財閥の創業者たちの歴史「三井、住友、その他財閥の創業者たちの歴史 ① 白木屋 三井」
「
「157」 三井、住友、
その他財閥の創業者たちの歴史
① 白木屋 三井
副島隆彦です。
今日は、2025年11月10日です。
今日は何(なに)で皆さんの興味を引きつけられるかな。
東京に三越デパートがあります。それから東京駅の東口に、大丸というデパートがあります。三越というのは何なんだという話。三越デパートは越後屋(えちごや)さんで、それは三井財閥からだということはみんなに知られている。じゃあ大丸というのはどうやって始まったんだと。
東京 日本橋(現在)

明治初年の日本橋

それから、昔の有名なデパートで白木屋(しろきや)というのがあったんです。白木屋という居酒屋さんがありますが、それとは別です。白木屋は日本橋の高島屋と、その北の方のお江戸日本橋を渡った向こうの三越との間にあって、20年ぐらい前までは東急デパートだったんです【1954年に白木屋乗っ取り事件。その後1958年に東急グループが白木屋を吸収した。1967年に東急百貨店日本橋店と改称したが1999年に閉店】。その前はずっと白木屋だった。有名な「白木屋乗っ取り事件」のことは、③の最後に話します。
白木屋の創業は三越よりも10年早い。日本で最早く創業されて300年間続いた、立派な百貨店、デパートですね。もとは呉服屋さんです。百貨店の前は、「観光場」って言ったんだ。百貨店って言葉ができてね。一番有名な所だったらしい。
こういうのがどういうふうに始まったのかという話を、知ってるようでみんな知らない。全体を見通す見取り図というか、それがないとやっぱりね、日本人は本当に困るんですよ。
■白木屋
江戸3大呉服店の一つ。近江の武家出身の大村 彦太郎(おおむらひこたろう 1636-1689 当時17歳)がお世話になっていたお坊さんからの助けを受けて、1652年に京都で小さな材木商を始めた。木材の白さをアピールするために「白木屋」という屋号にする。江戸でも間口一間半、だから間口2メートル弱の小さなお店を開業した。江戸の店は、将来性を考えて呉服・小物問屋にしたんです。それが成功して大呉服商「白木屋」になりました。
江戸時代の白木屋
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明治32年の白木屋
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■1932(昭和7)年 白木屋火災
1932年は3月に満州国建国宣言、5月に犬養毅首相暗殺(五・一五事件)がありました。年末の12月に、前年に完成したばかりの白木屋日本橋店が火事担ったんです。4階(玩具売り場)から出火して、14人が死んだ。
この時に、従業員の女性たちは皆、建物から飛び降りられなかったって言うんですよ。その理由が、着物だから、下着をつけていないから飛び降りたら着物がめくれて見えてしまうからだって。それで建物の中で煙に巻かれて死んだって。有名な話です。でも本当はこれは、その後に「ズロース(女性用下着のこと)」を売り出すために後から作った話だったって。飛び降りたことが死因の大部分だったとも言うね。
昭和32年 白木屋の火事(4階以上が消失)
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■歴史作家 泉秀樹
私は最近、泉 秀樹(いずみ ひでき 1943- 現在82歳)という歴史作家に傾倒していまして、彼の本 を20冊以上買って読みました。『幕末維新なるほど人物辞典』(PHP研究所 2004年刊)というので有名な人です。幕末の重要な人物を400人ぐらいを、各3ページぐらいでずっと解説している、ものすごく重要な本なんです。
この泉秀樹さんというのは、あまり知られていない人です。1943生まれですから、私より10歳年上です。本としてはずっと読まれてきたんですが、歴史作家とか歴史学者というのは、ブームが去ってしまうとみんな忘れてしまうんですね。それでも、この泉秀樹は二流の歴史作家、歴史家としての位置づけしかない。NHKの特集でも取り上げられたことないしね。しかし泉秀樹の文献を読む力、文献考証力はね。ものすごいです。しっかりしている。
泉秀樹

