「第8章 動的平衡芸術論の2」『生体は人体は、『機械論(きかいろん)』だけでは語れない!』「福岡伸一動的平衡3 チャンスは 準備された心にのみ降り立つ」を読む
「第8章 動的平衡芸術論の2」
「福岡伸一動的平衡3 チャンスは 準備された心にのみ降り立つ」を読む
「時間を・重ねることは・生きること
メゾチント、
という言葉を知ったのはいつのことだろう。
たぶん、少年の頃、エッシャーの奇妙な作品――だまし絵であるとともに、宇宙的な深度を持っていた
――を見た時だったと思う。そこに付されていたこの言葉に不思議な響きを感じた。
銅版画の一種であるたしかったが、実際に行われていることは知らないまま時が過ぎた。
その不思議な響きに再び触れたのは、
日本橋蛎殻町にあるミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションを訪問したときだった。
路面の円エントランスから続くスロープと木の内装は、
スタイリッシュなカフェか輸入家具のショールームのように見える。
それもそのはず。この美術館のデザインは、エドワード鈴木の手によるものなのだ。
夏の企画展のタイトルは「千一億光年トンネル」。
私はまず一階に飾られた浜口陽三の作品を拝見することにした。
彼の名は知っていたが、間近できちんと作品に接するのは初めてである。
モチーフはいずれも小さな生物や果物など。漆黒の背景に、
クルミやサクランボ、レモンがさりげなく描かれている。
そして、まるで夜光虫やヒカリゴケのようの、それ自体は発光しているかのように、
ぼんやり色づいて浮かんでいるように見える。
これらはいずれも、浜口が考案したカラー・メゾチントの手法で作られているという。
私は、切られたすいか、尾を外側に向けてならべられた魚、
平たい器に盛られたぶどうとざくろに心を惹かれた。
なぜだろう。絵の間を何度か往復しているうちに気づかされた。
ここにはある種の均衡があるのだ。
横長の構図は、いずれも左右に行くほど捕捉なってゆき、
水平線におかれた三日月にようなそのかたちは、
私に天秤の均衡を思い出させた。
そう思って、他の絵をあらためて眺めてみると、
青い皿にちらばったサクランボにも、かにの集いにも、
たばねられたアスパラガスにも、
生命だけが放つバランスの妙を感じる取ることができる。
メゾンチントの、細い線を重ねて作り出された形象には生命が吹き込まれている。
キューレーターの神林菜穂子さんの特別な計らいで、
私は、生まれて初めて、メゾチントがいかなるものなのか、
この目で見て、体験することができた。
彼女が、銅板と工具の数々を使わせてくれたのである。
鋭く光る銅板に、ベルソーでギザギザをつけていく。
ベルソーとは金属のヘラで、先端が微細なノコギリ歯のようになっている。
ベルソーを前後に動かすと自然に歯が移動していく。
力の入れ具合や削る方向、回数、角度などを変えることによって、
銅板上に刻印される微細なギザギザの深度に変化をあたえることができる。
他にもスクレイパーやバニッシャーといった工具がああり、
表面の凸凹にさらに微妙な変化を与えることができる。
ここにインクをかぶせ、余分なインクは布でふきとる。
深い谷には多量のインクが入り、深い黒に、浅い谷には少量のインクが入り、
浅い黒になる。これらの調整することにより、同じ黒でも無限の階調を表現できることになる。
エッシャーの宇宙はこうして作られていたのだ!
