・・・【Ⅱ】①「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の裏歴史と今の裏社会」・・・副島隆彦が裏社会の闇を抉(えぐ)り出して一般人向けに解説しています。
・・・【Ⅱ】①「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の裏歴史と今の裏社会」・・・
副島隆彦が裏社会の闇を抉(えぐ)り出して一般人向けに解説しています。
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「2232」 副島隆彦と明智憲三郎の対談(第1回・全6回) 2026年2月2日
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副島隆彦です。今日は2026年2月2日です。昨年12月に私は、ベストセラー『本能寺の変 427年目の真実』(2009年刊)、加筆された文庫版『本能寺の変 431年目の真実』(2013年刊)で知られる明智憲三郎(あけちけんざぶろう)氏と対談を行った。今回からその内容を6回に分けて掲載する。

副島隆彦と明智健三郎氏
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副島 はじめまして副島隆彦です。私は1953年生まれで、今72歳で、来年73歳です。明智さんは、1947年生まれだから、私の6つ年上です。お元気そうでよかった。
明智 もうそろそろかなとは思いますけど。
副島 私もあと10年は頑張ろうと思うようになりました。お送りいただきました「あの謀反人の子孫のこだわり人生」を最後まで読ませていただきました。どういうご意向で、私の学問道場へ入会されたのですか。
明智 私は、「明智継承会」の社団の活動をしています。ここの何人かの方とこれからどういう活動をしようかと連絡をとり合っていたときに、そのうちの1人から、明智さんの本を非常に評価してくれている人がいますよ、と副島さんのことを教えてもらいました。それでどういう活動をされているのか、読みたいなと思って、学問道場に入らせていただいたといういきさつでございます。
「明智継承会」のホームページは以下のアドレスです↓
https://akechikai.or.jp/
副島 その後、私の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(2015年)をご購入になって読んでいただいた。「単刀直入」という日本語が一番分かりやすい。これが私の本です。

『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに移動します
私は明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年刊)に、衝撃を受けたのはあくまでこの本です。このもうちょっと後に、40万部売れたそうですね。最終は、出し直しの本も含めて、ざっと80万部ぐらい売れたのではないですか。

『本能寺の変 431年目の真実』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに移動します
明智 ちょっとそこまでは売れてないんじゃないかとは思いますけどね。
副島 続編の本たちではなく、この最初の本が60万部ぐらいは売れた。
明智 ちょっと正確な部数は分かりません。20万部を突破したところで、ああ、よかった、よかったというふうに喜んでしまいました。
副島 2016年の時点で、本の帯に40万部とは書いてありました。
明智 その私の本を原案にして『信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~(1~8巻)』というコミックを書いて出してくれたんです。そちらは全然、部数のレベルが違うんですよね。

『信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに移動します
副島 明智憲三郎さんが日本の歴史物を読む人たち、とりわけ戦国時代の本を読むおじさんたちを、私は読書人と呼んでいます。この読書人階級に大きな衝撃と影響を与えた。これは非常に大きなことで、それが日本の歴史の真実を書きかえていくんだというふうに思いました。
明智 ありがとうございます。
副島 私は実証という言葉がよく分からない。英語で言えばtestification(テスティフィケイション)なのかdemonstration(でモンストレイション)なのかよく分からない。実証という言葉。事実証明という、とにかく事実を証明していくことですね。
明智 歴史学会で言っている「実証主義史学」というのは、書かれた文書(もんじょ)から組み立てる、史実を復元するという姿勢を言っているんですよね。
副島 証拠があるかですね。文献証拠がね。
明智 はい。盛んに実証主義だと言うけれども、その材料に使っているのが「軍記物」という物語であって、全く大きな矛盾を持った学会だなと思いますね。
副島 ですから事実証明をしていく途中で、これまでに積み上げられてきた信長、秀吉、家康の研究のほうが奇妙な点というか、何か非常に作為的におかしくさせられていた。そのところを、明智憲三郎さんは「高柳光寿(たかやなぎみつとし、1892-1969年、77歳で死)さんの明智光秀(あけちみつひで、1528?-1582年、54歳?で死)研究からおかしなことが始まった」とはっきりお書きになった。はっきり言うと東京大学史料編纂所系、あるいは宮内庁書陵部(しょりょうぶ)も入って、体制派の歴史の定説を握りしめている。私は権力者という言葉を使いますが、体制です。体制側が歴史の定説を握りしめている連中が今もいる。

明智光秀

高柳光寿

東京大学史料編纂所

宮内庁書陵部
明智 そうです。
副島 これを明智憲三郎さんが、これだけ詳細に、正確に事実を指摘して、証拠を挙げて、明瞭に説得した。だから60万人の日本の歴史物が好きな本の読み手たち、読書人たちが高く評価したというのはものすごく大事なことです。ですから私は体制側が覆い隠して、真実を表に出そうとしないと思っています。このことは非常に問題だということで、私は僭越ながら明智さんと一緒に対談本を出して、明智さんにも徹底的に彼らを叩いていただきたい。
明智 その気は満々なんですけどね。
副島 それはよかった。それで、とりわけ実際に、この4~5年で呉座勇一(ござゆういち、1980年-、45歳)という男が明智さんの本に言及したということがありますね。呉座がある種の若手の権威になっています。

