「最後の講義 完全版 どうして生命にそんなに価値があるのか 福岡伸一」 | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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「最後の講義 完全版 どうして生命にそんなに価値があるのか 福岡伸一」


最後の講義

完全版

どうして生命にそんなに価値があるのか

福岡伸一

 

「最後の講義」(NHK)は、知的最前線に立つスペシャリストたちが「もし今日が最後のだとしたら、何を語るか」という問いのもと、学生たちに対して講義を行い、それを番組にしたものです。本書は編集でカットされた未放送分を含め、最後の講義を再構成した完全版です。各界の第一人者が“人生最後”の覚悟で珠玉のメッセージを贈る「最後の講義」をお楽しみください。

 

福岡伸一(ふくおか・しんいち)

生物学者。19598(昭和34)年、東京生まれ。今日大学卒業。米国ハーバード大学医学部研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員教授。著書『生物と無生物のあいだ』(講談社)はサントリー学芸賞、中央公論新書大賞を受賞、ベストセラーとなる。その他の著書に『動的平衡』(木楽舎)、『ルリボシカミキリの青』(文藝春秋)、『フェルメール隠された次元』(木楽舎)、訳書に『ドリドル先生航海記』(新潮社)など。

 

はじめに

皆さん、こんにちは。福岡伸一と申します。私は生物学者の研究者です。今日は、「最後の講義」ということでお話させていただきます。

「最後の講義」は、もし何かの理由で明日私が消えてしまうとしたら、「今日のうちにぜひ、これだけは皆さんに聞いておいてもらいたい」ことをお話するという講義です。

『最後の授業』という物語を教科書などで読んだことがあると思います。第2次世界大戦が始まる直前に、フランスがドイツに占領されてしまった事件を背景に描かれた物語です。フランスとドイツの国境にあるアルザス・ロレーヌ地方の学校では、「今日でフランス語の授業が最後になる」という日に、学校の先生がフランス人の生徒たちに、「明日からドイツ軍が来て、ドイツに占領されてしまったらドイツ語しか話せなくなります。今日、フランス語での最後の授業をします」と言って授業を行い、授業の終わりに先生は黒板に「ビバ、フランス」と書きました。「フランス万歳」という意味です。

今日、私は生命のこと、生物のことを話します。結論は「ビバ、生物」「ビバ、生命」です。生命のいったい何が大切で、生命にどんな価値があるのか、どんなふうに生命を見たらいいのかを話したいと思います。

 

第1章

生命は機械ではない

虫オタクと顕微鏡

生物学者になるずっと昔、私は虫が大好きな昆虫少年でした。近所の草むらや公園に生えている植物の葉っぱについている蝶の卵や幼虫を採集してきては、家でせっせと育てていました。卵から出てきた小さな幼虫は、私が与えた葉っぱをむしゃむしゃと食べて大きくなると、やがて蛹という固まった状態になります。蛹の中で何が起きてるかは、私たち現代の科学者も完全に解明することはできていないのですが、幼虫の体をかたちづくっていた細胞がいったんドロドロに溶け、その中から成虫の体を作り出す細胞が現れ、蝶を作っていくということはわかっています。そして、2週間ほど経つと蛹の背中がパックリと割れ、そこからクシャクシャの蝶が転び出てきて、ゆっくりと羽を伸ばしていくのです。少年だった私は、「なんて綺麗なんだろう」と目を輝かせながら、羽化する蝶の様子をいつも飽きずに眺めていました。

そんなふうに、蝶をはじめいろいろな昆虫を観察して感じたのは、いかに自然が精妙にできているかということです。昆虫の色やフォームの素晴らしさに心を奪われた私は、「生命って何だろう?」という疑問を抱くようになりました。この「生命とは何か?」という疑問は、少年の素朴な問いかけであると同時に、生物学最大の謎でもあります。そして、人類が文化を創り始めて以来、問いかけてきた、哲学の問いでもあり、芸術の問いでもあります。ありとあらゆる学問、ありとあらゆる人間の活動の問いの行き着く先に、「生命とは何か?」という問いが待ち受けているように思います。