浜口はさらに、数枚の銅板原画を色ごとに正確に重ね合わせることに成功し、
多色刷りのメゾチントを開発したのだ。
こんなことを言うのは不遜に聞こえるかもしれないが、
膨大な時間を費やして、銅板に向かって一心に線を削り出していくという、
まさに何光年もの真っ暗なトンネルをひとり掘り込んでいく孤独と愉悦を、
私は感覚としてすぐに理解できるよな気がした。
なぜなら
――場所と道具こそ違えど――
私もずっと似たようなトンネルを掘り進んできたからである。
肉眼では見えない細胞のミクロな構造を観察するためには、
顕微鏡をつかわなくてはならない。
顕微鏡は、ちょうどメゾチントの技法が感染されたのと同じ
一七世紀中葉に、エッシャーの国、オランダで開発された。
そして細胞の細部を顕微鏡で見るためには、
いまでも
――ある意味でメゾチントに似た
――工芸品あるいは芸術的な手作業が必要をなるのである。
細胞は水をたっぷり含んだやわらかい袋だ。
直径は数十マイクロメートルくらい、
顕微鏡の焦点深度(フォーカスが合う範囲)は極めて浅いので、
生のままの細胞は厚みがありすぎて見ることができない。
細胞はもっと薄く、そぎ切りにしないと観察できないのだ。
しかしやわらかい袋(たとえばイクラを考えてほしい)は
そのままではそぎ切りなんてできない。
くずれて内容物が流れ出てしまう。
そこで生物学者は、細胞の内部構造はそのまま保ちながら、
細胞の水分をすこしずつ、もっと硬い成分に置き換えることを思いついた。
選ばれたのはハチ蝋である。
細胞を蝋人形にしてしまうのだ。
しかしこれは言うのは易く行うは難し。一気にはできない。
すこしずつ、すこしずつ置き換えていくのである。
水分を徐々に濃度の高いアルコールに換え、
アルコールをさらに特殊な溶媒に換え、
その溶媒をより蝋に近い溶媒へを置換していく。
こうして細胞から水分を奪い取り、そのかわり蝋成分で閉じ込めた蝋細胞が作られる。
この多段階工程はさながら染色や塗り物の伝統工芸に似ている。
こうしてようやくできた蝋細胞を、特殊な万力のようなものにはさみ、
するどいナイフで薄く薄くそぎ切りにしていく。
そぎ切りされたかつお削りの節状の
(実際は厚さ数マイクロメートル)細胞サンプルを切片(セクション)と呼ぶ。
ここにも細心の注意と熟達の技術がいる。
細胞はミクロすぎて、
この段階ではmどちらの向きに薄切りが行われているか実験者は知ることができない。
キウイを横に切れば種は円状に並ぶが、
縦に切ればハシゴ状にならぶ。生物学者には実にこのような空間的なセンスが必要となる。
薄切りにしたセクションに番号をつけ、
さらに特殊な工程を経て、スライドグラスの上に固定される。
この切片を順に顕微鏡観察しながら、
生物学者は頭の中で、あたかもCTスキャンの映像を三次元的に再構成するように、
細胞のイメージを思い浮かべるのである。
そんなことを思い出しながら、
私は美術館中央のらせん階段をおりて、地階の企画展会場に行った。
そしてそこであっと声をあげそうになった。
あらゆる場所に切片=セクションが散らばっていたからである。
Nerholの作品は、
文字通り、樹木の切り株のセクションを積み上げて、樹木がかつて形作っていた以上の空間を再現したものだったし、
水戸部七絵の作品は、
大胆で力強い方法でセクションが鉄板の上に、盛られ、積みあげられていた。そこには新しい生命のかたちが浮かび上がっている。
奥村網雄の作品は、
近くに行かなければ、それがどのような方法で作られているのかわからない。いや、近くで見てもそれが何なのかにわかには理解できない。
神林さんは
わざわざ作品を覆っている大きなアクリルケースを開けて、私が直に作品に触れられるようにしてくれた。もちろん、触れたといっても指先で触れたわけではない。嗅覚によって、作品の意味に触れさせてくれたのだ。それは直接的には皮脂の匂い、間接的には時間の香りだった。
奥村綱雄が、
小出由紀子事務所の作家だと聞い得心した。
細い糸で隙間なく刺繍された布は、
それ自体、無数のタンパク質の分子で稠密に満たされた
細胞の内部を私に思い起こさせた。
展覧会の通奏低音を無理につなげる必要はないかもしれないが、
神林さんによればそれは「重ねる」という表現ではないか、ということだった。
確かに、メゾチントには無数の溝が重ねられており、
樹木には切片が、刺繍には糸が、鉄製パネルには重力が、「重ね」られている。
一方で、そこに「重ね」られているのはマテリアルというよりも、
時間そのものであるともいえる。
私たち生物学者は、
細胞を蝋で固め、
ぎ切りにし、
ガラスの上に貼り付けて、あ
まつさえ人工的な彩色までほどこして
細胞の極小の構築を見極めようとする。
ありのままの生命を生きたまま観察することができないので、
仕方なくそうしているのである。
確かに、そこには何らかの構造物が見えるのだが、実は、その時点ですでにそこには生命はない。細胞は完全に死んでおり、そこにあるのは死の一断片=セクションでしかない。つまり生命の時間は完全に止まっているのだ。しかし、私たちはかすかな願いをこめて、その断片を集め、重ね合わせることによって、あるいは隙間なくつなぎ直すことによって、そして、そのあいだを想像力によって埋めることによって、かつてそこにあったはずの生命の時間をわずかでも取り戻そうとしているのである。
