AIエーアイ・カバーの分野が急速に進化している・・・「誰か故郷を思わざる」「旅の夜風(『愛染かつら』主題歌)」 | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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AIエーアイ・カバーの分野が急速に進化している・・・「誰か故郷を思わざる」「旅の夜風(『愛染かつら』主題歌)」


1940年 作詞:西條八十 作曲:古賀政男 霧島昇は福島県の現在のいわき市近郊の農家の三男坊として生まれ小学校卒業時に上京、中学時代はボクサーを目指していましたがこれを断念した頃に藤原義江のレコードを聴き、歌手になることを決意してたいへんな苦学を重ねながら東洋音楽学校(現=東京音楽大学)を卒業したという努力の人と、ここまでは『旅の夜風』でご紹介しました。 さて、卒業した霧島昇は浅草のレビュー小屋でアルバイトをしながらプロへの道をスタートさせます。 レビュー小屋とは大正時代から戦後にかけて大ブームを巻き起こした、豪華な歌やダンス、軽演劇(コント)を終日ノンストップで繰り広げた大衆娯楽の殿堂のことです。 霧島昇が働いていた頃の浅草六区近辺には、百席規模から東洋一の劇場と謳われた浅草国際劇場の五千人を収容する(客席数は3,860席)大劇場まで、歌と踊り、笑いを融合した「レビュー(軽演劇含む)」を日常的に上演していた劇場(レビュー小屋)はおよそ15を数え、いずれも活況を呈していた時代でした。 当時超売れっ子作家になっていた作曲家の服部良一も、かつてはこの六区の劇場で楽団の指揮を執っていました。 歌手や演奏者、ダンサー、舞台俳優、お笑い芸人など、芸能人を目指す人にとって浅草六区は文字通りインキュベーター(育成器・孵化器)であり、過酷な実戦の中で実力を蓄えた舞台人が集う「梁山泊」ともいえる場所だったように思います。 ここでアルバイトに励んでいた霧島青年は、エヂソン・レコードからレコードを吹き込んでみないかというチャンスを得て『僕の思い出』という曲を出します。 ヒットしたとはいえないこの曲が、コロムビアの文芸部長の目に止まり、そのお声掛りで22歳の霧島昇はコロムビアレコードの専属歌手として入社、翌1937年(昭和12年)に『赤城しぐれ』で正式デビューを果たしました。 それからは毎週レコーディンという、こんにちでは考えられないサイクルで歌い続け、レコードデビューした翌年の1938年、当時大スターだったミス・コロムビア(松原操)と共に松竹映画「愛染かつら」の主題歌『旅の夜風』を吹き込み、これが発売1年間で120万枚を超える売り上げを示す大ヒット、日本のレコード史上初めてのミリオンセラーとなります。 ミス・コロムビアこと松原操は、霧島にとって東洋音楽学校の先輩であり、コロムビアでの先輩でもある三歳年上の女性でしたが、テレビのなかった時代の地方劇場出演のための巡業旅行が重なり、気心が通じる十分な時間があったことから親密になった二人は、翌年に作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌で結婚式を挙げます。 美貌と美声を兼ね備えた大人気歌手とデュエットして大ヒットを放った霧島昇、二人の結婚を世間は大いに祝福したといいます。 それを裏付けるように「結婚後は人気が落ちる」という当時にもあった通説を覆してミス・コロムビアは『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットを続けて放ちました。 夫である霧島昇も負けてはいません。 『一杯のコーヒーから』『愛染夜曲』『愛染草紙』『純情二重奏』などのヒット曲を連発して昭和15年(1940年)にこの『誰か故郷を思わざる』を発売します。 半年で56万枚を売り上げたこの曲は、戦中戦後も盛んに歌われ続け、霧島当人どころかそれぞれすでに大家となっていた作詞家・西條八十、作曲家・古賀政男のそれまでの代表曲を塗り替える曲となりました。 有名なエピソードをひとつご紹介します。 友と遊んだ野山を思い、嫁ぐ姉を見送った寂しさに涙する、そんな詩情豊かな世界を歌ったこの曲は、戦時の時代には軟弱であると軍部や政界からも批判の声が上がり、内地の工場でもこの曲を流すことを禁じていたところもあったそうなのですが、米英に宣戦布告して国家総動員体制に入った頃、慰問に赴いた渡辺はま子は兵隊向けの公演の前にぜひとも『誰か故郷を思わざる』を歌ってくれないかというリクエストを軍から受けます。 ミス・コロムビアという芸名さえはばかれて、本名の松原操で歌手活動することを余儀なくされた当時ですから、楽団や随行スタッフはどうしたものかと考えますが、ほかならぬ軍部がそう云ってるのだからと特設ステージに立った渡辺はま子は熱唱しました。 静かに耳を傾けていた兵隊たちから将校までがやがて涙を流し始め、その様子を見てステージの渡辺はま子ももらい泣きしながら歌うという状況になり、その渡辺はま子の様子についに嗚咽する人まで出てきて公演は異様な光景となりました。 見ると主席に座っていた畑俊六大将(のち元帥)までがハンカチで顔を拭っていたといいますから、従軍の記者たちもさぞかし驚いたことでしょう。 地方では蓄音器でしか音楽を聴いたことがない人が大半の時代、生バンドをバックに歌うステージなど見たことがない人が、しかも当代売れっ子の渡辺はま子の生歌を聴いたわけですから感激もひとしおだったことでしょうし、そこへ明日の命もままならない身で聴く遠い故郷が偲ばれる歌となれば、思わず涙を流すなんて当たり前のことかもしれませんね。 この『誰か故郷を思わざる』がヒットを続ける中、霧島昇は『新妻鏡』『目ン無い千鳥』『蘇州夜曲』『相呼ぶ唄』『そうだその意気』『若鷲の唄』『勝利の日まで』などのレコードを次々に発売してヒットを飛ばし続け「コロムビアのドル箱」と呼ばるようになっていました。 戦後も並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『麗人の唄』『三百六十五夜』『旅役者の唄』『胸の振子』『旅の舞姫』『夢去りぬ』『赤い椿の港町』『ギター月夜』『白虎隊』『石狩エレジー』などのヒットを放ち、生涯に吹き込んだ数は3千曲を超えたといわれています。 テレビのなかった時代から活躍されていた歌手ですから、いまの歌手の人からは考えられないぐらいステージの場数を踏んだ霧島昇でしたが、実は極度のあがり症だったといいますから聞いてみないとわからない話ですね。 無口で謹厳実直な人だったと、誰もが霧島昇の人物を語るときにそう口にします。 その霧島は愛妻松原操とのあいだに4人の子どもをもうけましたが、そのおひとりは二人の母校東京音楽大学の主任教授を務められました。 戦前戦中戦後と昭和が大激変する中、常に大衆に愛される曲を歌い続けた霧島昇は、昭和59年に69年の生涯を閉じました。 かつて「愛染コンビ」といわれた愛妻の松原操も、そのわずか2ヵ月後にあとを追うように生涯を閉じられました。