でも、少年だった私の考えはそんなところにまで及ぶことはなく、ただ蝶の美しさや格好よさに憧れて、幼虫や蛹を一生懸命に育てていたのです。だからでしょう、人間の友達が少なく、「虫だけが友達」という孤独な少年になってしまいました。両親はそんな私を心配したのか、小学校になったある日、素敵なものを買ってくれました。顕微鏡です。

顕微鏡といっても高級なものではなく、教育用の安価な顕微鏡だったのですが、私はうれしくて、早速、蝶の羽をセットし、レンズを覗きました。蝶の羽というのは色が塗ってあるわけではなく、モザイクタイルのような、あるいは桜の葉っぱのような、色のついた鱗のようなものが張り詰められていて、その一枚、一枚が光を放ち、色を作り出していることがわかりました。顕微鏡の中に未泌尿器科学教室な小宇宙が広がっているように感じた私は、その小宇宙に吸い込まれ、ますます人間の友達はいらなくなってしまったのです。

当時は「オタク」という言葉はありませんでしたが、私はまさに「虫オタク」でした。オタクというのは、何か一つのことに興味を見いだすと、その源流をたどりたくなる性質を持っています。虫オタクの私は顕微鏡を手にした途端、「この素晴らしい装置は、いつの時代、どこの、誰が、どうやって作り出したものなのか?」という源流をたどりたくなってしまったのです。

今なら、グーグルで検索すれば顕微鏡の起源などすぐに調べられるのですが、当時はインターネットもなければ、グーグルもありません。唯一、手掛かりなるのは本だけでした。私は顕微鏡の起源を調べる前から、昆虫のことでわからないことがあるたびに家の近所の公立図書館へ向かい、疑問を調べていました。図書館のどんな本に何が書いてあるのか、本の世界を探求しようとしていたのです。

図書館には開架の棚意外に書庫という、本をたくさん収納している場所があるということを知りました。書庫に入るには貸し出しテーブルの脇を通り抜け、司書に軽くあいさつをしてから入るのですが、子どもの私にとっては迷宮のようでワクワクしました。図書館の本は「日本十進分類法」という方法で、100番台から900番台まで番号が振られ、それに応じて分類されているということも覚えました。自然科学は400番台に分類され、特に昆虫は486番台。その数字が印字された小さなシールが背表紙に貼られた本が本棚に並べられています。私は400番台の本棚の前に陣取り、顕微鏡の歴史を調べました。

今、教鞭を執っている青山学院大学の学生にもよく言うのですが、科学を学びたいなら、いちばんの近道は科学史を学ぶことです。音楽のことを知ろうと思ったら音楽史を学ぶこと。つまり、自分の時間軸をもって掘り下げていくと、その学問の成り立ちがわかってくるというふうに伝えているのですが、私はそれを知らず知らずのうちに子どもの頃から実践していたようです。インターネットで瞬時に解答を得るのでしゃなく、“秘密の場所”のように感じた本棚の前の狭いスペースで、探求という道草を食いながら科学の歴史を学んでいたのです。

 

顕微鏡を世界で最初に作り出したのは、今から350年前のオランダ人です。首都のアムステルダムから、現在なら電車で1時間ほど南西へ向かったデルフトという小さな街で生まれ育った、アントニ・レーウェンフックという人物。17世紀ですから、日本は江戸時代が幕を開けて間もない頃です。デルフトの街は城塞都市のように周りを掘割で囲まれ、端から端まで10分もあれば歩いていけるほどの狭い街でしたが、17世紀のオランダは産業や貿易によって反映を遂げた経済の交差点であり、芸術文化の交差点でもありましたから、アムステルダムやライデンとともにデルフトもヨーロッパの人々が行き交う街として、さまざまな知識や技術が集約されていました。

