「[3564]ジェーン・バーキンの死(76歳)から思うこと。 (「重たい掲示板」ver.)」by副島隆彦
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[3564]ジェーン・バーキンの死(76歳)から思うこと。
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投稿者:副島隆彦
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投稿日:2023-07-23 20:14:35 | ||
副島隆彦です。今日は、2023年7月23日(日)です。
私は、フレンチpop(モダンなシャンソンと言ってもいい)の 歌手の ジェーン・バーキン Jane Birkin の死のことがずっと気になって、もう一週間が過ぎた。この7月16日に、76歳で死去した、ジェーン・バーキン Jane Birkin は、フランスの アイコン(icon 現代のミューズ。女神さま。元々は英国人 )として、フランス国民、いやフランス語が少しでも理解できるヨーロッパ白人たちすべてに 憧(あごが)れられ、尊敬され続けた歌手で映画女優だ。 以下の記事の写真のように、最後は、にっこり微笑(ほほえ)んでいる、お婆(ばあ)さんだった。 (転載貼り付け始め) 〇 「ジェーン・バーキンさん死去 エルメスのバッグ「バーキン」由来 」 英国生まれの俳優で歌手のジェーン・バーキンさんが7月16日に亡くなった。76歳だった。フランス文化省が同日、発表した。 2人目の夫、セルジュ・ゲンズブールとともにヒット曲を生み出し、過激な性描写でも話題になった「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(1969年)は世界的ヒット曲に。 同曲をモチーフに、同じタイトルで夫が監督した映画も話題を呼んだ。ほかにもヒット曲「無造作紳士」、カンヌ国際映画祭最高賞の「欲望」など幅広く活躍し、ファッションモデルとしても活動。 仏ブランド「エルメス」の人気バッグ「バーキン」の名前の由来にもなった。同社の公式ホームページによると、バーキンさんとエルメスの会長が飛行機に乗り合わせたのがきっかけで誕生したという。 東日本大震災の翌月に来日し、その後も世界各地でチャリティーコンサートを開いた。娘のシャルロット・ゲンズブールも俳優で、初監督作で母の素顔に迫るドキュメンタリー「ジェーンとシャルロット」が8月に公開を控えている。 朝日新聞社 (転載貼り付け終わり) 副島隆彦です。この記事を私は、早朝ネットで読んで、彼女の死を知って、私は、涙ぐんだ。彼女の死への哀悼(あいとう)と共に、過ぎ去っていった自分の過去の30年前への哀感(あいかん)だ。 今の私は、古びた新左翼(しんさよく new left ニュー・レフト)のままの政治知識人 であり、金融・経済の予言の本を書いて食べている日本の言論人だ。私も老い浚(さらば)えた。ジェーン・バーキンは、私よりもたった7歳上だった。 私にも普通の日本人の若者としての、50年前の青春があった。数人の女性との深い付き合いがあった。地方出身の貧乏な青年だったから、女性関係では、いつも相手を傷つける形での残酷な終わり方をした。どんな人にとっても、青春はきっと惨(みじ)めで、愚かで、残酷で、甘酸っぱいものだろう。 若い男女が愛し合って、そして分かれる(決裂と離別)という体験は、その2人だけのものだ。だが多くの男女が、過去に苦(にが)い思い出として経験している。一緒に生活出来なければ、分かれるしかない。ただし、人(他の人たち)にあれこれ言うことではない。私生活の秘密( privacy プライヴァシー)に属する、private プライヴェット なことだ。それでも、自分のごく身近な長年の友人たちは、それを知っている。 2つ目の新聞記事を貼る。 (転載貼り付け始め) 〇 「 発禁 「性交ソング」 で時代に衝撃 バーキンさん死去 」 フランスの歌手で女優のジェーン・バーキンさんが、7月16日、76歳で亡くなった。