これも凄いね・・・

1938年 作詞:西條八十 作曲:万城目正 1938年(昭和13年)に公開された松竹映画『愛染かつら』の主題歌として発売され、瞬く間に大ヒットして1年間の累計売上は120万枚を超え、日本のレコード史上初めてのミリオンセラー曲となりました。 A面は霧島昇とミス・コロムビアが歌い、B面の『悲しき子守歌』はミス・コロムビアだけの歌唱ですが、霧島昇とミス・コロンビアは共に東京音楽学校(現=東京芸術大学)の出身でミス・コロンビアこと松原操(まつばらみさお)は霧島の学校の先輩であり年も3歳年長でした。 松原操は在学中にコロムビアレコードから『浮草の唄』を吹き込みデビューを果たしましたが、淡谷のり子が流行歌の歌手になったという理由で卒業名簿からその名を抹消されたという時代の、しかも松原は在学中のデビューですから放校処分になりかねません。 そこでミス・コロムビアという名の覆面デビューとなりました。 同じく東京音楽学校の先輩である小林千代子が、ビクターからのデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼んでヒット歌手となったことから、世間はミス・コロムビアという芸名を抵抗なく受け入れ、『旅の夜風』を吹き込むまでに松原はすでに9枚のレコードを出してヒット曲を連発し大スター歌手になっていました。 それまでにも2曲ほど霧島とミス・コロムビアのデュエットでレコードを吹き込んではいましたが、『旅の夜風』の大ヒットを受けて世間から「愛染コンビ」と称されて一緒に舞台に立つ機会や巡業に同行する機会が増えて二人は急接近、翌年には結婚されることになります。 今度は「愛染夫婦」などと呼ばれたそうです。 霧島昇は福島県の現在のいわき市近郊の農家の三男坊として生まれ小学校卒業時に上京、中学時代はボクサーを目指していましたがこれを断念した頃に藤原義江のレコードを聴き、歌手になることを決意してたいへんな苦学を重ねながら東洋音楽学校を卒業したという努力の人。 戦前はもちろん戦後にも数々のヒット作を連発したこの著名な霧島昇については、明後日に公開予定の『誰か故郷を思わざる』で記させて頂きます。 川口松太の小説を原作にした田中絹代主演の松竹映画『愛染かつら』は、翌年制作された『続・愛染かつら』と合わせてそれぞれ前後編の4部作となり、それらすべてが映画史に残る空前の大ヒットとなりました。 『愛染かつら』のラストで主人公の高石かつ枝が劇場で『悲しき子守歌』を歌うシーンは、ミス・コロムビアの唄うアフレコなのですが、当時はあまり知られていなかった撮影方法でしたので、女優の田中絹代はこんなにも歌が上手だったのかと大評判になったそうです。 また『続・愛染かつら』の撮影中に、松竹大船撮影所撮影主任が映画法に違反した罪を問われて逮捕されるという騒動が起こりました。 映画法で禁止された子女の深夜労働禁止規定に反したという罪状ですが、田中絹代は当時30歳の堂々たる女優でしたが、女性の夜の10時以降の労働は禁じられていたのです。 天下の悪法だとか云われた映画法ですが、芸能人や映画制作に携わる人とは云えども、子供や女性は過労働から保護するという意識が社会にしっかり根ざしていた時代だったのですね。

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