この人の『商売繁盛 老舗のしきたり』(PHP研究所 2008年刊)という本を最近、私は読んだ。1998年の『商人道極意(あきないのごくい)』という本を出し直したんですね。40年間、私の知識として頭の中で散らばっていたことが、この本を読んでようやくまとまった。
アマゾン 『商売繁盛 老舗のしきたり』
財閥はそれぞれ銀行を持っているけれども、商社も作っている。三友商事と三井商事と三井商事ですね。それから伊藤忠商事と丸紅もある。今回は、私が40年かけてようやく到達した、日本の財閥の全体図を話します。
■近江(おうみ)商人、伊勢(いせ)商人
近江商人と伊勢商人という言葉は、みんな覚えなきゃいけません。日本の大商人や大デパートの、もともとの始まりはみんな近江商人か伊勢商人なんです。これはね、もうはっきりしてる。それらに大阪商人を加えて、三大商人というらしい。けど大阪の人たちに聞くと「大阪に出てきて大商人になった人はみんな近江商人だ」と、はっきり言いますね。あるいは名古屋人だという言い方もします。名古屋のずっと北の方が伊勢の松坂ですからね。
近江

伊勢

近江商人と伊勢商人が、日本の商業の始まりを作った人たちなんです。江戸時代から明治時代にかけて勢力を広げた。近江は琵琶湖ですから。琵琶湖の西側の方の比叡山から降りてきたところに高島町ってあるんですね。高島屋というはその地名からきている。だから高島屋の高島も近江商人です。京都西川という寝具、布団屋さんで有名な西川も近江商人ですね。
近江商人(初代細田善兵衛)の絵

■京都西川も近江商人
西川が何を売っていたかというと。蚊帳(かや)ですね。蚊帳を一人で30個ぐらい背中に積んで行商できたはずなんです。蚊帳を売るネットワークがあったはずなんです。江戸時代の初めからね。蚊帳っていうのはものすごく大切なもので。田舎でも都会でも蚊はいっぱいいましたから。蚊にさされるのはみんな嫌ですからね。蚊帳を吊って寝る。僕の小さい頃まで蚊帳がありましたね。家を閉め切るなり、あと網戸ができましたから、やがて蚊帳はなくなりました。
網戸で家の中に蚊が入れなくなって、それで蚊が消えて東京の都会では蚊がいなくなった。蚊がいなくなった頃、実はアトピーという病気が出始めたんですね。アトピー性膚炎は、どうも殺虫剤と防腐剤と、それから家庭の主婦が台所で使う洗剤。特に昔の中性洗剤があまりにもひどすぎた、ということでアトピーが出たと思う。1960年代は台所洗剤による手荒れが問題になりました。と同時に蚊は東京の真ん中では死にました。ただ玉川とか池とか水があるところのそばは、蚊がいるんですよ、今も。これが大変なんですが。
蚊帳

■三井
三井の創業家も、もとは近江です。近江の佐々木氏が信長に敗北したときに、佐々木氏に仕えていた武士 三井 高安【みつい たかやす 越後守(えちごのかみ)を名乗った】も松坂に逃れてきたんだと。
高安の息子 高俊(たかとし)は武士をやめて商人になった。彼が三井一族の始まりなんだけど、高俊には商売の才能が無くて。奥さんの珠法(しゅうほう)という人が立派でね。高俊が死んだあとも質屋を切り盛りして、酒や味噌なども扱って。堅実な人だったと。
高俊の息子の一人、三井 高利【みつい たかとし 1622-1694 三井財閥の中興の祖といわれる】に抜きんでた商才があった。のちに越後屋呉服店を開いた人です。「三井財閥の始まりは三井高利」、というのは有名です。この人が初代ということになっています。
三井高利

高利は末っ子で(たしか五男坊)、14歳で江戸に出て、兄貴の店で修業しました。でも兄にその商才を妬まれて松阪に帰されちゃった。それで自分の子供たちを江戸の兄貴の店で修行させて、自分は松阪で金融業(両替商)をやったりしていた。
1673年に、威張っていた兄貴が急死する。高利は、その後を全部譲り受ける形で譲り受けたわけじゃないけど、間口(まぐち)九尺と言いますから。江戸の本町一丁目、まさにそれが今の三越デパートのところですね。そこにたった九尺、一尺約30センチだから、間口が3メーター弱ぐらいの小さなお店を始めた。これが1673年、越後屋呉服店すなわち越後屋の開業です。
このとき高利はもう52歳になっているんです。本当は14歳の時から働いているんだけどね。それからは一族の中とか従業員の中から優秀な人物が出てきて、「暖簾(のれん)分け」で、どんどんお店が増えていくんですね。明治5(1872)年に、呉服業とそれ以外(金融、貿易)が経営を分離させて、越後屋と三井組に分けた。
越後屋呉服店