その意味においては――つまり、世界のあり方をなんとか再構築し、表現しようとする営みであるという点においては――科学と芸術は同じ目標をもち、互いにつながりあっているといってもよいかもしれない。
生命と芸術の局在論
「その日は日曜日だったが、日曜日でも彼は診察していた。待合室に患者が二人いるだけで、ビルはがんとしている。彼はすぐ会ってくれた。ぼくたちは話をし、彼もていねいに僕の役に立つように応対してくれた・・・・・・と、ふと彼の頭上の棚に並んでいる五、六冊の非常に古い医学書をぼくは見あげた。そして彼に仕業だなとわかった」
(『レッド・ドラゴン』トマス・ハリス著、小倉多加志訳、早川書房)
以上犯罪捜査の専門家ウィル・グレアムは、連続殺人事件を調査していた。いずれも被害者は猟奇的な方法で殺されていた。六人目の犠牲者は特にひどかった。腹が割かれ、刺し傷や切り傷が至るところにつけられ、手足を開いて衝立に縛りつけられていた。太ももには矢までが突き刺されていた。どんな些細なことでもいい、手がかりを必死に求めていたグレアムは、被害者の脚に古傷があるのを見つけた。記録を調べ、五年前、その傷を最初に手当てした救急治療室勤務のっレジデント医を訪問した。ハンニバル・レクター。現在、彼は精神科医として開業したいた。上記の一節は、グレアムが、このレクターこそ真犯人だと気づく、息詰まる一瞬を引用したものである。
なぜグレアムは、古い医学書の背表紙を見ただけでレクターが犯人だとわかったのか。グレアムもすぐには自分の胸騒ぎの原因がわからなかった。やっと理由がわかったのは、彼が病院に運ばれて一週間くらいたってからのことだった。古い医学書にしばしば掲載された「負傷者」の絵。グレアムはかつてそれをジョージ・ワシントン大学で受けた講義で見たことがあった。「負傷者」とは、一つの人体図にさまざまな種類の戦傷を示し、その対処法が記載された中世の図解である。「あの六人目の犠牲者の躰の恰好と不詳の具合が、その〈負傷者〉にそっくりだったんだ」
グレアムは、まず応援を呼ばねばならないと感じた。さりげなくレクターの診察室を辞して廊下に出て、公衆電話から連絡しようとした。背後に、靴を脱いで足音を消したレクターが迫っていることに彼はまったく気づかなかった。
この小説を読んで以来、私はずっと「負傷者」を実際に見てみたいと思っていた。というのも、「負傷者」には、現代の科学研究にも通じる局在論的な世界の捉え方が見て取れたのだ。
それがウェルカム財団のコレクションを見学することによってとうとう実現した。『武器による傷の対処法』(一五世紀半ば)がそれである。両腕を開いて、右足を軽く開いた男の身体のあらゆる場所に、刀や剣、槍や矢などが突き刺さり、打ちかかり、裂傷などの創傷がことごとく赤く口を開いている。しかし男の表情はうつろで、どこまでも平然としている。
レクター博士は、この図解を面白いと感じたのだ。アーティスティックだと思ったのだ。ある種のデザイン性を見て取ったのだ。そこで自らそれを正確に再現してみたくなったのだ。そして――ここが奇才トマス・ハリスが造形した、類まれなる天才レクター博士をめぐる物語の真骨頂なのだが――そのことに気づいたウィル・グレアムはまた、かつて「負傷者」を見たとき、同じように感じたに違いないのである。面白いと感じ、アーティスティックだと思い、デザイン性を見てとったのだ。だからこそ彼は覚えていたのだし、気づくこともできたのである。この絵をいつか見てみたいと願っていた私も、この展覧会にわざわざ足を運んだ来場者も、また同じ嗜好のなかにある。
ここには人体を、あるいは世界を、分けて、分けて、分けて、その内部を、目を皿のようにして覗き見ようとしてきた人間の歴史がある。どうして私たちはそれほどまで切実に、私たち自身の中を開けてみたかったのだろう。もちろんそれは私とはいったい何かを、そして世界の成り立ちをわかりたかったからである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは処刑場にかよって、腑分けされた人体を克明にスケッチした。ミケランジェロはきれいに皮を剥がれた脚の筋肉の走行を記録した。ペルシャでもチベットでも、そして日本でも、内臓や血管、子宮内部に育つ胎児の様子が描かれている。それはいずれも世界を開けて、開いて、分けて、その結果、得られたものである。
私たちは「ボディ・パーツ」からなっている。心臓はポンプに、肺はふいごに、血管は樋に、関節は滑車に、骨はまさに骨組に、たとえられた。そこにはメカニズムがあり、秩序があった。秩序には確かな美が宿っていた。
やがて分けることの解像度が上がると、つまり顕微鏡が発明されると、ボディ・パーツはよりミクロな、斉一的なサブレベルの秩序から成り立っていることがわかった。細胞の発見だった。まさに分けることによってわかったのである。細胞はさらに細かい小器官から成り立っていた。小器官はより小さな粒子、つまりタンパク質やDNAから成り立っている。
一九五三年、分ける行為がひとつの極点に達した。イギリスのケンブリッジ大学におたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、DNAが二重らせん構造をしているというあまりにも美しくかつシンプルな事実を発表した。当時、ワトソンはまだ二〇代、クリックも三〇代だった。