呉座勇一
明智 彼を学会が箔づけをやったんですね、徹底的に。
副島 私も呉座勇一に対して、思うことがあります。10年前ぐらいですか、2016年に彼が書いた『応仁の乱』という中公新書があって、最初から全く読めなかった。
明智 そうなんです、読めないです。
副島 何を言っているんだ、こいつはというくらいに酷かった。
明智 そうそう。読み通せない本なんです。
副島 最初にルビを振れと、人の名前も誰ひとり読めない。
明智 40万部もあれが売れるなんていうのがあり得ないです。
副島 40万部はウソですね、あり得ないです。
明智 多分、出版社かどこかのスポンサーがいて、その連中が買いためて、あの呉座勇一を有名にしようという陰謀があったんでしょう。
副島 策略ですね。
明智 ええ、策略です。完全に策略です。
副島 だからそういうことをはっきりと明智憲三郎が話すと、これは日本の国の、少なくとも歴史物好きの200~300万の人間に影響を与えるんですよ。これは遠慮なさらないでやってください。
明智 全然遠慮なんてしません。歴史学界と学者がこっちを向かないから、もうこれはどうにもしょうがないなと思って、ちょっとふてくされ気味なんですけど(笑)。
副島 それにしても、『応仁の乱』は誰にも読めない。
明智 もうひどい本です、あれ。あれが40万部売れても、誰も最後まで読めなかった本だと思います。
副島 最初から読めないです。1ページも読めない。
明智 あれ、読み通せたらすごいですよ。
副島 あれ、ひどい。奈良の興福寺多聞院主だった多門院英俊(たもんえいしゅん、1519-1596年、77歳で死)から100年ぐらい前の応仁の乱の頃の人の日記(『多門院日記』)を中心に、奈良のお坊さんが書いた文章を勝手に解釈した本です。ああいうことされると本当に迷惑だ。おまえの書いていることは読んで、誰も意味が分からない。
明智 いや、本当です。あれを読み通せた人はいないです。
副島 呉座勇一は、ひどい男だ。あと、その先輩格に当たる同じ日文研(国際日本文化研究センター)の教授を名乗る、梅原猛(うめはらたけし、1925-2019年、93歳で死)がいます。日文研は中曽根康弘が京都大学系に対してつくってあげた研究所です。梅原猛は、京大の西洋哲学のくせに日本史に踏み込んだ。法隆寺の秘密を書いて、一時期は偉かった。呉座勇一は、2025年にこの梅原猛が初代の所長を務めた国際日本文化研究センターの准教授になりました。

梅原猛
日文研には他に磯田道史(いそだみちふみ、1970年-、55歳)という歴史家もいる。磯田道史というのは、まだまともで、少しはやわらかい。私の本も読んだりしているんだろうと思います。磯田は、NHKのBSの歴史物の司会者をずっとやっていて、評判いいんだけど。その後輩に当たる男が呉座勇一ですね。この2人が若手の日本史の学会の親分なのでしょう。

磯田道史
そうすると、呉座は、何であんな訳の分からない文章を書くのかなと疑問です。そのうち彼の文章を2~3か所、引用して具体的に説明しますが、誰も読めない。何を言っているか、分からない。要するに、ああでもあり、こうでもありの文章ですね。そのように書かれているけど、それは必ずしもそうではない、と言うだけです。体制、権力側というのは、ひどいことするなと思います。それで、いよいよ東大資料編纂所系の学者たちが、明智憲三郎を追い詰めて押し潰すために、意識的、計画的にやっているんだ。
明智 そうですよね。
副島 そうだと思います。
明智 ヤクザのよくある鉄砲玉が呉座でしょう。鉄砲玉とは、それ相当の選抜された殺し屋がポーンと、ひとり派遣される。鉄砲玉の呉座が明智憲三郎という男を潰せ、という指令を受けて、それを必死にやった。呉座にネトウヨがみんなくっついて明智を攻撃した。ネトウヨはみんな、金をもらってやっている連中でしょうね。それでわいわいとX(Twitter)なんかでも悪口、罵詈雑言が飛び交って。
副島 この何年か、すごいですね。
明智 みたいですね。僕はあれ、気持ち悪くて見ていません。
副島 知らない。
明智 頭にくるから見ないようにしています。でもそれを私のファンの方が、その投稿を読んで教えてくれる。
副島 連絡してきてくれる。
明智 「名誉毀損で訴えろ」と私のファンが言ってきたんですよ。だからそれを、出版社にも相談しましたけど、あんまり乗ってこなかったんで、ほったらかしたんですけど、とにかくひどいものですよ。
副島 ですから、その問題が一つあります。藤本正行(ふじもとまさゆき、1948年-、78歳)さんという人と鈴木眞哉(すずきまさや、1936年-、89歳)さんが、割と昔から明智研究もなさっている。もうほぼ同世代の人たちですけども、簡単に言うと、藤本正行さんと鈴木眞哉さんに対してはどういう見解ですか。
明智 藤本正行さんとは僕、中学で同級生なんです。彼は当時から中学の時代から、もう歴史研究で、結構、名をはせていました。
副島 どちらの中学ですか。
明智 慶應の中学です。藤本さんは、そういう有名人だったんで、私は注目していたんですよ。それで、彼は桶狭間の信長の勝利について、本を書いて新説を出したら、もう袋だたきに遭った。ある意味、僕なんかと同系統の人間です。彼は『信長公記(しんちょうこうき)』の記述に従って桶狭間の合戦を読み解くと、今まで言われている通説の奇襲戦じゃないということを指摘したんです。
副島 そうです。
明智 だからすごく僕は味方じゃないかと思っていたら、彼(藤本正行)と鈴木眞哉君で僕の本を、けちょんけちょんというのとは状況がちょっと違いますが、すごく否定したんです。それは当然、藤本のスタンスだったら史料ベースで、明智はこの史料でこう言っているけど、それは解釈が違うみたいな、そういう反論が来るものだと思ったら、全然、来なかった。それどころか「子孫が唱える奇説」というようなレッテルを張って、私をたたきに来たんです。だから「何だ、これ」と思って、がっかりしたというのが最初でしたね。
副島 私は鈴木眞哉さんの本は何冊か読んでいます。鈴木さんの解説で、一番分かりやすく言うと、例えば、長篠の合戦でも日本の騎馬戦法とか言って、騎馬軍がドタドタと攻めかけたと、そんなことはないんだということを言っている。馬は荷物を運ぶことが仕事であって、侍大将だけは馬に乗りますけど、危なくなれば降ります。だから馬で駆けて行って戦争したなんて、日本の歴史にあるわけがないと書いた。弓は来るものといって、遠くから弓と矢で、あと石を投げてやったのが戦争でした。刀というものは、手柄をもらうために首を斬るための道具でした。だから、チャンチャンバラバラというのはとんでもないインチキだと、そういうのはないんだ、ということを書いたことで、私は鈴木さんを評価しています。それはそれでいいんですが、ところがやっぱり、明智さんに関しては、鈴木眞哉は憎らしいですね。
明智 あの2人は本当に、当然味方になってくれるものと思って待っていたら、何だという感じで最初に、めちゃくちゃ頭にきましたね。
副島 明智さんの本がワッと、みんなに評判よく出たので、ねたみ、嫉妬(しっと)でしょうね。
明智 いや、そうかもしれないけど、彼らはどちらかというと歴史学会の真ん中どっぷりにいるわけじゃなくて、端っこのほうにいます。そういう観点から学会中央と取引的なことがあったんじゃないかと疑うほどです。
副島 そこまでひどいですか。他に誰か名前のある人で、明智さんをたたいてきた人はいますか。
明智 彼らまでですね。何せ、呉座がめちゃくちゃ言ってきたのですが、藤本さんがそれの先鞭(せんべん)をつけちゃったような格好になっています。
副島 お会いして話したことはないのですか。
明智 これに関してはないですね。
副島 じゃあ実際、10年ぐらい、今は、おつき合いがないんですか。ひどい話ですね。
明智 いや、本当にがっかりしましたね。
副島 じゃあ日本歴史学会の戦国時代を扱っている部会の人たちが集まって、明智さんの本に関して何か公式に発表したとか、研究会を開いたとかいうことはないのですね。
明智 それも聞いてないですね。
副島 理解者の皆さんもおられるはずですから、明智さんが、そのことをもっとはっきりと皆さんに、自分はこういう目に遭ったと説明することも意義があると思いますね。
それで、徳間書店の長年編集長をしてきた力石幸一君に「明智さんと私の対談本を力石君、頼むよ」と言ったら、「僕がやるよ」って言ってくれました。彼は、もう75歳かな。力石君が連歌師(れんがし)の里村紹巴(さとむらじょうは、1525-1602年、77歳)を、ものすごく調べていて気になるんだと言っていました。里村は権力側のブローカーみたいなことをした人で、ただの連歌師とか、そんな者じゃないようですね。

