・・・【Ⅱ】②「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の裏歴史と今の裏社会」・・・副島隆彦が裏社会の闇を抉(えぐ)り出して一般人向けに解説しています。 | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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・・・【Ⅱ】②「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の裏歴史と今の裏社会」・・・副島隆彦が裏社会の闇を抉(えぐ)り出して一般人向けに解説しています。


 

 

・・・【Ⅱ】②「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の裏歴史と今の裏社会」・・・

副島隆彦が裏社会の闇を抉(えぐ)り出して一般人向けに解説しています。

「2235」 副島隆彦と明智憲三郎の対談

(第3回・全6回) 2026年2月16日

 副島隆彦です。今日は2026年2月16日です。

明智氏との対談の3回目を掲載する。

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副島 ラザフォード・オールコックを調べたら、もう20代から上海とか方々で暗躍しているんです。つまりアヘン戦争(1840-1842年)の裏側で。医師をした後、外交官に転身している。50代になって日本全権公使になった。どれぐらい悪いやつか。イギリスは麻薬のアヘンをずっと蔓延(はや)らせて、大清帝国、清朝をたたき潰した、と中国は一番怒っています。

明智さん、私は真実しか信じないんです。大きな枠組みの真実しか信じない。だから動機に関しても大きな枠組みでやらないと無理、できない。徳川家康(とくがわいえやす、1543-1616年、73歳で死)がどうしたの、秀吉が、後でこの人たちは自分の権力のために動き回ったのであって。だから全部私なりには調べている。古文書は読めないから、最小限の歴史物を読んで調べています。

徳川家康

ですから、有り得るというところまででも構いません。信長殺しの何が本当の原因、本当の理由なのか。その後、私の弟子も歴史物を書いていますが、秀吉もキリシタン弾圧を1593年ぐらいから始めた。でも貿易はやりたい。だから坊主は入ってくるな、と言っても、どんどん船に乗って入ってくる訳ですね。

信長が殺された後、秀吉は1585年ぐらいに、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、1539-1606年、66歳で死)のほうが格が上ですから、巡察師ですからね。ヴィスタトーレ(Visitor、英語ではヴィジター)で。天正四使節を連れて。だけどヴァリニャーノはローマに帰れなかったんですよ、インドのゴアまでしか付いていけなかった。スペイン王のフェリペ2世((Felipe II、1527-1598年、71歳で死))に叱られたんですよ。何で信長殺しなんかやったんだと叱られたみたいです。それでローマに行けなかった。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

天正四使節(右上:伊東マンショ、右下:千々石ミゲル、左上:中浦ジュリアン、左下:原マルチノ)

フェリペ2世

天正四使節が帰国した後に、ヴァリニャーノが彼らを連れて、聚楽第(じゅらくだい)で音楽会を開くんですよ。そのときは恐らく秀吉は睨(にら)みつけているんですよ、ヴァリニャーノのことを。俺は権力を握ることができた。おまえが信長公を殺したことは知っているんだぞ。明智さん、あなたの本に書いているじゃないですか。本能寺の変の前の1カ月か、2カ月前にヴァリニャーノは脱出しているでしょう。天正四使節を連れて。オルガンティーノに後は任せてやらせているんですよ。帰ってきたときに音楽会やって、楽器を奏でさせても、秀吉は怒り狂っていたと思いますよ。

だからそういう大きな観点で、信長と、コピーだと私は思っていますけど、秀吉と家康は、彼らだけは、最高権力者だけはキリシタンになってない。ほかは周り、正室の寧々(ねね、1549?―1624年)でもキリシタンだったと思います。全部、大名はほとんどキリシタンだった。それでキリシタンをやめさせるんですよね。1612年、1613年にやめさせる、やめないと言った高山右近は、1614年にマニラに追放されて、で次の年(1615年)に死んでいます。

だから大きなフレームで、何というんですかね。それで悪いのは、佐藤優(1960年-、66歳)と私の本、対談本ですけど、これに書いた通り、要するに諸悪の根源はローマンカソリックとイギリス帝国なんだ。イギリス国教会、Anglican Church(聖公会)、これが諸悪の根源なんだ。これをロシア、中国がたたき潰そうとしている。これを今の言葉でディープステート(the Deep State)と言うんだということです。そういう現在の政治における思想的な闘いを、私はずっとやっているんですよ。

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明智 だけどそういう意味では、信長殺しの企画をイエズス会がやって動かしたという部分は、確かにそういう視点を持ってなかったから、もう一回調べてみようという気でいるんですけどね。でも、どうしてもやっぱり実行手段は、僕はイエズス会が光秀を味方に引き入れたと思います。

副島 20年、30年前に八切止夫さんの本をお読みになっているのに、八切さんを批判すればいいのに、八切さんを批判していませんでしょう。無視した。何で明智憲三郎は八切止夫を無視したんだと。これ、私は怒りますよ。

明智 それはまさに、あの実行方法が私は納得できないから、触われなかったんです。

副島 ・・・あるんでしょう、一応。

明智 それは分かっています。

副島 集まっているんですよ。

明智 分かっています。でもどんな音がするんですか。どばーって、それを、何もその・・・。

副島 いや、音が聞こえただろうけど、その朝まで雨が降っていたんでしょう、たしか。その前に。

明智 ちょっと天気は調べます。

副島 天気は調べりゃ分かる。それなのに大きな火災を起こして、もう死体も何も残ってない。一生懸命に調べたと思うんですけど。徹底的に探索もして。それで、あの現場を調べたと思いますよ。サンタ・マリア聖堂から、南蛮寺から大砲を撃ちかけたと、八切さんは、そこまで書いている。