そのデルフトで独自の顕微鏡を作り出したレーウェンフックは、留め金のようなかたちをした板状の本体に、自分で工夫しながら磨いたレンズをはめ込み、いろいろなものを観察していました。レーウェンフックは、高等教育も受けておらず、大学の先生でもなく、専門の科学者でもありませんでした。デルフトの一市民だったのです。にもかかわらず、アマチュアとしてひたすら顕微鏡づくりに没頭し、改良を重ね、ミクロの世界を人類史上初めて精密に観察することに成功しました。

レーウェンフックが作り出した顕微鏡は、現在の私たちが知っている顕微鏡とは似ても似つかない不思議な形をしていました。

高さは10センチほどで、金属の板にネジみたいなものがついていて、丸く小さな穴が開いているように見えるところがあります。ここにレンズがはめ込まれていて、そのレンズを覗くと物が観察できるようになっています。とがっている先に膠のようなもので自分が見たい物をくっつけて、ネジを調節し、レンズの真横に持ってきて観察するのです。

一見、原始的な装置に見えますが、レンズの磨き方が非常に素晴らしく、300倍ぐらいの倍率を実現していました。300倍というのは、現在の私たちが実験室で使っている顕微鏡と同じくらいの倍率で、肉眼では見えないミクロなものを見ることができます。この自作の顕微鏡を使って、レーウェンフックは、私たちの体が細胞という小さなユニットからできていることを発見しました。それから、血液の流れも観察し、血管の中に流れているたくさんの粒子を見つけました。白血球や赤血球です。さらに彼は街へ出て、水たまりの水を少しだけ採ってきて顕微鏡で覗きました。すると、肉眼ではまったく透明に見える水の中に、さまざまなかたちをした微生物が光りながら、踊りながら、泳いでいる様子を目にしました。すなわち彼は、細胞の発見者でもあるし、赤血球や白血球の発見者でもあるし、微生物というミクロな世界の発見者でもあったのです。

もう一度言いますが、レーウェンフックは学者ではありません。デルフトという小さな街に暮らした商人です。そこがまた素晴らしいところで、アマチュアが非常に大きな生物学上の発見をなしたということに、私は深く感動しました。

レーウェンフックの最大の業績のひとつに、動物の精子を発見したことも挙げられます。精子が生命の「種」になっていることを突き止めたのです。ただ、卵子は雌の体の奥深くにある細胞なので、そこまでは彼も気がつきませんでしたが、雄の精子を発見し、それが生命の種になっているということまで解明したのは凄いことです。アマチュアが独自の工夫で学問の新しい扉を開いたという素晴らしさを、私は顕微鏡の歴史とたどりながら感じました。

顕微鏡の発見者を追って17世紀のデルフトに時をさかのぼった私は、そこで小さな発見をしました。レーウェンフックの生家から200メートルぐらいしか離れていないところに宿屋兼画商があり、ここでレーウェンフックが生まれた1632年と同じ年、そしておそらく同じ月に生まれた人がいました。この人物は、レーウェンフックよりもずっと有名になっていますが、実は同時代人としてデルフトの街で暮らしていたのです。誰かというと、皆さんも知っていると思いますが、「真珠の耳飾りの少女」を描いたヨハネス・フェルメールという画家です。

 

フェルメールとレーウェンフックは同じ年のご近所さんで、小さい頃から同じ寺子屋に通ったような近しい関係だったと推察できます。ところが、その証拠は残っていません。レーウェンフックが、亡くなったフェルメールの遺産管財人になったという記録は残っているので何らかのつながりはあったことは間違いないのですが、どれぐらい仲良しだったのかはわかりません。でも、私はふたりは非常に仲が良く、いろいろな情報を交換していたのではないかと思っています。

ただ、当時の私は虫に夢中だったので、フェルメールに関してはあまり視界の中に入ってきませんでした。小学校4年生から5年生だった私は、レーウェンフックのように「生命を探求する人になれたらいいな」と夢を持って生物学の道に入っていったのです。

