(1898-1972年)

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《椅子に座っている自画像》1920年

マウリッツ・コルネリス・エッシャーは、オランダの画家です。

病弱

オランダのデーヴバルデンで、5人兄弟の末っ子として生まれました。

父親はオランダの水力工学の技師(日本にお雇い外国人として来日したこともあり)、母親(2番目の妻)は大臣の娘でした。

一家は「プリンセスホフ」というお屋敷に住んでおり、現在は美術館になっていました。

13歳まで、土木技術について学び、ピアノのレッスンを受けていました。

14歳のとき、中学校に通い始めましたが、美術以外は落第点でした…。

美術の先生から版画を教わりました。

20歳のとき、父親の希望で建築家を目指し勉強をしますが、生まれつき体が弱かったエッシャーは、健康不良で、兵役も勉強も断念しました。

メスキータとの出会い

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《メスキータの教室》1920-1921年

21歳のとき、ハールレムの建築装飾美術学校へ入学しました。

グラフィック教師だったメスキータに出会い、エッシャーの絵の才能に気付きました。

メスキータとは、その後も交流が続きました。

しかし、46歳の第二次世界大戦中、ナチスのユダヤ人虐殺が激化し、メスキータと妻と息子の3人がナチスによって連行され殺害されてしまいました…。

エッシャーは、メスキータがナチスに連れ去られた後、彼の家に行き、散乱していた作品を集め、生涯大切にしていました。

これらは後にアムステルダム市立美術館に保存されました。

旅先での恋と結婚

24歳のとき、友人2人とイタリア、スペイン旅行に出かけました。

スペインで訪れたアルハムブラ宮殿に衝撃を受けました。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《妻イエッタの肖像》1925年

25歳のとき、旅行中に出会った、スイス人実業家の娘イエッタ・ウミカーと恋に落ち、翌年ローマで結婚し、3人の子供が生まれました。

37歳までローマに住み、この間、小規模の個展を数回開催したり、挿絵を描いたりして、少しずつ名前が知られるようになりましたが、生活費はお互いの両親に頼っていました。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《カストロヴァルヴァ、アブルッツィ地方》1930年

毎年春になると、親しい友人たちとスケッチ旅行に出かけました。

毎日歩いて回って、2ヶ月後にスケッチの山を抱えて戻ってきました。

エッシャーは人物画を描くことは稀でした。

制作中に自分の目の前に知らない人がいることに耐えられないため、ごくごく親しい人以外は無理だったとか。

運賃は絵で

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《写像球体を持つ手》 1935年

37歳のとき、ムッソリーニによるイタリア政情不安で、戦争の危険を避け、スイスへ移住しました。

しかし、スイスの寒さが嫌になり、ダメ元でアドリア海運宛に、運賃は払えないけど、版画で払う(12枚のスケッチ×4刷=48枚)ので、スペイン行きの船に載せて欲しいとお願いの手紙を出しました。

その2か月後、38歳のとき、当時はまだ無名でしたがラッキーなことにエッシャーの計画は実現し、妻とイタリア発フランス経由の貨物船でスペインへ行くことになりました。

船旅を愛したエッシャーは、船の中では別人のように社交的だったといわれています。

旅の途中、防護用城壁を描いていたら警官がやってきて、スパイだと思われてスケッチを没収されます。

スペインではアルハンブラ宮殿に3日間入り浸りました。

ここは、エッシャーにとって、尽きることのないインスピレーションの泉でした。

メタモルフォーゼ

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《メタモルフォーゼⅠ》1937年

39歳のとき、ベルギーに移り、上の作品を制作しました。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《空と水Ⅰ》1938年

美術館に作品を買い上げられるようになりました。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《昼と夜》1938年

40歳のとき、結晶学者の兄から勧められた結晶学の論文「ゲオルグ・ボルヤ」(繰り返し模様に関する論文)を読み、上の作品を制作しました。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《メタモルフォーゼⅡ》1939-1940年

43歳のとき、オランダのバールンに移住しました。

50歳のとき、メゾチントで制作を始めました。

成功と孤独

53歳のとき、雑誌『タイム』『ライフ』で紹介され、世界中で展覧会、講演会が開かれました。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《相対性》1953年

エッシャーは、目の錯覚を利用し、実際にはあり得ない空間や、建設不可能な建物を描きました。

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マウリッツ・コルネリス・エッシャー《滝》1961年

絶筆

マウリッツ・コルネリス・エッシャー《蛇》1969年

60代になると、体調を崩すことが多くなり、10回も癌の手術を受けました。

70歳のとき、が別れを告げてスイスに戻ってしまいました。

晩年は、健康もすぐれず、家庭もうまくいかず、自分の存在にさえ疑問を持ち始め、最後は芸術家用の養老院で亡くなりました。73歳でした。

上の作品は、エッシャーの絶筆です。

エッシャーは、最後の作品にはを描こうとあらかじめ決めていました。

まとめ

エッシャーは、目の錯覚を利用してあり得ない空間を描いた画家

 

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