私は大砲を撃ちかけたというのはやってないと思う。たった100メートルでも大砲が当たる訳がない。つまり、当時の世界最新鋭のイザベラ大砲という組み立て式の大砲を持っていたとまで書いているんだけど、私はあくまで床下に仕込んであった火薬のたるを、導線を引いて、導火線で火をつけて爆発して、一瞬のうちに信長を滅ぼした。周りの小姓たちも10人か、20人と一緒に。それが最も理屈が合うんですよ。

それで、これ、彌助(ヤスケ、1556年-?)がこの主犯なんです。彌助に関しても、黒人奴隷という言葉を明智さんでも使っているけど、私が調べたらゴアの立派な家のずば抜けた頭脳を持つ、180センチぐらいの大男だった。ゴアで日本語を勉強していますから、日本語を聞き取れた、信長の言っていることも聞き取れたと、明智さん書いている通りなんですよ。

主犯は彌助なんですよ。それを明智さんがそこに、何で明智憲三郎があと一歩踏み込まないんだ。その後、光秀に下知しているんですよ。命令しているんですよ。信忠を殺しに行けとか。チャンバラ、戦っているときにはおさめて、南蛮寺に引き渡せと言って、彌助は南蛮寺に戻っている。戦っていた最中に、そんなことある訳ないじゃないか。最初から彌助が命令して指揮しているんです。

明智 そこら辺は確かに見直しが要るなという気はしています。あまりにもうまく、そこら辺もうまくでき過ぎているなという感じはすごくしたんです。

副島 ですから私のほうが、ここまで言うと言い過ぎかな、明智さんより私のほうが先に進んでいるんです。真実関係に関して。明智さんが使う歴史調査に関して。あとはもうそれぞれご意見で、目の前で見た証拠以外は信じられない。非常に確からしさを徹底的に突き詰めると、どうしてもそうなる。それで、信長の長男も一緒に殺せというのは、ある意味常道ですからね。次の権力者も一緒に殺せとなる。だから恐らく二条城にも爆薬が仕掛けてあって、爆殺だと思いますよ。じゃないと簡単に落ちるような城じゃないですからね。

あとは細川藤孝がどんなに悪い人間であるかと。細川家の公式の歴史書『綿考輯録(めんこうしょうろく)』は100年後ぐらいに出した本ですけど、全部が嘘だ、嘘だらけの本だ。それに書いたことは、あれは熊本、細川家の家書というか、正式文書として出している訳ですけど、嘘ばっかり書いている。それはまさしくその通りだと思いましてね。それを言われると困るんですよ、きっと、今でも。今でも困るんですよ。

『綿考輯録』

だからそのあたりの詳細な研究を明智さんはなさって、大変な業績が既にあられるんですよ。ここは、これとこれとこれは明智憲三郎の大変な業績だと、あと一歩踏み込んでもらいたかったと私は思っていましてね。

明智 それは、だからむしろ八切さんの本を最初に読んで、この殺し方はあり得ないというふうに思ってしまったことが、多分範疇からイエズス会を消しちゃったことにつながったんだと思います。

副島 それはこの後、家康や秀吉が怪しい説を明智さんもずっと言った。

明智 いや、だから共同謀議をしていると僕は言うつもりも一切ないんですよ。彼らも知っていたよということであって。

副島 じゃああくまで光秀が本能寺になだれ込んだということですか。

明智 そうですね。それは『信長公記』にもそう書いてあるんです。あれ、森蘭丸(もりらんまる、1565-1582年、18歳で死)が「明智が者と見え申し候」というふうに信長に回答している。だから、なだれ込んだことは確かなんですね。信長は「是非に及ばず」と言った。

副島 「是非に及ばず」。戦うしかないということですね。

明智 あれも日本の歴史学者が誤訳しているんですよ。「是非に及ばず」と「言上候へ」という、命令したと言っているんですね。「仕方がない」という命令なんかあり得なくて。「仕方がない」じゃないんですよ。

副島 命令じゃないと。

明智 明智なのかそうじゃないのかを確認する必要はもうないと言ったんです。それを歴史学者は馬鹿みたいな訳し方をした。

副島 明智の軍勢が攻め込んで信長の首をとったというのが自然な行動のはずなんですけどね。侍大将というか、少なくとも足軽大将みたいなやつがいて、・・・。信長の死体は見つかるに決まっているんですよ。だからそこのところは、明智さんにその辺は修正していただいて。副島隆彦が出現した以上、もう無理なんですよ。ある意味では私のほうが、蓋然性(がいぜんせい)というか確からしさに関してはかなり踏み込んでいますからね。

あと、家康問題に関して、私はもう最初、私は家康の本を書こうと思っていて、明智さんの本を読んだから信長に話が広がっちゃった。私なりに20年ぐらいのこれまでの研究があります。戦場忍者、勧進坊主というんだけど、その集団がいて、戦場を動き回る訳ですよ。これが一番の最強の人間たちだと思いますよ。

scout platoon(スカウト・プラトゥーン)という斥候(せっこう)部隊でもあるんだけど、その戦場忍者に、12~13歳で雇われた少年が、本名、世良田元信(せらだもとのぶ)というのがいた。親父は群馬の世良田村から流れ着ついてきた。で、〔つくった?〕現地のね。私は静岡の市内の外れの大学に12年勤務したんですよ。バスでとかタクシーで、狐ヶ崎という湿地帯だったと思う。静岡駅の東海道の道沿いのところに何十回も行っているんです。

私がいた常葉学園大学という小さな大学は、清水との境目のところにあって、そこは山を切り崩して、昔は関所があったと思いますが何もない。そのあたりを瀬名(せな)というんですよ。瀬名姫、それはまさしく築山御前(つきやまごぜん、?-1579年)なんです。瀬名一族ですから。その娘もらったのが三河大名、松平元康、徳川家康だ。この三河大名という言葉を絶対使おうとしない。三河と尾張で愛知県だろう。彼女は三河の出身だから。


『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』の徳川家康摩(す)り替り年表(178,179ページ)