このスライドは、現在の顕微鏡を使って、レーウェン風苦の顕微鏡と同じ300倍程度の倍率で細胞の様子を観察したものです。

一見、マリメッコデザインみたいに見えますが、どこが細胞かというと、これが一つの細胞で、これも一つの細胞で、これもまた一つの細胞です。細胞を顕微鏡で見るとき、こういうふうに薄く削ぎ切りにします。これは膵臓の細胞を薄い切片にして見ていますが、細胞のどこで切れているのかによって見え方が変わります。地球にたとえると、赤道面で切れば大きく丸く見え、南極や北極に近い面で切れば小さな輪っかに見えます。細胞の大きさはふぞろいに見えますが、だいたい同じような大きさで並んでいます。

レーウェンフックが、私たちの体が細胞からできていることを発見したのは17世紀のことですが、そこから18世紀、19世紀、20世紀、そして私たちが生きている21世紀に向かって、生物学は生物の体の中をミクロな方へ、ミクロな方へと降りていきながら探求してきました。

細胞のことがわかると、細胞の中にあるいろいろな細胞内小器官について研究し始めました。ミトコンドリア、ゴルジ体、小胞体というふうに、細かいところにどんどん分け入っていったのです。

細胞の細かいことがわかると、もっと細かいものを構成している要素を見つけようと、さらに下のディメンジョン(次元)に降りていきました。そのディメンジョンがわかると、さらに下のディメンジョンに降りていくというふうに、生命を細かいミクロな世界に分け、分析的に物を考えるのが生物学の大きなトレンドになっていきました。

そして現在、私たちは何を見ているのか。この細胞の中に、白く抜けて見える部分があります。細胞の核と呼ばれているもので、このレベルの顕微鏡ではこれ以上は見えませんが、核の中にはDNAという細い糸のようなものが折り畳まれていて、それが遺伝子という「生命の設計図」であることがわかりました。DNAには、特殊な化学記号の連続として「遺伝暗号」が記されています。その暗号こそが、細胞の中で使われているミクロなタンパク質部品の設計図であることもわかり、DNAの端から端まで記された暗号もすべて解読されました。それが、2003年に完成した「ヒトゲノム計画」です。DNAに書かれているすべての情報、およそ2万3000種類のタンパク質部品のすべての構造が解き明かされました。生命を細かく解体して、小さな部品に分け、その部品の一つひとつに名前をつけ、機能を明らかにしたところまで生物学は進んできたのです。

ただ、そのような分析的な物の見方で生命や生物を捉えようとすれば、細胞、あるいは私たちの体は、ミクロなパーツが寄り集まってできている「精密機械」のようなものと考えることになります。つまり、「機会論的な生命観」に私たちは今、どっぷりと浸かってしまっているということです。

よく、がんのメカニズムや糖尿病のメカニズムというふうに「メカニズム」という言葉を使いますが、メカニズムの「メカ」は機械という意味なので、そういう言い方をするのも、私たちの体を「機械仕掛け」だと考えている表れです。機械だと考えるから、「うまく操作してやればもっと効率が上がるんじゃないか」と考えて遺伝子治療が行われたり、遺伝子の組み換え作物が作られたり、あるいは、「プログラムを逆戻しすれば若返るんじゃないか」と再生医療が邁進されているのです。テクノロジーが進んでいることも事実ですが、生命を機会論的に見ているから、「そういうことが可能だ」と考えるようになるのです。生命が一つひとつの要素から成り立っているという考え方を「要素還元主義」、あるいは「機関論的な生物学」ということができ、それが現在の科学の主流となっているのです。

でも、私が皆さんに伝えておきたいのは、実はそのことではなく、機会論的な見方で生命を見過ぎると、生命が持っている非常に大事な特性、生命を生命たらしめている本質の部分を見失ってしまう恐れがあるということ。機会論的な生命観に警鐘を鳴らしておきたいと思い、こうして壇上に立っているのです。

かく言う私も、生命を本質的に捉えようとする考え方に行き着くまでには紆余曲折をたどりました。研究し始めた頃は機会論的な生命観にどっぷりと浸かり、生命を分解することが研究だと信じて疑いませんでした。ところが、研究という「山」を一歩ずつ登り、あるところまで登ったら、そこから「違う風景」が見えてきたのです。「違う風景」というのは、機会論的な生命観とは違う別の生命観のことです。それを皆さんに伝えようと思います。