里村紹巴
この本で、明智さんが、光秀が本能寺の変の直前に作った連歌(れんが)である「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」の愛宕山に3日も4日もいたのが、資金の調達のめどが立つまでいたんだと。秀吉に軍監(ぐんかん)、お目付け役として行けと。でも、大きく言えば助っ人(すけっと)で、助太刀(すけだち)で、援軍として行けと信長に命令されて行ったという。でも形式上は、もしかして秀吉を目付として監視するために行ったというふうにも読めるんでしょう。

「光秀連歌の図」

愛宕神社の参道
そうすると資金が、大名貸しというんでしょうかね、やっぱり10万両、20万両の資金がないと、軍資金がないと軍隊は動きませんから、だから援軍で行けと言われたとき、明智さんは2万人と、総勢2万人ぐらいで、与力(よりき)大名というんですかね、組下(くみした)大名は1人が3000人ぐらいを連れてきていたと思うんですけどね。それで、備中攻め、備中まで行って毛利攻めは2万か、3万でしょうか。どれぐらいでしょうか。私なりに調べたのがあって、もうちょっと多かったかなと思うんです。だからお金の動きを中心に見ないと歴史も見えない。でも歴史学者たちは文献、史料ばっかり読んで、それがサイエンスだと、科学、学問だと思い込んでいます。史料の読み込みすら正確にできないくせにね。
明智 本当ですね。
副島 自分たちのほうが学問だと言っているわけでね。
明智 本当にそうです。
副島 世の中の歴史物の大好きな人たちが、確からしさというのかな、真実により近かったものを妥当だと考えます。その判定から明智さんが正しいんだというふうに、日本国内の歴史好きをはじめ、日本の人たちは圧倒的に明智さんを支持していると思います。
明智 そうだとうれしいですけど。
副島 それを権力側の歴史学者たちが、ごちゃ混ぜにして、訳が分からなくする。そして、真実なんていうのは相対的なもので、そういう説もあるよねとか言ってごまかす。それが彼らの手口です。だから、「真実は一つしかない」という言葉は幼稚だから私はあまり使いたくないが、知識、思想、学問とは真実をあぶり出して、書き並べて、明瞭明確にすることです。私はより確からしい、より真実らしいこと以外、絶対に信じないという信念で生きてきた人間です。そして本を230冊ぐらい書きました。
明智 すごいですね。
副島 ほとんどベストセラーに入れました。
明智 それはすごいことです。
副島 だから私は、大嫌われ者です。いろんな業界、いろんな業種、いろんな種類の本書きました。だから私自身も、威張って言うのもなんですが、各業界に対して、金融経済から政治学、それから文学系、歴史文学のそれぞれを10冊、20冊書いてきました。専門の学者が来て何か言っても、私は互角か、それ以上に闘えます。より真実は、どうなんだという繰り返しをやって、彼らをたたきのめしてやるというつもりでずっと、もう30歳から40年間、本書きやってきました。
ですから私も信念、確信だけで書いてきている、と言われても困るけど、より確からしいもの以外は信じない。
明智 そうですね。まさにそうですね。私も、この本に書いている、より蓋然性(がいぜんせい)の高い答えを復元しようという姿勢で書いているんですね。
副島 細かい、プチ業績というのは意味がない、明智さんは、すばらしい事実をたくさん解明なさっている。私が一番好きで、この本に引き込まれたことは、長く続いた室町幕府の将軍義昭の前の、義輝たちの、大きな言葉で言えば奉公衆(ほうこうしゅう)、で、相伴衆(そうばんしゅう)、こもの、ひつぎまであると。いろいろな編成というか、建前というのか、制度を、将軍の周りに仕えていた者たちのことを、明智さんが徹底的に調べて、きちっと表に出したことです。あれで日本の歴史学者たちはびっくりしたと思います。日本の歴史学者たちは、あのような読み込みができない人たちです。
明智 確かにね。
副島 読んだふりをしているだけです。
明智 何であんなに人気者に、大事にしちゃうのか。たしかテレビ番組で本郷和人(ほんごうかずと、1960年-、65歳)が出てきて、「信長が光秀をいじめていたという話は、さまざまな文献に書かれているから本当でしょう」と言った。文献と言いました。軍記物をこいつ(本郷和人)は、文献と言うんだ、と私はびっくりしちゃいました。いまだにこんなことを言っているんだな、とあきれ返っちゃったんです。