三河大名で岡崎城にいた松平元康に、世良田元信が、桶狭間の戦いの次の年(1561年)、息子さんを連れてきたと言って、家来になりますると中に入り込んで、その1年弱後に切り殺して摩り替った。世良田元信は、元康と同じ年だ。三河大名、松平元康。元康はずっと駿府で育てられていて、桶狭間の戦いのとき、初めて自分の居城である岡崎城へ帰った。

岡崎城というのは、私は20年前、いや30年前ぐらいにも行ったけど、閑散としていた。三河松平、徳川家の発祥の城なのに閑散として、大名たちが近寄ろうとしなかった。みんなは本当に知っていた。駿府の狐ヶ崎の湿地帯で育った少年が摩り替った男が徳川に名前を変え、家康に名前を変えて、松平元康が名前を変えたんだ。

岡崎城天守(再建)

世良田元信の父親は群馬の世良田から流れてきた江田松本坊(えだまつもとぼう)、母親はお大(おだい、1528-1602年、75歳で死)、後の伝通院(でんつういん)といいます。お大の母親、元信の祖母は源応尼(お万)。あのころ、日本人も含めて男はマザコンですからね、母親を死ぬほど大事にしますからね。それが伝通院様で、東京の伝通院ですよ。その母親はお万の方で、それも現地の下層民の娘だ。上州からの流れ、勧進坊主という、何を職業にしていたか分かってない江田松本坊とお大がくっついて産んだ子供が世良田元信で、これが摩り替って松平元康、後の徳川家康なんですよ。

お大

伝通院

だからおかしな話で、このお大がやがて別の男、久松俊勝(ひさまつとしかつ、1526-1587年、60歳で死)と結婚してつくった弟たちを大名にしちゃっている。久松松平氏です。山岡荘八(やまおかそうはち、1907-1978年、71歳で死)が『徳川家康』という嘘八百の本がありますね。もう誰も読まなくなっちゃった十巻本。

山岡荘八

それだと、お大は水野家に出たり入ったりしている。もう訳が分からないんですよ。おばあさんのお万と於大。で、名前を摩り替えたりしている。もう誰も疑わないでそれやってきたんですよ。だから、それで人質のような待遇だけど、本物の松平元康は静岡城の北側の立派なところに住んでいる。そのもうちょっと先が、だから死ぬ間際の元康が住んでいた浅間神社(せんげんじんじゃ)というのがあるんです。本当はお城の中にいなくて、お城から出て風通しのいい大きな神社に元康は死ぬまでいたんです。

そうすると、だから松平元康の本当の息子の信康(のぶやす、1559-1579年、20歳で死)が、二十歳で殺されていますよね。築山御前も絞め殺されているんですよ。なぜなら、摩り替った元康(世良田元信)に秀忠(ひでただ、1579-1632年、52歳で死)が生まれた。秀忠の母親は西郷局(1552-1589年、37歳で死)、お愛の方です。だから、もう要らないんですよ。それで、築山御前が言ったんです。この人は私の夫ではないのだと。言ったからお城の中に入れない。岡崎城に入ってないんです。奥様なのに。信康は最後に二俣城で殺されました。

松平信康

徳川秀忠

西郷局

私は理屈に合うようにしか自分の本は書きませんのでね。真実をごまかす気はない。ですから全部話がつながりましてね。編集長と2人でずっと現地に調べに行って、写真を撮って、本に掲載しました。

これは桶狭間山で、長福寺の坊主に首実検をやらせたんですよ。義元たちの首をずっと持ってきてね。だから私は織田軍がやっぱり今川軍の横腹を突いたんだろうなと思うんですけどね。向こうの乱波、素っ破を振り切って。そうしないと理屈が合わない。前のほうの2万人に真っ正面から7000人で突っ込んでいったら勝てる訳ない。正面戦やったら負けますよ。

長福寺の血刀濯(そそ)ぎの池

桶狭間山

明智 いや、勝てるんです。

副島 まあ、いいです、それは。

明智 勝てるんです。それは私も本に書きました。

副島 それから、天竜川のほとりで、掛塚(かけづか)にも行きました。三方ヶ原の戦いの後、打ち破られましたから、家康が浜松城にいる訳がないんですよ。そこから脱出して、何人か連れて、これを掛塚というところに、これは天竜川です、暴れ川で、このほとりに家康は逃げているんですよ。ここにある東照宮という名前が出てきていますから。

掛塚

だから、ここの忍者の服部平太夫(はっとりへいだゆう)がこの掛塚いた。その娘が西郷局だ。服部平太夫の娘である西郷局が秀忠とか弟の松平忠吉(1580-1607年、28歳で死)を生んでいます。平太夫は、戦場忍者だから、最高級の船とか持っていて、渥美半島、伊勢湾までここから入って、情報偵察やら最先端の仕事をしていただろうと思います。ですから、それで江戸幕府というのは集団指導体制であって、酒井とか本多とか榊原とか、ああいう戦場忍者のころからの者たちは真実を共有して、幕藩体制を維持したんだ。それが私の考えなんですけどね。

松平忠吉

だから、最初は今川の側についていた戦場忍者集団なのに、やがて信長についたんですね。これは私の説です。ほかの人は誰も言っていません。だから息子の松平信康、まだ1歳半ぐらいですよ、桶狭間の戦いの直前に盗み出して連れ帰ったんですよ。そのあたりの記録は、全部、村岡素一郎の『史疑』(1902年)に書いてある。

村岡素一郎(むらかみもといちろう、1850-1932年、83歳で死)さんが偉いんだ。これが原文ですけど、原文は私は読めないから、村上さんのお孫さんである榛葉英治氏の現代語訳で読みました。『史疑』は1902年に出ています。徳川侯爵家からずっと出版妨害をされていた。村上さんが、下級役人で静岡に行って、ずっと調べ上げて帰ってきた。だからこういうふうに全部、これだけ読んだ。だからこっちが真実だろうと思います。