二重らせんが重大な意味を持っていたは、その構造が美しい秩序を持っていたことだけでなく、その秩序が機能を内包していたからである。DNAの二重らせんは、互いに他を写した対構造をしている。そして二重らせんが解けるとちょうどポジとネガの関係となる。ポジを元にあたらしいネガが作られ、元のネガから新しいポジが作られる。すると、そこには二組の新しいDNA二重らせんが誕生する。ここに生命とは、自己を複製しうるメカニズムであるとするテーゼが過不足なく宣明されたのだった。クリックが当時描いたスケッチは現在でも保存されている。らせんを示す丸い球の列のあいだに、円盤状の塩基の「対」がはっきりと記されている。クリックの鉛筆が描き出したさりげないカーブには、一種、自己陶酔に似た揺れにような何かが含まれているように見える。
このようにして、私たちは世界を分けて、分け続けてきた。これによって私たちは膨大な知識を獲得した。生と死のメカニズム。疾患の分子的メカニズム。あるいはヒトゲノム計画によって解読された三〇億文字もの遺伝情報。クリックが描いた円盤のひとつひとつがその一文字にあたる。私たちが享受する医学の発展、たくさんの画期的な薬物、先端的なバイオテクノロジーはすべてその上にある。
一方で、この腑分けによって私たちが見失い続けてきたものがある。見失うかわりに造り上げたある種の幻想があるといってもよい。
それはすでに世界の分解が進行していた19世紀に、以下のような諫言として現れていた。
「あなた方は
研究室で虫を拷問にかけ、
細切れにしておられるが、
私は
青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。
あなた方は
薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、
私は
本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。
あなた方は
死を詮索しておられるが、
私は
生を探っていいるのです」
これは一体誰の言明だろうか。意外に聞こえるかもしれないが、これはアンリ・ファーブルの『昆虫記』(奥本大三郎訳、集英社版)の一節である。孤高の生物学者ファーブルはおそらく気づいていたのだ。絶え間なく動き続けている現象を見極めること。それは私たちが最も苦手とするものである。だから人間はいつも時間を止めようとする。止めてから世界を腑分けしようとする。
時間を止めたとき、そこに見えるのいはなんだろうか。そこに見えるのは、本来、動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた、無惨な姿である。それはレクター博士によって、アーティスティックに傷つけられた身体を持つ人物の眼のうつろさに似ている。
それにもかかわらず、私たち科学者はずっと生命現象をそのような操作によって見極めようとしてきた。それしか対象を解析するすべがなかったからである。構成要素が、絶え間なく消長、交換、変化を遂げているはずのもの。それを止め、脱水し、かわりにパラフィンを充填し、薄く切って、顕微鏡で覗く。そのとき見えるものはなんだろうか。そこに見えるものは、本来、危ういバランスを保ちながら一時もとどまることのないふるまい、つまり、かつて動的な平衡にあったもの、「影」である。そこには秩序がある。それはもごとなまでに精密な機械=メカニズムに見える。
それはしかしある種の幻でもある。機械、すなわちメカニズムの中では、個々のパーツはそれぞれ固有の役割を有する。物質と機能は一対一で対応している。AはBに作用をなし、BはCに作用をなすように見える。一連の因果関係が、単純な線を構成しているように見える。ある機能が、sる特定の部品の上に、あるいはある特定の場所に、「局在」しているという幻想がここに成立した。
しかし実は、それは単に、そのように見える、ということにすぎない。一時停止のボタンを解除すると、対象はたちまち動きを取り戻す。そして次の一瞬には、それぞれのパーツは、先ほどとはまったく異なった関係性の中に散らばり、そこで新たな相互作用を生み出す。そこでは個々のパーツは新たな文脈の中に置かれ、新たな役割を負荷される。物質と機能の対応は先ほどの一瞬とは異なったものとなり、関係性も変化する。つまり、因果の順番が入れかわる。
この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界にも、身体にも本来、部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補してる。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、共し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また他の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。私たちは確かに今、パラダイム・シフトが必要なのだ。その手がかりはどこにあるのだろうか。
自らの脳の上に乗ってそれを軽快にドライブして見せている現代のファーブルは、私たちが現在、すっかりとらわれてしまっている生命の局在論を、その哄笑性によって、あたかも水上スキーの波しぶきのように、粉々に蹴散らせているかのように見える。
」
2025/10/30 つづく・・・
次回は
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