本郷和人
副島 誰も読んでいませんよ、そんなもの。私は40年間、物書きをやっていて、分かりました。ほとんどの人たちは自分の生活で大変なんだと。本を買って本を読む時間があって、真面目に読む人は、もう今や100万人もいない。多くの人は生活だけが中心です。もう本を買ってまで読んでくれるというのは大変なことで、しかも真面目に、熱心に読んでくれるって、本当にお客様としてありがたいと思っています。だから歴史物に関しては、私もそうだけど、文献と言ったって、古文書を見る訳がないんです。
明智 そうですね。
副島 古文書を現代語訳や翻訳することも大変なことです。
明智 すごく大変です。
副島 それをさらさらと古文書が読めるフリをしているけど、あの時代の一部の限られたところだけしか、読めないはずなんです。奈良時代、平安時代と室町、戦国の頃の日本のものとは全然違うだろうし。
明智 そうですね。私、工学系なんで、工学の世界はみんな基礎と応用があるんです。基礎研究というのは目的が何で、何かの役に立つ・立たないじゃなくて、とにかく利用価値があるかどうかも分からないけども、その研究するというスタンスです。その成果を踏まえて応用研究というのがあって、その応用研究というのは、これは何の役に立ち得るかというスタンスで研究しているんです。
それは歴史学にもあると思っています。基礎研究とは、まさに誰も読めない古文書を活字まで持ってきて、誰でも読めるようにするというのが基礎歴史学だと思うんですね。基礎歴史学でやってきて偉くなった人たちが、学者が応用歴史学をやって、そこには何の手法も彼らは持たず、それで勝手なことを言っている。というのが今の歴史学の姿じゃないかと思う。やっぱり応用歴史学の技術があるよと、それは基礎歴史学とは全く別物だよというところから、歴史学をやり直さないとだめじゃないかといつも思っているんですけどね。
副島 あんまり学者たちに古文書を含めた事実研究のやり方で、彼らにケンカを売っても、どうせ相手しませんから。彼らは王様ですから、自分たちのやり方を変えません。一言で言えば、神父様というか、王様というか、大僧正みたいな人たちだから、自分たちに説教するなと言うわけでしょう。
明智 そうですね。
副島 経典、経文の読み方とか、そういうのを私は、あまりやってきてない。これは大きな枠組みの、日本の国民の大きな流れから見て妥当なところで、本当はこういうことをしていたんだろう、というようなことを伝えることが、何というか、言論というものの役割だと思います。それは愚直に読み物という言葉で、評論物というのは、それでいいと思うんです。学術研究と言う気もない。
歴史学は純文学で、ヒューマニティーズ(Humanities)です。これはいわゆるナチュラルサイエンス(Natural Sciences)と系統が違います。一言で言うとヒューマニティーズはソーシャルサイエンス(Social Sciences)の下のほうにあって、人間にかかわることというのと、文字で書かれて残されているものです。ヒューマニティーズ、人間にかかわることです。だから誰がどのようにそれを解釈しても、人間は勝手なんですよね。自然科学系とは違う。結局、読み物になっていて、みんなの評判をとって支持されなければ意味がないんだということです。

学問の分類
だから私はその信念でずっと、40年間物書きをやってきて、正義と悪、あるいは善と悪の問題を含めて、どれも価値は相対的にしか決まらないから、何とでも書きようはある。自然科学、理科系はそういう訳にいかないんだという、私なりの解釈があります。
(つづく)
「2234」 副島隆彦と明智憲三郎の対談
(第2回・全6回) 2026年2月9日
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副島隆彦です。今日は2026年2月9日です。
明智氏との対談の2回目を掲載する。
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副島 明智さんはシステムエンジニアでよろしいんですか。
明智 そうです。
副島 電気学科を卒業されたんですか。
明智 私は計測工学科というところで、大学進学の際に、よく分からないけど学部を決めるときに、僕がすごく尊敬していた同級生でそういう学者タイプの人がいて、その人が計測工学志望するというので、じゃあ俺もそうしようという、非常に主体性のない理由で決めました。
副島 そうですか。内部は大きくは大体、理科系の人とつき合うと大体、お互い理科系同士でも、あんた電気屋かと、俺は土木屋だとか、造船だとか金属とか言いますよね。何とか屋さんみたいな言い方しますけどね。その枠の中できちんとやってないと信用をなくすのです。自然科学系の厳密な、メソドロジー(Methodology)と言うんでしょうけど、方法学、メトードを方法学と訳すから、方法論と呼ぶようになってしまった。
明智 ええ。方法論と言いますね。
副島 私は方法論ではなくて学問土台学だと言っています。すべての学問の土台になるところがメトードということです。メソドロジーもしっかりしないと学問と言えない。これは私の先生の小室直樹(こむろなおき、1932-2010年、77歳で死)先生から習ったんです。小室先生は、京都大学の数学科から、やがて経済学や社会学のほうに行って、最後は政治学を研究されていました。メソドロジーと自分が言っているのは、メトードで確立、確定することなんだと言っていました。