村岡素一郎

『史疑 徳川家康』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに移動します

徳川侯爵家が、家康が下賎の出だというのが、真実が分かるのが嫌なんですよ。『太閤記』で、秀吉側は完全に暴かれていますからね。家康は、戦国大名のはしりの北条早雲()をものすごく嫌う。北条早雲は立派な、学識もあるいい家柄の人です。出自が悪いとか一生懸命言ったけど、自分のほうがずっと出自悪い訳ですから。

明智 控えさせていただきます。

副島 だからまあ、そういうことで、げてもの扱いをして、本当の真実を覆い隠した権力者側の歴史学者たちというのは許しがたいと私は思います。『徳川実紀』というのが私もぱらぱら見たけど、あれを今でも東大教授で、史料編纂所のやつで守る係がいるみたいですね。

明智 ああ、やっぱり。

副島 ただ『徳川実紀』の第1巻目は、林羅山(はやしらざん、1583-1657年、75歳で死)が書いているから嘘はないんですが、もとが怪しいんですよ、どんどん。林羅山は本物の学者ですから、自分で自分のことを一番頭がいいと思っている人間というのは、嘘なんかつく必要がないんでね。その後、ひどいですね。山岡荘八なんかの本は全部それを使っていますから。家康の実の母親も水野家に嫁いだとか、出たり入ったりして、さらに再婚していますとか何とかいってね。それ、水野家に嫁いだ奥様が離縁してほかのところに出ていって、また子供つくって、久松徳川氏というのがいて、沼津城主とかになっているんですよ。家康の実の、半分弟がね。そういう真実もやっぱり暴き立てないとね。確からしさの範囲というのがあるんだろうけど。家康物に関しての理解はどうですか。

明智 私自身は家康を研究したことはないに近いですね。

副島 三河大名だったんですよ、本当に。三河大名という言葉、使わないでしょう。松平元康のね。それで私、名前ころころ変えるもんだから、信長が朝廷に頼んで家康に、徳川に変えたんでしょう。3年おきぐらいに、そのころ。別人ができ上がったんです。だから私は『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩(す)り替えられた』で書いたけど、言っていただきたいんだけど、渋沢栄一(しぶさわえいいち、1840-1931年、91歳で死)が生まれた埼玉県の深谷にある血洗島の利根川のほとりの向こう側に、これは馬鹿みたいな真実で。これ、利根川の新田義貞(にったよしさだ、1301-1338年、38歳で死)の新田郡のもうちょっと南側、湿地帯なんですよ。利根川沿い。ここにこういう看板があるんですよ。世良田東照宮とか松平東照宮と書いてある。世良田という東照宮があって、明治になってから貴族たちがここに拝みに行くんですよ。これが実の勧進坊主の、駿府に流れ着いていった世良田元信のおやじが出た場所なんです。ここが徳川家発祥の地だと。

渋沢栄一

血洗島の地図

どうも、世良田という場所は、秀忠の娘の千姫を、天海僧正がここで死なせた、彼女の屋敷がこの世良田にあったんです。大坂夏の陣で助けられた戦姫は狂ってしまって、若い侍たちにたてついたりして大変だったんです。世良田に東照宮というのがあるんだ。私はここから、あの「1枚、2枚・・・」で有名な『番町皿屋敷』というのが生まれたんだと考えます。千姫が狂ったんです。狂って、周りが困り果ててというのが、幕末に言論解禁されてでき上がった話なんです。


松平氏の発祥の地である松平郡は、今の豊田市です。トヨタの本社の山の中。こういう大きな岩があって、そこのところへ岩を、ひび割れているところに祠(ほこら)があったんですね。これが松平東照宮と名乗っています。だから、松平一族はここが発祥なんだ。代々、松平九郎左衛門(くろうざえもん)というのがいましてね。そこに神社があるんですよ。松平東照宮。豊田の山の中に。ここから出てきたんだと。これは本当だと思いますよ。

いかにも一族の始まりの、大きな岩の下が割れていましたから。ですからここから岡崎城のほうまで、あの辺一帯を松平氏が戦国大名として領有したんですね。

これは私が一生懸命調べて、こういうふうに大高城の兵糧攻めの話も書いていますけどね。今川義元が殺された後、松平元康はもう茫然とした訳でしょう。茫然として岡崎城に帰った。それで、立てこもったんですよね。最前線指揮官ですから。尾張方との戦いで最前線ですからね。そうするとどうするんだと、内部で揉めたんですよね。今川勢はうわーっと駿河まで逃げ帰りましたからね。東海道を走って。1万人くらい死んだとしても6万人は逃げて帰ったでしょう。そうするとどうするんだと言っているうちに周りから、息子さんを連れて帰ってきたぞと、家来になりますねと言って、世良田元信が入り込んだんです。

桶狭間の戦いの地図

だから今でも言う、織田・徳川同盟とか言うでしょう。馬鹿なこと言うな。もう最低、あの言葉。何が同盟だ。寺に入れているじゃないか。信長は、自分が抱えている、一番恐ろしい、人殺しの親分みたいなやつを松平元康に摩り替えて、東の守りをつくったでしょう。今川と甲斐、武田に対してね。東の守りがどうしても信長に必要でしたから。で、すりかわった半年後ぐらいに清州城にお礼参りをする訳ですよ。そのときに民衆が周りにいて、あの人は松平元康公じゃないってわーわー騒いだら、本多忠勝(ほんだただかつ、1548-1610年、63歳で死)が黙れとか言って、あっち行けとか言って追い払ったらしいです。そういう記録が残っています。

本多忠勝

清州から駿府までの地図(副島隆彦著『闇に葬られた歴史』、45ページ)