日 本では、高級ブランドのバッグ「バーキン」の由来となったことで知られる。フランスでは1960年代、事実婚の夫、故セルジュ・ゲンズブールとともに「性解放と自由」のシンボルとなったことで、国民の記憶に刻まれている。 仏テレビ各局は、7月16日、バーキンさんを悼み、69年のヒット曲「ジュ・テーム・モワ・ノンプリュ」を流し続けた。 題名は「 愛しているわ。(あなたは? )さあ、どうかな、俺はもう愛していない (副島隆彦が、挿入し、加筆した訳。本当は愛している)」の意味。ゲンズブールと2人で性交中の男女の会話を歌い、喘ぎ声まで挿入されている。 エロティックな歌詞は欧州でセンセーションを起こし、バチカンのローマ教皇庁は「性の逸脱」と非難した。イタリアでは(当時)放送が自粛された。バーキンさんは当時、22歳だった。 エルメスのバッグは、モナコのグレース・ケリー王妃が愛用した「ケリー」が代表的だったが、3女の母親だったバーキンさんが物がたくさん入るよう、「4倍大きいバッグを作って」と提案したという。 抜群のスタイルと都会的なジーンズ姿で、女性たちのファッション・リーダーとなった一方、人権、社会活動にも熱心だった。2011年4月、東日本大震災から1カ月も経たないうちに訪日し、東京で復興支援コンサートを実施。「みなさんの冷静で、隣人を思いやる振る舞いに、みんなが心を打たれています」と被災者にエールを送った。 (転載貼り付け終わり) 副島隆彦です。次の一枚の写真が、その後の楽しそうな家族全員の再会を撮っている。 1986年2月27日、シャルロットはクロード・ミレールの『なまいきシャルロット』の 役でセザール有望若手女優賞を受賞した。ケイト・バリー、ジェーン・バーキン、セルジュ・ゲンズブールに囲まれるシャルロット。 photo : PAT/Getty Images 副島隆彦です。次に、いよいよ、この曲(1969年)の 最高の、ユーチューブの公式版を見て下さい。今聞いても物凄いです。このパリのエッフェル塔の下とか、シテ(中の島)のポンヌフの辺りで、ふたりで抱き合って歌う様子が、すべてを突き抜けて、すばらしい。 〇 Serge Gainsbourg Jane Birkin Je t’aime, moi non plus Subtitles – YouTube この「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は、屹度(きっと)今の 10代、20代の若い人たちにも、受け継がれて、今から日本でも、再(さい)大ヒットすると、私は確信する。 やっぱりフランス文化が最高だ。もうこれ以上のものは人類にはない。 私たち人類(人間)の芸術と 文学と 政治のすべては、共同の幻想( mass illusion マス・イルージョン)だ。すべては、人間と言うおかしな生き物が、集団で、共同で作り出す、幻想だ。生(なま)の現実の、私たちのそれぞれの、生活の外側のすべては。 ジェーン・バーキンから、生まれた「エルメスの “バーキン”バッグ の始まり」の私なりの理解は、あとの方で書きます。 私は、この数週間で、次々と語り下ろしで、重要な人たちの一生を振り返っている。去年死んだ、フランスの偉大だった、アヴァンギャルド(前衛)で、ヌーベルバーグの旗手の映画監督、ジャン・リュック・ゴダール のこと。 ゴダールの出世作 「勝手にしやがれ」(1960年作)でデビューした、ジャン・ポール・ベルモンドも、去年の9月に死んだ。アラン・ドロンが、老骨に鞭打ってその葬儀に出来てきた。そこに例のヒロミという、ドロンの別荘(ビッラ)で20年以上、家政婦としてドロンの身の回りの世話をした(共棲でもある)日本人女性が背後に写っている。 アラン・ドロンの、衝撃的な映画「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督。ああ、これも「勝手にしやがれ」と同じ1960年作だ)のことも、どうしても書かなければ。 