小室直樹博士
ただ歴史学は人文の一種で、でもやっぱり一番分かりやすいというか、人口に膾炙(かいしゃ)する知恵ですから、歴史の知恵というのは国民の中にあって、そこから教訓を組み込んで、非常にすぐれた生き方ができるようにという、生活の知恵を持つということです。
明智さんの、おじい様は、「明智は恐らく家康の忍者軍団に醍醐のあたりで助け出されて、津島まで来ていた家康本人が、そこで連れて帰って、明智を保護して、すぐ家康は岡崎城に引き返して戻っていった。京都まで攻め上らなかった」とおっしゃった。だから私はあなたのおじい様が、明智は天海(てんかい、1536?-1643年、107歳?で死)僧正になったんだという、ご研究をなさっているという言葉だけは何回かありました。

徳川家康の「神君伊賀越え」の地図

津島の地図

天海僧正
明智 そうです。
副島 それが私にとってはものすごく大事なんですよ。
明智 そうなんですか。
副島 そこを私はお聞きしたい。
明智 僕も気になって少しは調べたんです。それを裏づける証拠が一つも見つからなかったですね。
副島 これは南條範夫(なんじょうのりお、1908-2004年、95歳で死)さんの『三百年のベール 異伝徳川家康』(2002年)です。

南條範夫

『三百年のベール 異伝徳川家康』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに移動します
明智 ああ、南條さん。
副島 この人が繰り返し書いていた。天海はいつも、ベールを被っていた、と。その素顔を見せなかった。これは天海説の唯一の、歴史、知識人では彼のことなんですが。私はもう完全に明智光秀が天海になったというふうに見ています。
明智 僕はむしろ、光秀の重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ、1534-1582年、48歳で死)なんじゃないかという方を少しほじったんです。
副島 その娘が、第三代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ、1604-1651年、46歳で死)の乳母、本当は母親の春日局(かすがのつぼね、1579-1643年、64歳で死ですね。

徳川家光

春日局
明智 春日局と天海の関係ってすごくよかったという話があります。
副島 親子みたい仲良くしています。
明智 明智の一族が滅亡したときに、これ、当然、戦争ってそういうものだろうと思うのですが、死んだ証拠というのは誰もないんですね。光秀が死んだ、誰々に討たれたという証拠がないんです。

明智光秀略系図
副島 京都の山科にある小栗栖(おぐりす)、明智藪(あけちやぶ)で死んだとされている。それらしいところはある。

山崎の戦いから明智藪までの地図
明智 そういう名前の宿はあります。ただ、そこを通ったという証拠は別に何もないです。
副島 斎藤利三は捕まって、引き回しの上、粟田でさらし首。
明智 彼の場合だけが、彼の死というのが非常に明快に事実として残っているんですよ。ほかの、光秀の女婿の明智秀満(あけちひでみつ、1536?-1582年、46歳?で死)とかは、みんな死んだよ、というだけであって、何も裏づけがありません。しかし、利三だけやたら明快に証人がいる。むしろ怪しいというのが僕の見方なんです。
副島 私の説は、明智さんの本を読みながら考えたことだけど、明智光秀の息子の光慶(みつよし、1569-1582年、13歳で死)が長宗我部元親(ちょうそかべもとちか、1539-1599年、60歳で死)のところに、13歳と明智さんの本に書いてあった。助け出されて、船で長宗我部の土佐(高知)に回って、そこからさらに上総か、あるいは南房総ですね、南総に渡って、そこでかくまわれて、やがて、恐らく1600年のころの関ヶ原の戦の後あたりで、完全に家康の権力が確立したあたりに、天海(明智光秀)が自分の血筋ですから、息子の光慶を呼び寄せたと思います。

明智光秀家系図
そして天海は115歳ぐらいまで生きていることになっておりますから、それはおかしいんです。ですから、天海僧正の後ろ半分は、明智光慶なんじゃないかと思いましてね。
明智 なるほど。
副島 さらに飛躍して、三代将軍家光は、この光慶とお福、春日局の子供じゃないかと考えています。そうしたら年齢からいって数字が合うんです。だから親子二代で赤坂山王ですから、山王の東叡山(とうえいざん)を名乗った。天海僧正は前世がわからないでしょう。比叡山の坊主だったということになっていますが。
明智 何か少しずつ、ぽつぽつと史料があったんですね。その前が東北地方の大名のところに仕えていた人物だとか、ちょこちょこと前半生のことは分かっています。
副島 しかし東北までわざわざ行く必要ない訳です。ぼうっとしている経歴はある。だからこれは私の説で、蓋然性(がいぜんせい)、合理性を突き詰めていって、一番まともに考えてこうなるという自分なりのメソドロジー(方法論)を持っています。だからあなたのおじい様の説が実は正しいんですよ。それを何で明智憲三郎が大事にしないのかなって、どうしても、お聞きしたかった。
明智 だから確たる証拠が見つからなかったということなんですね。
副島 あり得ますか。
明智 だから、うーん。それでいったら、斎藤利三も含めて可能性を考える必要があるだろうなとは思う。
副島 斎藤利三が信長討ちで一番の業績があると、これは割と真実で書かれています。信長の長男坊の信忠(のぶただ、1557-1582年、25歳で死)をすぐ討ちに二条城まで行っています。二条城から逃げてきた忍者がいて、それは秘密にしてあって、それが家康のところに走っているんです。もう一個の説が、現場まで帰って、それで明智を助け出して、家康のところに連れていったんじゃないかという考え方が、一番合いましてね。

織田信忠

本能寺の変の地図
それで大きく言うと、細川藤孝(ほそかわふじたか、1534-1610年、77歳で死)も、筆頭は高山右近(たかやまうこん、1552-1615年、63歳で死)ですが、明智光秀も洗礼名を持っていて、キリシタン大名だと。洗礼名が、はっきりしている。