息子はちゃんと赤ちゃんでいる訳です。浜松から出ていた政治家だった熊谷弘先生にお世話になって、何十回も行っています。徳川家康は浜松城に18年間いた。家康はどこに住んでいたんだといったら、分からないんですよ。本来は三河大名なんだから、岡崎城にいなきゃおかしいでしょう。実際には、嫌われ者ですから。本物の松平元康の息子、信康が2歳、3歳で岡崎の城主になって、20歳までそうだった。それで、元康の奥様の築山御前ずっと岡崎にいたみたいです。この真実を言わない。徳川家康は何かのたびにしか岡崎城に行かなかった。3回くらいしか行っていないようです。またそういう、京都へ出てきたら京都の伏見城にいるとか。だからどこにいたんだろうというね。三方ヶ原の戦いのときには浜松城が居城ですから。

(つづく)

「2236」 副島隆彦と明智憲三郎の対談

(第4回・全6回) 2026年2月23日

 副島隆彦です。今日は2026年2月23日です。

明智氏との対談の4回目を掲載する。

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副島 ですから私なりには、大きな真実は俯瞰するように、全体は話が通るようにずっと調べて、分かっているんですけどね。だから私の理解では、秀吉も草履とりから上がったんじゃないという説があるけども、まあ草履とりでしょう。信長の、気の利いた家来。

信長の側室というか、本当の奥さまの吉乃(きつの、1528?―1566年)というのが、名前も分からない、本当の信長の奥様とね、秀吉は仲よくなって、おもしろい男で取り入って。軍事力にはならないような男だけど気が利いて、役に立つ家来だったでしょう。

秀吉もまた、家康と同じく、下賤の出ですからね。私も名古屋に行って、講演会とかで行ってですね、秀吉が、名古屋の中で中村というところの出で、そのあたりを調べました。

明智 ああ、中村。

副島 どこだか知っていますか。

明智 知らないです。

副島 駅のすぐそば。名古屋駅から2キロかそこら。湿地帯だったんです。だから名古屋城に近いところに駅なんかつくるんじゃないといって離したんですね。名古屋の人はみんな知っています。豚とか牛の品評会をやっていたところ。沼地、湿地帯です。

私の友達が愛知大学で教授をしていて、そこにどかんとビルを建てました。沼地の跡が残っています、駅の裏側。そこのつながりなんですよ。豊臣秀吉はそこの出なんです。

歌舞伎の初代中村勘三郎が、踊っている像が50メートルぐらいのところ。で、秀吉生家という小屋が1個あるんですけどね、ちっとも大事にされてないんです。

初代中村勘三郎の銅像

100メートルぐらいのところに加藤清正の生地というのがあって、これは割と立派に、江戸時代ずっと立派にしてあった。小さな神社のようにしてあった。秀吉の生家はひどいですよ、ぼろぼろですよ。だからあの辺湿地帯だから、半分沼地みたいなところですから。そこの出ですから、暴かれていましたよ、秀吉は全て。家康は暴かれてないんですよ、真実が。ですから講演会でその話をするとね、名古屋の人は嫌な顔をするけど、そうなんだよ、実はと。あんな、名古屋駅のあんなところで、ひどいとこだったんだ。

中村の地図

だから清州城のあたりも何回か行って、本当はいま復元した清州城の反対側にあったらしいです。小さな小ぶりの城ですけどね。でもあれはもう、守護代がいたころからの立派な場所なんでしょう、清須はね。尾張の守護は斯波(しば)氏。美濃の守護は土岐氏で、土岐、明智というお名前にやっぱり明智さんたちはこだわるんですか。

清州城(復元)

清州城の位置

明智 土岐氏にはこだわりがありますね。

守護大名の地図

副島 あれ、行ったことないけど、山中に土岐と明智って、それぞれ町がありますよね。

岐阜県南部の地図(旧明智町は恵那市になっている)

明智 明智町というのは、あれは盛んにここが出身地だと宣伝、地元は宣伝しているんですけども、今の明智町は、ちょっと関係ない場所のようなんですけどね。

副島 土岐はどうですか。

明智 土岐は、土岐なんでしょうね。

副島 今、一族の方の集まりはあるんですか。

明智 一応ありますね。年1回程度開かれています。

副島 土岐という名前の、名字の皆様がおられるんですか。

明智 どうですかね、半分ぐらいは土岐さんですかね。やっぱり名字じゃ呼べないんで、みんな下の名前で呼び合っていますね。

副島 でも相当山の中ですよね、木曽川のずっと北の。当時は開けていたんですかね。でも土岐は明智に、明田(あけた)だったのが明智に明治になってから復元したと。

明智 ええ。

副島 ひいおじいちゃんがなさったんですか?

明智 そうですね。全然面識はないです。

副島 おじい様とはどういう方でしたか。覚えておられますか。

明智 祖父は会社を引退した後に、それこそ土岐のほうとかゆかりの地を盛んに出かけてって、現地調査をずっとやっていましたね。

副島 おじい様の、明智光秀、天海にすりかわり説を調べられたはずで、史料を出してください。私が調べますから。あなたがずっと握っているだけだと駄目ですよ。

明智 いや、史料って『光秀行状記(みつひでぎょうじょうき)』か、本にはしていましたね。『光秀行状記』という本に書いていますね。あれしか、多分史料ってないと思いますね。

『光秀行状記』

副島 私はある方から聞いたんです。憲三郎さんのおじい様が、天海に光秀がなりかわったというのを研究していたと。それはやっぱり知られているんですか。

明智 何かに、誰か歴史学者が唱えているというふうに書いたんですよ。でも、唱えてはいなかったですね。要するにそうなんだとは言ってなくて、そういう話があるよというニュアンスだったんですけど。歴史学者は、何かこの人が唱えているというふうにはっきり本に書いていた。

副島 ああ、そうですか。いや、それ、史料を表に出すのも大事なことでね。明智さんの基準から見たら、私みたいな人間はちょっと規格外れですか。何というか、私なりには、どうもね。