副島隆彦です。 私の頭が、いろいろとこんがらがって、私の脳がおかしくなりそうだ。次に、この「ジュテーム・モア・ノン・プリュ」の曲の6年後に、そのまま、セルジュ・ゲンズブールが監督して、映画(1975年制作)にした。そしてジェーン・バーキンが、主演した。この大(だい)問題作になった映画の、 ユーチューブ版の プレヴュー(宣伝版)を載せます。開いて見て下さい。息をのみます。 〇 【5/29(土)公開】セルジュ・ゲンズブール没後30年記念 初監督映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ 4K完全無修正版』予告編 – YouTube 副島隆彦です。私は、久しぶりに、実に38年ぶりに、この映画の情景(シーン)を見て、泣き出した。 私にとっての38年前だ。私はこの問題作の映画を、確か1985年に見たから、私は32歳だった。この映画は、1976年にフランスで制作されたのに、日本ではずっと公開禁止だった。それが公開されたのが、確か10年遅れの1985年だ。私は、勘の鋭い、ちょっと精神的に不安定な女性に強く誘われて、この映画を渋谷に見に行った。評判になっていたのだ。 当時、原宿に「ピテカントロプス」という最先端のファッション・リーダーたちが集まる店が有って、そこは、エディターや、テレビのディレクターや、芸術家たちのたまり場だった。裏の方では、大麻(ハッシッシ)を飲み回ししていた。そういう世界を、私も微(かす)かに知っている。私は深入りはしなかった。 この映画は、はっきり書くと、若い女性が、ゲイ(同性愛者)のキレイな青年と、肛門性交(アナル・セックス)をする映画だ。そこに上記の、ジュテーム・モワ・ノン・プリュの曲が、全体に流れて使われていた。監督と主演が、だから、Serge Gainsbourg と Jane Birkin だった。 きっと今から、今の時代の、まさしく「やおい」そして「ボーイズ・ラブ」の世代の、日本の女の子たちが、この映画を必ず、見るだろう。 この映画に、ジェーン・バーキンが、まるで少年のアドニス のような感じで、登場して、ハンサムの頂点のゲイの若者と、性交をして愛し合う。そして周りから心配される。ゲイにはゲイの男どうしの血の掟(おきて)があるから、このあとが大変だった。愛する人に裏切られたと感じたゲイの少年は相手を殺すことが多い。この映画では、最後は男どうしで、去ってゆく。 今から50年前の、フランス人の芸術家たちは、さっさとここまで突き抜けていた。時代の先端を生きる、ということは、大変なことで、その最先端を生きる芸術家たちが、それを実行し実践する。体制派からの激しい非難 と、社会からの顰蹙(ひんしゅく)買いと 人々からの軽蔑の果てのところで、次の時代が形作られてゆく。 今はこの映画は、完全版が買えるし、ダウンロードも出来るだろう。私は、もう見なくていい。あの時代を、思い出して、泣くぐらいで、もう十分だ。 副島隆彦です。次に。さっきネットを開いたら、この「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の曲の和訳(日本語訳)が載っていたので、ビックリしたので、転載する。 きっとフランス語が良くできる、優れた女性のウエブサイトだ。 私、副島隆彦が、さらにこの訳に、フランス語が良くできる人に、しつこく聞きだして、ようやく(なんと、38年かけて)分かった、より 正確で、精密な日本語訳を、書き加える。 (転載貼り付け始め) 「 調子はずれに日々は過ぎゆく 気の向くままの好きなものブログ 」 から 「 ジュテーム・モワ・ノン・プリュの和訳 」 ≪ 和 訳 ≫ 打ち寄せるさざ波 la vague のように 俺は Je vais きみの 腰の間 entre tes reins を行ったり来たり きみの腰の間 を寄せてはかえす まだ大丈夫さ 愛してる 愛してる ああ…愛してるわ・・・・ (ここで、副島隆彦が、執拗に割り込み解説。 