細川藤孝

高山右近の銅像
明智 あ、そうなんですか。
副島 ええ。出ています。だからサンタ・マリア聖堂と呼ばれる南蛮寺に洗礼名が残っていた。キリシタン大名の筆頭は小西行長(こにしゆきなが、1558-1600年、42歳で死)と高山右近だろうと思います。明智は6月2日の夜明け、信長を討ち取った後、高槻城主の高山右近に、「右近殿、一緒に戦いましょう、合流しましょう」と、明智の横についている小姓(こしょう)に伝令させた。ところが、その小姓が届けた手紙には、恐らく光秀のすぐ横にいたイエズス会の宣教師オルガンティーノ(Gnecchi-Soldo Organtino、1533-1609年、76歳で死)が裏にポルトガル語で、右近に対して「光秀を討て」と。それはまさしく、明智さんが調べ上げて書いていたことです。

南蛮寺

小西行長の銅像

オルガンティーノ
高山右近宛てに、ポルトガル語で「光秀を討て」と書いてあった。右近はポルトガル語を読めたから。
明智 それ、僕も「高山右近すげえな、ポルトガル語を読めたんだ」って思ったんです。ところがその後で、最近になって分かったことは、正確に言うと「ポルトガルで使われている文字で書かれている」と書いてあった。それですごく合点がいったんです。それは、日本語の音をアルファベットで書いてあった。それは『日葡(にっぽ)辞書』という当時の日本語とポルトガル語の変換を書いた辞典があって、その辞典を見たら見出しの単語に、みんなアルファベットで読みが書いてあったんです。それで分かった。やっぱり歴史学者がポルトガル語の原文を訳すときに、ポルトガル語という言葉に変換ミスをしているんです。最近、何かで見たら、それは非常に正確に書いてあって、ポルトガルで使われている言葉で、文字で書かれているという記述があって、それはすごく正解、正確だなと思います。

『日葡辞書』(1603年版)
副島 でも、はっきりと明智さんは、オルガンティーノがポルトガル語で書いた、と本に書かれたでしょ。
明智 そうです。当時は、だから僕の見ていた日本語の訳本が、ポルトガル語と書いてありましたから。
副島 私はそれが真実だと思いまして、だからしょうがなく明智が京都に引き返すんです。坂本城まで行って帰ってきて、高槻城へ入ろうと思ったら拒否されて、その後で大返しで帰ってきた豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537-1598年、62歳で死)の部隊に負けてしまった。明智は、山崎の合戦で敗走する訳です。

豊臣秀吉
大変な大きな歴史の真実を、明智さんがここまではっきり皆さんの前でお話ししたことで、ショックを受けた歴史好きたちが60万人ぐらいいる訳です。その人たちの声を私は軽く見てはいけないと思っています。彼ら一人一人は、自分の生活だけで大変で、それ以上のことは何も言えないし、おかしいと声をあげない。何で歴史評論家や歴史小説家たちが明智憲三郎のことを応援して、それに従って書かないことを不思議がっています。
明智 いや、それも不思議なんですけども、それを最近研究して、最後のほうに書きました。明治以降に陸軍参謀本部が『日本戦史』というのをまとめて出版しています。この『日本戦史』というものが、まさに軍記物の記述で歴史を作ってしまった。これには出典が一切、書かれていない史料なんです。そのようにできてしまったものが、非常に権威がある史料として、その後を支配してしまっているんです。
副島 その本に書いてあるものは、明治の1890年代の頃の日本の陸軍が出した歴史書がありますね。
明智 はい。
副島 あれよりは、ずっと新しい、戦後の研究なんですか。
明智 いや、もっと前です。
副島 それは明治時代ですか。
明智 明治期から昭和期にかけて順次、作られています。それを藤本正行氏は「自分の桶狭間の合戦(1560年)は、正面攻撃で勝ったんだ」ということを主張したときに、もう総スカンを食ったと。何で、総スカンを食うんだというと、それは『日本戦史』が権威あるものとして迂回奇襲戦を歴史学界に吹き込んでいるからだ、ということを指摘しています。それを思い出しまして、『日本戦史』読み直してみたら、まさに軍記物の記述のとおりでした。しかも出典が一切ない。一般的に、歴史学の研究本は、きちんと出典を書いているものですが、一切、出典がない。
副島 それで、明智さんは桶狭間では信長が正面から攻撃したという説を取っているのですか。
明智 はいそうです。それは簡単なことです。孫(そんし)の兵法(へいほう)、呉子(ごし)の兵法というのを知っていたら、信長がとった作戦は全部読み解けてしまうのです。もうドンピシャです。ドンピシャでこれをやっていると、分かるんですよ。
副島 でも最初の前衛の正面軍が2万ぐらいいて、その後ろに今川義元(いまがわよしもと、1519-1560年、42歳で死)の本陣があって、小雨が降っていました。私は桶狭間山とかあの辺を、ずっと歩いて回ったんですよ。それで横から、横っ腹から織田軍が突っ込んだ。

今川義元
明智 私も回ってみました。
副島 それで唯一、真実としてはっきりしているのは、義元の首塚がありますよね。
明智 ええ。
副島 スーパーマーケットの脇の小さな小屋に義元の首塚があった。あの場所は本当だろうと思いました。本陣自身が突かれて100メートルか、200メートルは移動して逃げたとは思います。それで、首をとられたところがあそこだと私は思います。服部小平太(はっとりこへいた、?―1595年)と毛利良勝(もうりよしかつ、?-1582年)は、最初から信長側のスパイだった。顔を知っていなきゃいけないですから、討ち取った人間というのはやっぱりスパイで、裏切り者なんです。
明智 その孫子の兵法には、とにかくスパイのことが、びっちり書かれています。いろんなスパイの種類があると。そのスパイをうまく使うことが一番大事なんだということを、孫子の兵法に書いてあります。
確かに、『信長公記(しんちょうこうき)』の太田牛一(おおたぎゅういち、1527-1613年、85歳で死)が桶狭間の合戦の記述を極めて正確に書いているんです。だけど、彼は孫子の兵法も呉子の兵法も知らないから、それとの対比が一切なく、ただ自分が見た、見聞きした事実だけを丹念に書いているんです。