明智 いや、まともだと思いますよ、歴史学的には。

副島 物事にこだわりを持たないでね、本当のことをがつがつ、ずっと書いてきましたから、それはもう嫌われますよ。何でもいっぱい書いてきていまして。全部ベストセラーに入っているんですよ。それで、私の読者がいますからね。

明智 すごいことです。

副島 佐藤優だって、私のことを尊敬していますからね。彼に本当のことを教えると、こうして、いや、自分たちの頭では、勉強秀才ですけど、ここまで考えが及ばないと、彼は平気で言いますよ。私は500個ぐらい自分の業績で発見した。ただ、あまりそんなに温かく迎え入れられないんですけどね。だけど、迎え入れられなかろうが何だろうが、やっぱり確かな真実はこうだと書いて残すしかないんです。

私は知識人、評論家をもう50年やっていますけれど、本当にイエズス会というのは悪い野郎たちで、カソリックの前のやつも、前のやつもイエズス会ですからね。本当に悪いやつらで、煮ても焼いても食えないやつら。これが私の人生の結論なんです。イギリス国教会、アメリカ、イギリス王室ですけど。

ですから本当に悪いやつら。ですから私のように、私は外側から見た、世界から見た日本というのを見ていますから。関ヶ原の戦いも、これなんて関ヶ原の現地に看板でぽこっとあったやつを、写真で撮ってきたらこれが、首があってね、家康がいて、本陣の跡でね、首実検やっているものですけどね。

私の最大業績は、簡単なことなんで、その前、いや、この9月15日の、この1600年4月ぐらいに、ウィリアム・アダムス(William Adams、1564-1620年、56歳で死亡)の船が1隻、漂着なんてもんじゃないんですよ。ウィリアム・アダムスが、三浦按針が捕まって引きずり出されたんじゃないんですよ。真実は威張っているんですよ、だって核兵器並みの大砲を持ってきましたから。家康のほうが屈しているんです。座布団をこう、小さな男ですから。それが絵になっています。

ウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムスと会う徳川家康

だからウィリアム・アダムスが、大分の臼杵の黒島にリーフデ号で漂着して、大坂城で家康が謁見している。リーフデ号ごと、静岡のほうにつ入れていかれた。ウィリアム・アダムスは三浦按針、三浦半島とぐるっと回って、あそこ、横須賀が、恐らく今の房総に渡る、浦賀とかね、あの辺で大砲の実験しているんですよ。実射しているんです。カルバリン砲の一種でね、名前は変わるんですけどね、呼び名がカルバリン砲。大友宗麟なんかは、カルバリン砲を持っていたと言われている。

船にカルバリン砲(culverin)が10門以上はあったでしょう。そのうちの4門ぐらいを引っ張っていって、一回小山(おやま)までずっと撤退したふりをして、家康が戻ってくるんですよね。引きずり出して。それで岡崎城に前の日はいたんだけど、関ヶ原まで石田三成とか、撤退して陣構えするわけですね。

カルバリン砲

こっちが南側の南宮山で、毛利たちがこう、もう取り囲んで、ほとんど包囲されているんですよ。なのに家康は、この桃配山からずんずんずんずんと前に出たんです。怖がらないんですよ。確かに池田輝政(いけだてるまさ、1565-1613年、50歳で死)とかに対策を立てさせてあるんだけど、こう行きますよということでね。本田忠勝の部隊の中にウィリアム・アダムス自身がいて、指揮しているんですよ。

関ヶ原の戦いの地図

池田輝政

それで、忠勝の南のほうに1回行って、ドーンドーンと、鉄砲なんか射かけたって100メートルも届かない。大砲は2キロ3キロ飛びますから、当時、世界最先端の大砲を小早川秀秋(こばやかわひであき、1582-1602年、21歳で死)に打ちかけた。これで小早川はびっくりして、石の弾がごろごろと来たんじゃないですか。それで、びっくりして、大谷吉継(おおたによしつぐ、1565?-1600年)のところに攻め込んでいく。小早川を裏切らせるのには、大砲じゃなきゃだめですよ。

小早川秀秋

それから今度は本陣といって、こっち戻って三成の軍勢と、もう行けばすぐ、こことここが合戦の場所だと。島左近(しまさこん、1540-1600年、60歳で死)がいて、黒田長政(くろだながまさ、1568-1623年、56歳で死)がいて、鉄の山、火の玉みたいなのがごろごろと襲ってきた。先頭の500人ぐらい殺せば、他はもうやる気なくしますからね、戦争なんて。石田三成(いしだみつなり、1560-1600年、41歳で死)は、佐和山に逃げ込めないので、その途中で捕まって、それで殺された。本田忠勝が一番重要なんですよ。

黒田長政

だからね、訳の分からないこと書くな。核兵器を持っているやつが戦いは勝つんだよ。最先端の、最高武器を持っているほうが勝つ。だから家康はがんがん行ったんだ。これは私の唱えている説です。そうしないと理屈が合わないと思う。松尾山の小早川秀秋に鉄砲なんか届く訳ないんだ。大砲でなきゃ駄目だ。当時ははげ山になっていたと思う。だからこういうことも私は全部書いていましてね、やがて日本の歴史をつくりかえてやろうと。真実でつくりかえてやるというぐらいの覚悟でやっています。この本(『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』)は5万、6万部ぐらいしか売れてないけども、まあいいだろうと。

静岡市内の華陽院(けよういん)という、家康の実の祖母、於満の方の墓。大名たちがこの前で駕籠から降りて頭下げたそうです。東海道ですから、参勤交代のとき。だから静岡駅から東に3キロぐらいのところで。おばあさんは、処刑場かなんかの死体処理係かなんかの尼さんだったらしいです。その娘が於大の方、伝通院ですよ。だから本当のこと言ったらいかんのかというね、話になります。私なりにも年季が入っていますからね。