この entre tes reins 「アントレ・テ・リアン」 の 「君の腰の間を」 というのは、女性の外(がい)生殖器のことの、フランス語の、婉曲的な表現。 あなたは tu es チュ・エ 、波 la vague ラ・ヴァーグ 、わたしは moi 裸の島 moi lile nue モア・リル・ニュ (繰り返し。リフレイン) そして 一緒に‥… 肉体の愛 l’amour physique ラムール・フィジーク は 抜け道がない sans issue サン・スエ 終わることがない。出口がない ああ… わたしの腰に向かって あなたの波は、押し寄せる、そしてかえす 肉体の愛は 抜け道(出口)がない イヤ、今よ! non! mintenant ノン・マンテナン (転載貼り付け終わり) 〇Serge Gainsbourg&Jane Birkin /Je t’aime moi non plus(セルジュゲンスブール&ジェーンバーキン ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ)歌詞付 Lyrics 副島隆彦です。以上です。スゴいでしょ。以上が、上に載せた、ユーチューブの、この2人のデュエットの歌詞(リリック lyric )と、その日本語訳、および、私、副島隆彦による、しつこい解説の加筆です。 これで、分かったかな。この曲のすばらしさが。私たちは、今から54年(1969年制作)のこの曲に圧倒される。もっと本当は、この曲は、実は、女優のブリジット・バルドー Bregitte Bardot が、当時、愛し合っていたゲンズブールに作らせて、自分で歌ったのが初め(1968年)だ。54年、経(た)った、今だからこそ、今の若い人たちが、この歌を平気で、自然に、歌えるようになって欲しい。 副島隆彦です。 私は、エルメス Hermes の バーキン Birkin のバッグの話も、このあと書きたい。短く書く。 私は、「高級品のブランド・バックの世界」のことも、すでに先月、語り下ろしている。それは、学問道場の会員ページに載せる。 ここで、副島隆彦は、「(フランス、イタリア製の)ブランド・バック」と書く。日本の女たちは、ブランド・「バック」 brand back と、敢(あ)えて、無意識に言う。バッグ bag とは、言わない。「バック」だ。このことの深淵(しんえん)に、私、副島隆彦は気づいている。 フランス製の高級ブランド・バックたちは、東京の銀座に、お店が有って、その支店が、日本全国の地方都市のデパートにまで有る。 その頂点に、エルメス Hermes のバックがある。モナコ公妃(こうひ。プリンセス)になった米女優のグレイス・ケリー Grace Kelly から、作られた ケリー・バッグが、今は、400万円だ。 クロコ(ダイル。最高級の わに革)だと、2千万円する。 その次が、シャネル Chanel で、例の C のマークを組み合わせたロゴだ。 ここで、天才(バカボン)副島隆彦は、鋭く気づいた。これは世界中の女たちにとっての、「価値の基準だ」。 この、No2 ( 他に、カルティエ Cartier もある。だが、カルティエは時計が主。アメリカのティファニーは宝石が主 ) のシャネル Chanel のバッグが、1万ドル。というのが、世界中の女たちの「価値の基準」だ。次の、 Gucci グッチと、ルイ・ヴィトン Louis Vuitton は、それぞれ 3位、4位だ。そのあと、ずっと、セリーヌ、イヴ・サンローラン、プラダ・・・20位まで。 私は、これまで、この事に気づかなかった。だが、気づいている男は、すべての経済学者や社会学者を含めて世界中にいない。私、副島隆彦だけが鋭く気づいた。 私は、世界中の、金持ちの女たち(つまり、金持ちの男と結婚できた女たち、ということ)と、その予備軍、および、その下の方に付いている、「死ぬほど、ブランド・バックが欲しい」 世界中の女たち。今は、新興国の女たちも。中国人も、イスラム教徒のアラブ世界の女たちも。 彼女たちが、この「価値の基準」 value judgement あるいは、world values ワールド・ヴァリューズ 「世界普遍価値」を作って、堅く守っている。