『信長公記』
その中に、桶狭間の合戦の前の日に砦(とりで)から通報があって、明日、徳川家康(とくがわいえやす、)の部隊が大高城に兵糧を送り込むという作戦だ、という通報が来ていると書いてある。そんな話、最初は、僕はそういうのを読んでいて、やたら今川方の動きに関して牛一がいろいろ書いているので、これは戦争の後に牛一が今川方から聴取してまとめたのかなと思いました。そこの部分だけ明らかに事前に情報が入ってきている。そこがやっぱり間者(かんじゃ)を通じて流れてきているんだなと分かった。

桶狭間の戦いの地図
副島 戦場忍者のことを乱波(らっぱ)とか、素破(透波、すっぱ)とか言っています。
明智 そうですね。孫子の兵法ではいろんなタイプの間者のことを書いています。普通の住民を間者にするとか。
副島 その件は、後日、またお話したい。私の本もお読みいただいたと思いますので、明智さんとは、あれこれ、もっと20ぐらいお聞きしたいことがあります。その1つに、信長はイエズス会に爆殺されたのである、という、あと一歩、何で明智憲三郎は踏み込まなかったんだろうかと、私はお聞きしたい。
明智 いや、そこなんですよ。僕はそれ、八切止夫(やぎりとめお、1914-1987年、73歳で死)さんの本を読んだ。

八切止夫
副島 知っている訳ですよね。

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明智 すごい衝撃を受けたんです。でも八切さんの話、おかしいねというのは、まさに爆殺したという手段なんですよ。それが僕は。
副島 信じられない。
明智 合点がいかない。というのは。
副島 黒色火薬が発明されて10年だ。
明智 京都の本能寺でそういうのが爆発したということは、当時にとってはすごい出来事のはずなんですよ。だけど一つも、そういう話が記事として残ってない。そんな大げさなことが起きたら。
副島 それは明智さん、死体が何も残ってない、全部、焼き尽くされていた。死体は見つからないのが、当時、当然であるというのは、それは明智憲三郎でも言い過ぎです。絶対見つかります。
明智 いやいや。今、現代でも火事のニュースを見ると、性別、年齢不明の死体が見つかったというニュースが非常に多いです。
副島 それもない。相当な火力で焼き尽くした。
明智 探す必要もなかったんでしょうね。
副島 だから、別にそれはやめましょう、お互い。探す必要がなかった、というのは、それは事実証明の手段にならないですからね。
このことに関して、私が確からしさをずっと突き詰めていくと、信長殺しを、どういう仕組みで、コンスピラシー(conspiracy)でしょうけど、集団、共同謀議で信長を殺したときの仕組みを考えます。明智さんがずっと書いてこられた、家康を信長が殺そうとしていた説と、細川藤孝と光秀も秀吉と仲がよかった説がありますが、私の自然な考察からすると、根拠がないんです。
私は、やっぱり大きくは、イエズス会が信長を殺した、と考えます。すなわち何が、誰が最も信長を嫌ったか、というところで歴史を見ていけば、やっぱり外国勢力が、キリシタンが信長を嫌った。当時は、ローマ・カソリックの突撃隊であるイエズス会が一番、戦闘力を持っていて激しい動きをしたんですよ。
明智 私はだからイエズス会が裏で動いたということに関しては、可能性をすごく感じます。
副島 1町ですから、109メートルですが、南蛮寺(サンタ・マリア聖堂)が本能寺の横にあった事実は分かりますね。