華陽院

ですからこれより確からしいというか、蓋然性(がいぜんせい)なんてもんじゃないんですよ。私にとっては自分が発見したこと、組み立てたことがうそだと思えない。

明智 はい。

副島 大きく見たらこうなると、どうしても。だから秀吉、家康も信長殺しに加担したまでは、私は、もう明智憲三郎に撤回してもらいたいところで。

明智 いや、言っていないです。

副島 言っていないんだけども。

明智 いや、言ってないですよ、それは。そういうことは。

副島 でもあそこまで長々と書かれると、やっぱりこの犯人捜しのところで気持ちはそこに行ったんだろうなと思います。秀吉は、彌助の口から真実が漏れて広まることを何よりも恐れていた。だけど、秀吉ごときが信長に逆らえる訳がないですよ。だから、信長が死んだ後に俺が権力者になるぐらいは、それは思ったでしょうけども。事実そうなったんだけど。明智光秀のほうが、格が上でしょう、秀吉より。

信長とか秀吉、家康も平仮名しか書けないんでしょう。本当の真筆は平仮名だけですよ。喧嘩をするな、奥さんを大事にしろみたいな。右筆職の連中がきれいな文章を書くわけで。そうすると、光秀は教養人だったんですね。頭がよかったんだ。だから連歌が読めたという。漢文を読めたでしょうね。頭がいいから。そうすると武家伝奏で、幕府に対しても〔義昭?〕に対してもそうだけど、朝廷に対してはきれいな漢文、きちんと文章を書ける人間じゃなきゃ相手にされないから。

信長がおね(秀吉の妻)に宛てた直筆の書状

信長なんか田舎者ですからね、名古屋あたりの。そうすると、明智光秀の存在が重宝したと思う。きちんと儀式のやり方を知って進められる。明智憲三郎の、はっきりとした業績の一つは、明智光秀がやっぱり細川藤孝に仕えていたと指摘したことです。この一点がものすごく大事なんです。明智光秀は細川藤孝の中間(ちゅうげん)、足軽を務めていた。そこから実力で出世して、室町幕府の奉公衆になった。

信長は最初に銀5000貫とか、おやじのまねをして第13代将軍の足利義輝(1547-1565年、29歳で死)に献上しているでしょう。銀5000貫とかいうと、あれ、今で言えば10億円でしょうね。

足利義輝

明智 そうですか。

副島 そうしたら将軍が喜んでね、おまえに何とかの位をやると。その後ですからね、桶狭間の戦いは。ですから私はあの辺の微細な証明作業が明智憲三郎さんの最大業績だと思っていましてね。あそこを描き切ったので、もうぐうの音も出なかったと思うんですよ、歴史学者たちが。あの前後の正確な記述と、証明作業がね。だから私が感服したのは、やっぱりそこですね。

明智 ありがとうございます。

副島 だからそこをね、もう一度私たちの対談本でもしっかり、はっきりわかりやすく書いて、尾張、津島まで・・・・指示があったという、私もびっくりしたのは、この辺のことですね。

私も津島も行きましたけど、成海とかあの辺も。生駒屋敷というのはね、ちょっと吉乃の、いま実家のあるあたりの北のほうでね、それと津島は全然違うんですよ。津島の港でも、奥にあったみたいですね。織田氏の中の、本当の奉行職でしかなかった信長のおやじ以来、大変な収入があったんですよね。

明智 そうですね。

副島 でもべたっとしたところで、今は堤防が全部できて、生駒屋敷というのはずっと北のほうですね。この辺は全部輪中(わじゅう)でつながっていたというか。川筋者というのか、川並衆というのか。だから集団戦法という、何千人、何万人が集まんなきゃ戦争できないんですが、近代軍隊じゃないから、親分衆ごとで寄り集まるんですよね。それで何で陣にはせ参じるかというと、金のつぼをもらいに行くんですよね。金のつぼだったと思いますけどね。よく来た、よく来たですから。それで親方様だけが馬に乗って、周りに百姓の元気な若者をやり持ちにして、飼い葉おけ係がいて、14~15人で動き回るんじゃないんですか、戦争というのは。近代軍隊じゃないですからね。恐らく、これは負けるなと思ったら、前の日にみんな逃げるんじゃないかと思うんですね。

明智 そうですよね。

副島 嫌ですからね。負ける側についている訳がない。向こう側と話がついていて、もし俺たちが負けたらおまえのところで面倒見てくれというか、そういう話し合いが下のほうはできている。

私は歴史学者よりも評論家の山本夏彦(やまもとなつひこ、1915-2002年、87歳で死)の説が大好きで,勝ったほうにはうわっといるというんですよ。黙って、じっと静かに後ろでずっと。これ、昔こっちにいた連中だと。こっち移ったと。死んだ死体の数はそんなに出ない、本気で戦うやつはと。だから戦争というのは石投げたり、上から転がしたり、竹やりを突くのが本当の戦争で、誰がチャンバラなんかやるかと。だからかぶら矢というのがびゅんびゅんと最初届いたら、もう逃げるんですってね。相手のかぶら矢が届いたら。でも鉄砲を射かけるわけだから。だから白兵戦なんてやるもんじゃないんですよ、そんな。

山本夏彦

夜襲のかけ方、突撃、突貫の思想が昭和の戦争に移っちゃった。あとは東映の映画とか、あれがいけませんね。チャンバラをやるんだ。嘘八百でとんでもない。あんなことやって、1秒後には自分が切り殺されているんですよ。誰があんな恐ろしいことやりますか。「弓馬とるもの」ですから、侍というのは。弓矢でやったわけで、遠くから。少なくとも30~40メートル離れてやる訳です。勝つと思ったら突撃していったと思いますけどね。

明智 そうですね。

副島 負けるほうは命がけで逃げますよ。逃げられないやつはもう、死ぬ気で戦うのもいるんだろうけども、そこが打ち破られたらもう命がけで逃げますよ。今のウクライナ辺なんか、もうどんどん撤退していますよ。ロシア軍のほうが強いから。その実感で物を見る目が歴史学者ってないんだ。あいつら、ぼんぼんの秀才たちですから、物事を実感で見る目がないですね。