このことを、私は、これまで40年間、分からなかった。 それで、私は、自分の奥さん(になった女性)に、これらのバッグのことで、ヒドイことをした。私の奥さんは、これらのブランド・バックが、大好きな人だった。そしておそらく、今も。 彼女は、「 ブランドバックなんか、ブルジョワ bourgeois 趣味よ」と言って、見向きもしない、左翼あるいは、リベラル派の女では、まったくなかった。私は、このことに気づかなかった。私の奥さんは、まったくの非政治的( a-pollitical エイポリティカル )の 保守( conservatives コンサーヴァティヴ)だ。私は、本当にこの事実に何年も気づかなかった。このことは私の人生の悲劇のひとつだ。 彼女にとっても悲劇だ。右(保守)と、左(左翼、リベラル派)は、一緒に暮らして、夫婦になっても、どうしても話が合わない。おそらく必ずケンカ別れする。 新婚旅行のハワイでも、そのあとの香港でも、ロスアンジェルズでも、私は、彼女に、Duty Free shop (当時は、アゼリア。一流ホテルの横に付いていた)で、自由に買ってあげることが出来なかった。それで激しく大ゲンカになって、それで、彼女を、ひっぱたいたこともある。今のDV(ディ・ヴイ。domestic violence )だ。 私と奥さんに深い亀裂が入り始めたの、その時からだ。 それでも私たちは、離婚はしない。しても仕方がない。あとは、家族愛と、人生の共同体だ。 私は結婚が遅くて、確か38歳だった。物書き、言論人で何とか、自力で食べられるようになるまでは結婚しない、子供を作らない、と決めていた。それまでにいろいろとあったから。 私も、まだ貧乏だった。だから、そんな、当時一個100万円(今は400万円になっている)もした、ケリー・バックや、バーキンを 買ってあげることが出来なかった。今から考えると、本当に泣きたくなる。 だから、ジェーン・バーキンの、以下にたくさん載せる、写真(画像)たちの、バーキン( このバック が彼女の為に出来た 1984年よりも前は、彼女はいつも、必ず便利で軽い、藤(とう rattern ラタン)の丸いバスケット・バッグ を持ち歩いている)の姿を見て、私は、深く思いつめる。 ところが、ところがだ。私の奥さんも、なかなかしぶとくて、おそらく、私が、何とか買ってあげた(許可を出した)バッグや時計や服以外 に、ちゃんと、ケリー(ケリを入れてやる、と、昔、私は喚(わめ)いたことがある)も、バーキンも、ちゃっかり持っている。 いつの間にか、数個ずつ買って密かに持っているようだ。それ以外のものも少しづつ買って貯め込んでいる。詳しいことは知らない。彼女のクローゼットは開けられない。女は、決して、男に負けていない。私は唖然とする。 リスが、巣穴にどんぐりや栗の実を、着々と貯め込むように。女たち(全部とは言わない)は、しぶとくブランドバックを蓄(たくわ)える。これは、世界基準の女たちの行動であって、日本だけではない。 今なら、「買いたいなら買いなさい」と、私が、奥さんに言えるか。と言ったら、言えるわけがない。一個、400万円だぞ! みんな、ブランド品を、バカバカ買えるほど、金持ちではない。日本は、この30年で、本当に貧乏なのだ。金持ち層まで貧乏になっている。アメリカさまに、日本政府が、ふんだくられて、裏金で貢がされるからだ。その総額は、この40年間で、残高 1800兆円(16兆ドル)だ。 その代わりに日本に担保(保証)として渡されているのが、紙切れの米国債だ。金融では、貸借は売買の形をとる。アメリカは、これらの大借金を、1円、1ドルも、日本に返す気がない。 いざという時には、全額、踏み倒す。その時に、米ドルの大暴落を起こす。 思い出したが、私の奥さん( 配偶者。今はすっかり仲が悪い。あまり口も利かない)が、20年ぐらい前に、ぽつりと言ったコトバがある。「このバーキンの、この品番のものは、サウジアラビアの(首都の)リヤドのお店にあるの」 と。 今や、店舗の前に、列を作らせて、入場制限をして、さらには、なかなかブランド・バックを売ってくれない、という事態にまでなっている。 これまでの、すべての客は管理されていて、バーキンとケリーは、ひとり年に2個までしか売らない。