本能寺と南蛮寺の地図
明智 ええ。
副島 南蛮寺にオルガンティーノたちがいたんです。あなたがずっと名前をお書きになられている連中がそこにいて、あの後、安土城の連中も南蛮寺に合流しているんです。それで一番確からしいのは、信長を嫌ったのは、やっぱりイエズス会だろうということにならざるを得ないんですよ。
明智 それは信長のどの政策を嫌ったんでしょうか。
副島 政策ですか?
明智 はい。
副島 一つの論証は、ゼウス(Zeus)とデウス(Deus)は違います。そうすると、安土城で周りの商人の金持ちたちに、これはゼウスだと言って、西洋の船の船長からもらった大理石の像を飾ってそれを信長は見せたというんですよ。それに対してイエズス会が怒り狂った。ゼウスとデウスは違うんです。本当は泥棒して、ギリシャ神話のオリュンポスの十二神の大神のゼウスから、自分たちの神であるデウスをつくったんです。だから皆、イエズス会の連中はデウス、デウスと言っています。ところが信長たちがゼウスを拝むことが許せないんです。ゼウスは、ギリシャの神だからです。そこに怒りの理由の一つがある。
信長さえ殺せば、日本国はローマ法王に献上できるという大きな目標があった。この大きな目標で物事を見ずに、小さなところで考えると歴史を間違えます。私は、いつもこのようにして、自分の歴史知識、思想、学問をつくってきた人間なんです。大きなところでの整合性がないとだめなんです。
明智さん自身が、家康を信長が殺そうとしていた説、秀吉も加担していた説を少し疑っているようですね。共同謀議を、刑法学でコンスピラシー(conspiracy)と訳します。さらに刑法学の中では共謀共同正犯(きょうぼうきょうどうせいはん)と訳す。
明智 私は共同謀議をしたとは書いてないです。
副島 ただし知っていた。
明智 知っていたということはね。
副島 しかし、あそこまで信長による家康殺しを10ページにわたって書いて、後ろのほうでも、秀吉が細川藤孝とずっとつながっていたという、そのことを強調して、彼らの共同謀議で信長が殺された説まで、やっぱりそれは、私は誤りだと思います。
明智 いや、だからそういうことを私は書いたつもりがなくて。ちょっと書き方がよくなかったのかな。
副島 だけど数十ページにわたって書いてある。やっぱり怨恨(えんこん)説とかを批判しながら、何で家康と秀吉という二大巨頭を信長殺しの役割を演じた人間に。
明智 だから全然僕、そこに重きを置いたつもりはなくて。
副島 いや、だから呉座勇一たちも本城惣右衛門(ほんじょうそうえもん、?―1640年)の覚書とかは、取るに足りないんだ、という言い方で、明智さんを批判していると思うんですよ。それがああいう足軽の文書で、本当は、信長は家康を襲おうと思っていた。本城惣右衛門は明智の軍勢にいた訳ですから。家康を討つのかなと思ったら、本能寺で信長討ちをやったと。そのときの足軽たちの中ではそのような話になったんでしょう。
40人と書いてあります。信長を入れて40人ぐらいの本当の小姓衆だけで本能寺に入っています。夏ですから暑い。着物は単衣(ひとえ)を着ているわけで、重武装をしていません。それで、信長が死んだ後、小姓たちは討ち入って全員死んでいます。名前も全部書き並べてあった。これは明智さんの本に名前を全部書いてある。そこは分かっている。
するとやっぱり、明智憲三郎氏が副島隆彦のイエズス会爆殺説にある程度、理解を示してくれないことにはね。
明智 だから信長殺しを企画したのはイエズス会だという可能性が非常にあるというのはある。
副島 ある。
明智 ただ、殺害方法が爆殺だというのは、そこに私はひっかかっています。明治維新のときもそうでしたが、彼らは、日本人をうまく巻き込んで使っています。それと同じで、当時の一番、実行役としてうまく使える光秀を使った。
副島 それで幕末、明治維新に関しても、私は自分の本を何冊か出しています。20年前から思っていましたが、最近、ようやく結論を出しました。一番悪いのはイギリス人の全権行使のラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock、1809-1897年、88歳で死)です。

ラザフォード・オールコック
オールコックは、金貨、小判の流出のほとんどを実行した。『大君(おおきみ)の都(The Capital of the Tycoon)』という本を書いて、これは有名な本です。しかし、日本史学者たちがこのオールコックの『大君(たいくん)の都』を読む力がないというか、評論、評価する学者いない。簡単に言うと日本人は、1853年のアメリカの黒船のマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry、1794-1858年、64歳で死)と、その後1854年にやってきたタウンゼント・ハリス(Townsend Harris、1804-1878年、73歳で死)の話ばっかりします。一番悪いのはイギリスであって、イギリスが全部仕組んでアメリカに行け行けと言ってやらせた。大英帝国ですからね。アメリカは、まだ1850年代、1860年代なんてイギリスの家来ですから。

マシュー・カルブレイス・ペリー

タウンゼント・ハリス
そうすると金貨を流出させて、ほとんど、恐らく半分ぐらいの金、小判が日本から流出した。ラザフォード・オールコックと時の首相のパーマストン子爵(3rd Viscount Palmerston)という、本名はヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple、1784-1865年、80歳で死)が徹底的に一番悪い男です。パーマストンは、現役で死ぬまで首相をやった男です。日本人で、そのパーマストンが最高級に悪い、ということを調べている学者がいない。この「パーマストンが最高級に悪い」ということを、言ってはいけないんです。日本史、日本の歴史を、歴史学者、それから歴史読みたちも、日本の国内の話だけでおさめたいんですよ。日本への外側からの大きな力というのを無視して、日本史ができている。それを私は30年間、1人でガリガリほじくって、大きな真実という言い方をして、暴き立ててきたんです。

パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル
だから江戸城に善福寺を最初につくらせた。要するに和親条約(Treaty of Peace and Amity)は、どうでもよくて、Trade Treaty、通商条約がすべてだからです。1858年1月に圧力をかけて、通商条約を結んだ。「中国で大変なことになっているぞ」と言って、脅(おど)しながら、井伊直弼(いいなおすけ、1815-1860年、44歳で死)に無理やり認めさせた。6月にはもう横浜一番館、二番館でジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)の建物がどんとでき上がって、入り込んできた。その6月1日に一番乗りで全権行使のオールコックが来て、老中の屋敷に行って、江戸城に行って、ちょっと頭がおかしかった家定(いえさだ、1824-1858年、34歳で死)将軍に謁見(えっけん)しているんです。最初ですよ。だから1858年ですよ。このあたりの事実関係を日本史学者たちがいいかげんにした。

井伊直弼
私は歴史学者じゃないけど、並の人間じゃないですから、真実しか、暴き立てません。一番恐るべきことは、1863年に第十四代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち、1846-1866年、20歳で死)と孝明天皇(こうめいてんのう、1831-1867年、35歳で死)が4月10日を攘夷決行の日と決めた。孝明天皇は自分の妹を家茂に差し出して、公武合体(こうぶがったい)を進めた。すでに日本へ入ってきてしまったが、外国人を、一旦打ち払えと。通商条約を結んでしまったから、これを反故(ほご)にして、なしにして天皇と将軍が団結して攘夷決行を決めた。その3年後に家茂将軍が1866年7月、それから孝明天皇が1867年1月に殺されている。病死、病死って嘘だ。20歳の家茂が病気でコロッと死ぬわけがないでしょう。
孝明天皇は、五条の中山大納言家で死んだというけど、徹底的に外国人をとりあえず外側に出せと、打ち払えと言ったことで殺されています。将軍と天皇が殺されている事実を日本史学者たちが軽く見て、たった1行、歴史の本に幕末、維新のところに書いてあるだけだ。ひどいでしょう。
明智 そうですね。
(つづく)
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