ですからね、何とか明智憲三郎の客観業績を私はこういうふうに考えると、私がしゃべって、いっぱい載せます。明智さんもそれに対して、自分はここまではこうだと思うという言い方でしていただければと思います。ただ最低、イエズス会爆殺説と、家康はすりかわって、信長に仕えたんだ。ここを何とかご理解いただきたい。この2点が私の主張であって、大主張の部分です。

何で孫氏兵法が理由で正面から突撃したと言えるか、私には理解できない。信長はそんな男じゃないですよ。もう境川という川を越したら尾張ですから。尾張に入ったら襲撃するに決まっている。今で言ったら豊明市ですかね。正面から行ったら勝てなかったと思いますよね。今川方は6~7万の軍隊で来ているから。今川義元は簡単に勝つと思っていたんでしょう。お祝い会かなんかやりながら。ところがやっぱり奇襲されて殺された。

桶狭間の戦いの地図

私も桶狭間に行ってみました。女子大(桜花学園大学)があってですね、正面の2万人ぐらいがいたところという。今では建物がずっと建っている。ああ、ここに本陣がいたんだと分かった。小さな山が一つあって、そこから、本陣じゃない、本陣の今川義元のところと分かれているんですよね。あの最前線の主力部隊の後ろにいて、やっぱりあれは横っ腹からやられたらきついだろうなと思いましたけどね。それから、家康忍者説はどうですか。

明智 ちょっと僕、家康についてはそんなに独自に研究してるわけではないんで。

副島 三河大名の松平元康なんですよ。ところがすりかわっちゃって最初に殺されちゃっているから、葬式も何もないんですよ。それでね、松平元康のことをあれこれ書くと、歴史学者たちが嫌うんですよね。

私がこの根拠にしたこの村岡素一郎と八切止夫は、そんなにおかしな人たちじゃないと思いますけどね。私の目から見て、ほんとのことを書いている。体制派としては困るんですかね、本当のことを言われると。

明智 多分、『日本戦史』で組み上げてある世界を壊されると困るんでしょうね。

副島 ああ。

明智 多分そうでしょう。

副島 それは日本の軍がつくった史料でしょう。

明智 軍がつくっているんですが、もちろん歴史学者が協力しなきゃつくれませんから。それこそ軍、学、官あたりが共同作業でつくり上げたんだと思いますけどね。

副島 今でもそれは壊せない。

明智 うん、壊せないんだと思いますよ。どこかが壊れると、がらがらとあっちもこっちも壊されていくという恐怖を感じているんじゃないかな。

副島 彼らは今、何を壊されると困ると思っているんですか。

明智 私はあれだと思っていますよ、光秀のものについては、多分信長の唐入りを阻止した説、それが出てくるのを怖がっている。

副島 信長の唐入りですか?

明智 唐入りを阻止する。それは明治維新にヒントがあって、明治維新をやったのは結局旧豊臣大名なんですよね。旧豊臣大名は、王政復古という看板に掲げていますけども、実際は秀吉復興をやった。秀吉の夢を再度ちゃんと実現させようとして、大陸進出という富国強兵策をやったんです。

副島 それは信長の夢ということになりますけどね。

明智 まあ、それもなりますけどもね。

副島 でも、明智さんが書いてるとおり、それは当時のザ・グレート・ナビゲーション(The Great Navigation)と英語で言うんだけど、大航海時代の特色で、外国に出ていくというのが当時の権力者たちの考えだったということですね。軍事力が内部でたまっちゃったら、外側に解き放たないといけない。

明智 秀吉復古をやりたかったのが明治維新だというのが、私の見立てなんですけどね。

副島 でも秀吉の下の大名たちは、あまり行きたがらなかったでしょう、言葉も通じないところ行って大変だ。

明智 それは行きたくないですよね。それは行きたくないですよね。

副島 小西行長と加藤清正(かとうきよまさ、1562-1611年、49歳で死亡)が先陣を切って、漢城、今のソウルまでまず入ってね、咸鏡道まで攻め込んだけどすぐ後ろに引いて。明軍が入ってきましたからね。でも鉄砲隊を持っていたから、強かったみたいですね。

加藤清正

文禄・慶長の役の地図

明智 うん、そうですね。

副島 秀吉は、明まで攻め込もうと本気で思っていたんでしょうけど、明から見れば、これはもう属国の一つの反抗でしかない。

明智 私が気になっているのは、秀吉が何でバテレン追放令(1587年)を出しちゃったのかなというのが、そこの力学がよく分からないんですね。

副島 やっぱり、だから信長公を殺したのはバテレンだと気づいたからですよ。

明智 うん、ところが。

副島 自分が殺されると思った。家康もそう、自分が信長と同じような目に遭うと。

明智 同じ目に遭う。ああ、なるほど。それは分かりやすい。

副島 大坂城の中でもそういう目に遭うと思ったんでしょうね。

明智 秀吉は、でもですね、明を征服したら中国大陸の布教を全面的に許すとか、日本の国内の半分はキリスト教徒にするとか、そういうかなりリップサービスしているんですね。リップサービスをして軍艦を手に入れようとした矢先に禁教令を出している。そこに、何がすれ違ったのかなと。

副島 やっぱり自分が殺されるという恐怖感だと思いますよね。周りはみんなキリシタン大名になっちゃった。禁教令を出しますからね、金地院崇伝(こんちいんすうでん、1569-1633年、64歳で死)の名前で。金地院崇伝はもうちょっと後だ。家康のときに出すんだな。

金地院崇伝

明智 うん。

副島 恐ろしかったんですよ。朝鮮もそう、中国と朝鮮、日本は鎖国しましたからね。

(つづく)

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