そして、これらの高級時計と宝石と、バックと洋服(プレタポルテ、高級既製品)は、実物資産(じつぶつしさん)だ。まさしく、私、副島隆彦が躍起(やっき)になって、「今のうちに買いなさい。どんどん買いなさい 」と、奨めている、実物資産(タンジブル・アセット tangible asset )なのだ。だから、今頃にになって、私は、ヨーロッパ製のブランドバックに目覚めたのだ。 やがて紙切れになると決まっている、ドル紙幣や、米国債とは違うのだ。 30年前(1993年)に、30万円だったシャネルの、使い古したバッグは、リサイクルショップにもって行くと、おそらく元の値段の2割の6万円ぐらいだろう。だが、箱に入って、保証書が付いていて汚れていないと、おそらく20万円で売れる。 バーキンとケリーなら、30年前に、100万円(約1万ドル)だったものが、もしかしたら、200万円で、売れるのではないか。いや、希少価値(スキャーシティ・ヴァリュー scarcity value )が出て、300万円かもしれない。 トヨタの「アルファード」(安いので600万円。高いと1千万円) の、新製品の供給が間に合わなくて、2年待ちとかになっているという。そうすると中古のディーラーも、トヨタの系列だから、トヨタは、アルファードの中古がどんどん高くなることを喜んでいる。 だから、ジェーン・バーキンの、これらの写真のように、気さくで、庶民的で、気取らない、高級毛皮(ファー)服反対運動(飼育され、撲殺されるミンクやテンが可哀そう)や環境保護運動や政治運動にも参加した女性のことを、人々は知っている。 日本の東日本大震災の直後に、ひとりで急いで飛んで来て、ジェーンは、被災地の現地を見て回った。支援のコンサートも開いた。渋谷のパルコの前でも歌った。 ジェーンは、自分のバーキン( 赤ちゃんの哺乳ビンが入って、持ち歩ける、大きな手提げバッグが欲しい、から始まった。旅行バッグほどではない大きさ)が古くなると、オークションに出して、チャリティ(寄付)する。 ジェーンが、フランスの周りの人たちに、「危ないから、日本には行かない方がいい」と止められたのに、行くと言って聞かなかった。そして実行した。 津波と原発事故に、世界中から、「日本人はかわいそう」と同情と憐(あわ)れみが集まった。募金もたくさん来た。しかし、私たち日本人は、それどころではなかった。自分たちの安全と、現地の被災者たちの話で、溢(あふ)れていた。同情と連帯の音楽家たちのコンサートなんかピンとこなかった。 それでも、ここからが大事なのだ。現地にいる、原住民である私たち日本人が、どう思っているか、ではないのだ。 世界中の、まわり、が、どう思うかが、重要なのだ。日本人には、知識層を含めて、「まわり(世界)が、日本をどう思っているか」の視点が抜けている。 私、副島隆彦の才能は、いつもここを凝視する。 今回、ユーチューブの、古いニューズ動画のひとつを見て、分かった。 ジェーン・バーキンが、2011年の4月(3.11の1か月後)に、渋谷のパルコ前で、アカペラで歌った後、ボランティアのいかにも、活動家の日本人女性が、ジェーンをバンに載せようとして、英語で、「今から、福島に行きます」と、言った。そうしたら、ジェーンが、さすがに、「大丈夫なの」と英語(彼女は、もともとイギリス人)と、小声で聞いた。 日本人のボランティアの、あまり格好も気にしていない女性が、「大丈夫ですよ」と言った。ジェーンは、もう肚(はら)を決めているから、そのままバンに乗り込んだ。 そうしたら、ここからが、大事なのだが、「おお、ジェーンが、フクシマ に行ったぞ。福島の原発事故の、放射能の被害はたいしたことはないようだ。現地の人間が元気で生きている」と、ヨーロッパの優れた知能の、知識人たちは、分かったはずなのだ。 大きく外側から見ること(自分たちの外側の目を分かること)の大事さ、として、何かあったら、とにかく現地に入ること。このことの重要性が、分かっていないと、超一流の人間にはなれないのだ。 ジェーンが、「大丈夫?(フクシマに行っても)」と一言、言って、車に乗りんだ、ときに、ジェーン・バーキンは、人類の超一流の人間であることが、証明されたのだ。 だから、私、副島隆彦は、ジェーン・バーキンを、腹の底から尊敬し、自分の同志だと思う。