■三越デパート
三越デパートは越後屋(えちごや)さんからで、それは三井財閥系だということは知られています。三井本館という大きな建物が日本橋にあって、その隣に三越の本店があるわけ。で、そこに今マンダリンオリエンタルホテルが来てて。あの辺りには江戸時代からの話がずっとあるんです。
三井本館

明治26年に三井呉服店に改称した越後屋は、1904(明治37)年に三越呉服店と再び改称して、「デパートメント宣言」というのをやった。アメリカのデパートのように呉服以外も陳列販売をすると。その24年後の1928(昭和3)年には、「呉服店」が商号から消えて、株式会社三越が正式名称になりました。だから三越デパートの三越は、「越後屋」と「三井」が由来です。
伊勢丹と2008年に経営統合してるけどお互い仲悪くて。今実際はもう別れてるような感じです。
■三井 高利(たかとし)~大商人の見本なるべし
三井高利が越後屋を創業して、急成長していくんです。しかし周りの同業者から恨まれたりして。妨害するために有能な従業員を越後屋から引き抜こうとしたけど、誰も出て行こうとしなかったと。それは、能力主義をとった高利が厳しく勤務評定をやって、よく働く者に特別のボーナスを出したんですね。このボーナスを出すことの専門用語がいくつかあるんですが。そうしないと働かないですからね。
それから高利は、引札(ひきふだ)とう広告ビラを江戸中に配って宣伝するというようなことを始めた(1683年)。今でいうチラシ広告ですね。それまでは暖簾とか看板だけだったんです。これは「現金掛け値なし」という新しい商法です。それまでの訪問掛け売りではなく、店頭で安く現金で切り売りする。この薄利多売と客も従業員も大事にするという考え方で越後屋は大きくなったと。今ではそんなの当たり前なんだけど。
引札

それで、井原西鶴(いはらさいかく 1642-1693 江戸時代の大阪の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。『好色一代男』他)が『日本永代蔵』【にっぽんえいたいぐら 1688年刊 日本で初めて本格的に経済小説を扱った作品とされる】で三井高利のことを、「大商人の手本なるべし」と書いている。
(『商売繁盛 老舗のしきたり』p89から 転載貼りつけ始め)
従業員にとっては独立は夢であり、働く励みになる。一方、本家にとっても「暖簾分け」は系列会社がふえていることであるから、決して損はない。一人ひとりがもつ個人の力をうまく組織に取り込むことができれば、企業は大きな力をもつことができるのである。
しかし、人の心は移ろいやすい。とくに商売につきももの金銭は、人の心を惑わすものだ。そのため、高利は金銭の取り扱いには神経質なほど注意を払った。
(転載貼りつけ終わり)
副島隆彦です。日本人が知っているのは「暖簾(のれん)分け」という言葉なんだけど、「別家」(べっけ)というのがあって、真面目に働いた従業員が40歳ぐらいになると暖簾分けしてもらえる。分家(ぶんけ)とは言わないんだよな。分家は一族で、血がつながってないといけない。別家で系列企業になっていくわけです。それで従業員が何百人も増えていけば、近代会社とほとんど似てくるわけですね。
1716~36年が享保(きょうほう)で、8代将軍吉宗の時代になると不景気でね。価格統制して、米をたくさん増産して、いい政治やろうと吉宗自身は思ったんだけど、どうしても、米の値段が激しく上がったり下がったりしてね。下がったりすることも2,3回あった。将軍吉宗たちもゾッとしてね。一体何でこういうことが起きるのか分からんかった、って言うんですよ。それで株仲間という同業者の団体の親分を捕まえて牢屋に入れたりもしました。すぐ出すんだけどね。
こうやって「米の値段を下げろ」ということもいろいろやるんだけど、政治権力者には経済というものがどういうものかなかなか分からなかった。いいことをやればいい結果が出るというわけにいかないんですよ。三井高利の息子、2代目の高平の時に不景気になった。
■三井の大本方
高平は、「三井の大元方(おおもとがた)」というのをやったんです。この制度というか組織にして、一族が分裂しないように家の永続をはかるためにギュッと引き締めたようです。まだ株式会社制度もない時代です。商人たちは、帳簿や勘定元というのはちゃんと作っているけど、制度化されていませんから。現金勘定だったらお金を盗んだり使い込んだりあと仕入れのお金をごまかしたりする従業員たちもたくさんいたんだと思います。
二代目の高平は、一族のお金をすべてを、両替商から呉服店からあらゆる産業を財産を一括管理したんですね。この高平の締め上げで、三井は生き延びたと。
(『商売繁盛 老舗のしきたり』p94から 転載貼りつけ始め)
高利の死後、三井家の事業を引き継いだ高平は、高利の遺志を汲んで、宝永7年(1710)京都・江戸・大阪に出された越後屋呉服店と両替店の全事業を統括する「大本方(おおもとがた)」を京都に設置している。
大本方とは一種の持ち株会社のようなもので、同族が大本方に出資するかたちがとられた。
そして、各種資金は貸付のかたちで各店に出資され、半期ごとの決算報告を行って、借り入れをした店は一定金額の利息を大本方に納めるのである。これを受け取った大本方は、その利息を一定の率で各店に配分し、残りは大本方の運転資金にまわした。
この仕組みにおける取り決めを明記したものが「宋竺居士(そうちくこじ)家訓」【三井高利の嫡男・高平が定めた】である。
(転載貼りつけ終わり)
副島隆彦です。それから三井財閥で大事なことは、両替の商いをするのに飛脚(ひきゃく)を放ったこと。江戸と大阪の代金の決済をやったわけですね。銀行業そのものですけど。証券証書だけを運び屋に運ばせて、実際の100両なら1割10両を手数料として取って、向こう側で現金を渡すという手形の制度をね。
証書だけが交換されるわけで、現地で現金を渡すという送金の仕組みですけどね。為替とか送金というんだけど、銀行業の始まりです。ヨーロッパのロスチャイルド家と同じことを、1600年代から、日本では三井が始めていた。
飛脚 江戸から京都を3日間で走破