日本の大地震、津波の時のバーキンのバッグは、記事にもあるとおり、チャリティで、1200万円になって、日本赤十字に寄付した。ジェーンは、歳を取った40代からは、コンサートで歌う時も、ただのジーンズにTシャツだ。娘たちを愛して、3回、事実結婚をした以外は、ヘンなスキャンダルは起こしていない。 やっぱり、Serge Gainsbourg セルジュ・ゲンズブール の音楽家(シャンソンの作曲、かつ歌う。映画監督も。元々はロシア系の移民)としての才能が、素晴らしかったのだ。彼は、アル中(酒乱と薬物 )で65歳で死んだ(1991年)。 ジェーン・バーキンの、あのちょっと出っ歯というか、すきっ歯(真ん中の歯にすき間が有る)の、あの表情が、庶民受けする。 上の方に載せた、映画の ユーチューブと曲 を、もう一度、皆さん、見て下さい。何度でも見て下さい。私は、見るたびに泣き出す。 自分の過ぎ去っていった昔でもある。 この映画にも、少しも威張っていない。気取っていない、生(なま)のママ のフランスがある。それでも映画だから、キレイに描いている。この映画(1975年)を作った時、ジェーン(1947年生)は、もう28歳で2児の母だ。 監督したゲンズブール(1926生)が49歳だ。ジェーンは、ハンサムなゲイの男と深く愛し合う、まるで18歳の少年のように登場した。 この映画は、必ずしも、若者たちの愛を描いていない。苦しい現実の中で、ありったけの貧しい生活の現実を引き受けながら、それでも、がむしゃらに、自分たちの愛を実行している。 副島隆彦です。さらに、資料として、ジェーン・バーキンの 姿の写真を、どんどん載せます。 (転載貼り付け始め) (ここに、バーキンの膨らんだバッグを持っている、ジェーン・バーキンの ELLE(エル)誌の写真付き記事を、貼ってください) 〇 「 永遠のアイコン、ジェーン・バーキン。愛と栄光、そして波乱に満ちた人生を振り返る 」 2023年7月16日、ジェーン・バーキンが76歳で息を引き取った。ファッションと芸能の関係者だけでなく、世界中が今、悲しみに明け暮れている。希代のアイコン、歌手、俳優、母親、そしてアクティビストとして活躍した彼女の人生をここに振り返る。 仏版『エル』から。
1946 年12月14 日にロンドンで、イギリス海軍軍人の父と、俳優の母の間に生まれたジェーン・バーキンは、俳優のキャリアに転向する前にモデルとして第一歩を踏み出した。 1965年にリチャード・レスター監督の映画「ナック」(Le Knack… et comment l’avoir)にシャーロット・ランプリングと共演したとき、彼女はまだ20代だった。 銀幕でのデビューの 2年後の1967年に、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の 「欲望 」 Blow Up に出演。 そのとき、この若手俳優は、母国イギリスを離れてフランスに定住することを決心し、映画の世界で名を上げたいと考えた(副島隆彦注記。フランス映画のオーディションを受けた)。 このときのジェーンは、ひとつの出会いが、以後の自身の人生を一変させるだろうとは全く思っていなかった。 セルジュへの第一印象は「傲慢な人」 「 突然、私はこの(男の)傲慢さが内気(うちき)からくるものだと分かり、彼の性格の複雑さを理解した。それは愛くるしいものよ。 面白くて、魅力的で、思いやりがある」とジェーンは振り返った。これが、このあと12年間にわたる 神話的で情熱的な愛の始まりとなった。 ジェーンとセルジュ、伝説的なカップルの誕生 ジェーンは、セルジュのミューズとなり、同時に( 副島隆彦注記。フランスのそして欧米世界の)全世代のアイコン的女性のシンボルとなった。この魅力的なカップルを、誰も否定することはなかった……ひとつのことを除いて。 ( 副島隆彦注記。それが、このあとの1975年制作の、同名の映画が持つ、激しい内容 ) マスコミから「ゲンズバール」 と挑発された彼の、度重なる過剰行為に疲れ果てた若かりし頃のジェーンは、ヴェルヌイユ通りにある自宅を、2人の娘とともに離れる以外に解決策がないと考えた( 1980年、ジェーンが33歳の時。ゲンズブールが酒乱で暴力も振るったらし )。「ジェーンは私のせいで去ってしまった」とセルジュは告白したが、(その後も)仕事のパートナーであるジェーンから離れることはなかった。(その後も、2人は一緒に仕事をした。娘たちとも交流した) セルジュと別居中にもかかわらず、ジェーンは、楽曲「ラ・ジャヴァネーズ」 La Javanaiseでもコラボレーション(共同制作)を続けた。特に1978年にリリースされたアルバム「想い出のロックン・ローラー」 Ex-fan des sixties) で一緒に仕事をしたジェーンだが、ジャック・ドワイヨン(フランスの映画監督)の腕の中で、再び愛を見つけることなる。1982年、彼女は娘ルー・ドワイヨンを腕に抱き、新たな幸せをつかんだ。(副島隆彦注記。ジェーンは、3人目の女の子を産んだ。この監督とは3年間だけ。そして以後はひとり )。 成功と波乱 90年代、俳優としてのキャリアを追求しながら、カメラの裏側に立ち2つの短編映画を監督。 一般公開されている作品は、「ジェーン・バーキンのサーカス・ストーリー」36 vues du Pic Saint Loup(2009 年)、 Si tu meurs, je te tue(原題011 年)だけでなく、Quai d’Orsay(原題 2013 年)も鑑賞できる。 俳優業の成功の裏で、プライヴェットでは悲劇にも見舞われた。1991年にセルジュ・ゲンズブール(65歳死)と、彼女の父デヴィッド・バーキンを相次いで亡くした。 013年に、長女であるケイト・バリーの悲劇的な喪失(副島隆彦注記。飛び降り自殺)を経験することに。当時46歳だったケイトは、パリ16区にあるアパートから転落し、意識不明の状態で発見された。この信じがたい出来事に対してジェーンは、「娘が亡くなったとき、私の人生は終わった」とラジオ「フランス・インテル」のマイクで打ち明けた。 しかし、ジェーン・バーキンは、愛する人たち、そして何よりも娘のシャルロットとルーに支えられ、何年もかけて立ち上がる力を見つけた。次女のシャルロットは、彼女(母親)に、フィーチャーしたドキュメンタリー『ジェーンとシャルロット』Jane par Charlotteも製作し、2021年の第74回カンヌ国際映画祭で共同上映された。 人生に輝きを取り戻したかのように見えたジェーンだったが、数カ月後には健康上の問題が彼女を襲うことに。 2021年9月、ドーヴィル・アメリカ映画祭への出席が予定されていたが、ジェーンは脳卒中を患い、訪米はキャンセルされた。彼女は2021年の予定を全て延期した。 2022年と2023年は、「ごめんなさい、寝ていたの!」と、ジェーンらしいジョークを言いながら、療養を続けていた。2023年7月の3週目の日曜日、ジェーン・バーキンは忘れられないアイコンとしての記憶を残して永遠の眠りについた。 ・ジェーン・バーキン、フォーエバー! 記憶に残る永遠のフレンチスタイルをプレイバック 〇 「【追悼】ジェーン・バーキンの“フレンチシック”を物語る、5つのキーアイテム 」 フレンチシックを体現する 【1】さらっと着こなす、白Tシャツ 【2】カットオフされたデニム 【3】スラックス&「コンバース」のマニッシュコンビ 【4】ガーリーなミニドレス (転載貼り付け終わり) 副島隆彦拝 |
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