幕末から明治にかけて、株仲間が解散させられて、多くの両替商や問屋が潰れたんです。そんな時、三井家に 三野村 利左衛門(みのむら りざえもん)という男が現れた。この人の育ちはよくわかっていないけど、三井財閥を救出する仕事をしたんです。
利左衛門は、江戸末期の幕臣、小栗 上野介(おぐり こうずのすけ)(忠順 ただまさ)の雇われの中元(中元小物というんだけど。足軽の下ですね)になった。幕臣の雇われ人になって、それで三井家に出入りしていていたんです。利左衛門は漢字も読めないんだけど、情報収集と資金の勘定がうまくできた人なんでしょう。利左衛門は、越後屋の三井両替商の番頭に能力を認められて、その経営を任されるようになったわけですね。それで経営を立て直して三井は財閥になっていく。三野村 利左衛門の話は、②悪(ワル)のオルコック の話の所でもう一回出てきます。
三野村利左衛門

小栗 上野介忠順(2027年のNHK大河ドラマの主人公。この人は偉いんだ)

ところで、財閥という言葉。これはどう考えても昭和になって、よくて大正時代からですね、それまでは財閥という言葉はあまり使われていないんですよ。
◾️鈴木商店
それで、財閥というのは商社をそれぞれ持っていますからね。鈴木商店【かつて存在した日本の総合商社。第一次世界大戦中に大きな利益をあげ、急成長した。1917年には当時の日本のGNPの1割を売り上げた】とその商社が一番すごかった。第一次世界大戦の時にスエズ運河がもうできていて、そこに鈴木商店の商船がずらっと並んでたと言われています。
鈴木商店

でも、鈴木商店は倒産するんです【1927(昭和2)年に昭和金融恐慌のあおりを受け、事業を停止した】。台湾銀行なんかと一緒にね。第一世界大戦が終わった後の鈴木商店が、商社の始まりなんです。これが非常に大事なことで。他で総合商社と呼ばれるようになったところ、例えば三井や住友商事それから三菱商事なんかはそのあとですね。
三井、住友、その他財閥の創業者たちの歴史 ①終わり ②につづく
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