 

東京に生まれ育った福岡少年(右)。まだ残っていた自然の中を、虫捕り網を手に駆け回っていた。特に蝶が大好きだった。

 

レーウェンフックが作ったシングル・レンズの顕微鏡のレプリカ。300倍近くの倍率を実現し、微生物や細胞などを発見した。

撮影/齎藤海月(『婦人之友』2019年8月号掲載)

 

消化管の免疫に関与していると考えられているM細胞。細胞の一つひとつには細胞核があり、DNAが折りたたまれている。

 

マウスに何か!?ぼろ雑巾の研究者

私が分子生物学の研究を始めたのは1980年代、機会論的な生命観の潮流が押し寄せてきた頃でした。あたしも、一も二もなく「ミクロなレベルで生命を見るべきだ」という考え方にどっぷりと浸かっていきました。

昆虫少年だった頃の私の夢は、誰も知らない新種の虫を見つけ、その虫に「フクオカクワガタ」みたいな名前をつけて図鑑に記載することでしたが、その夢は結局、果たすことはできませんでした。新種の虫と思って捕まえ、上野の国立科学博物館に持っていって確認してもらったこともありましたが、それは新種でも何でもなく、すでに名前がついている当たり前の虫でした。

ところが、生物学の研究の世界に入り、細胞の森の中に分け入ってみると、そこに隠れている遺伝子やタンパク質は、まだ名前がついていない未知のものばかり。だからもう、「昆虫を捕っている場合じゃない」と、虫捕りの網と虫籠をミクロな分析装置に持ち替えて、細胞という深い森の仲に入っていったのです。私が研究を始めたのはヒトゲノム計画の完成よりももっと前のことだったので、新種の遺伝子がまだたくさんありました。大発見をしたわけではないのですが、私も生物学者としていくつかの小発見をしました。

「GP2」という遺伝子を見つけたのも小発見です。グリコプロテイン2型、あるいは、糖タンパク質2型の頭文字をとってGP2。消化管や膵臓などの細胞の表面に、アンテナみたいに突き出たようなかたちで存在しているタンパク質の部品です。GP2がどんな働きをしているかを調べるために、その設計図であるGP2遺伝子に着目し、機会論的なアプローチで調べることにしました。

これは、私の研究室で飼育していたマウスです。なかなか賢い動物で、「写真を撮るよ」とカメラを向けると、ちゃんとカメラ目線をくれるクレバーなマウスです。しかも、そんじょそこらのマウスではなく、「GP2遺伝子ノックアウトマウス」という名前もついているのです。このマウスに実験台になってもらいました。

GP2遺伝子ノックアウトマウスとはどういうマウスか説明します。まず、細胞の核の中からDNAの細い糸をそっと取り出します。次に、糸の中のどの部分にGP2の遺伝子の設計図が書き込まれているかを特定します。特定できたら、GP2の遺伝子の前後をチョンチョンと、ミクロな外科手術みたいな方法で切り取ります。そして、切り取ったGP2の遺伝子を捨ててしまいます。糸をチョンチョンと切った部分をつなぎ合わせ、もう一度細胞に戻します。その細胞から受精卵を作り、その受精卵をマウスに育て上げるのです。

マウスの体は1個の受精卵から作られ始め、2個、4個、8個、16個、32個と分裂しながら増えていきますが、分裂したすべての細胞はGP2の遺伝子が切り取られたままコピーされていくので遺伝子情報は伝わりません。したがって、このマウスはGP2という部品を作れなくなってしまっているのです。それを「ノックアウトマウス」と呼びます。普通のマウスと違って、部品が1つ足りないからです。

皆さん、携帯電話やコンピュータといった機械の中から部品を1つだけピンセットで引っこ抜いて捨ててしまったら、どうなるでしょう?当然、機会は壊れますね。その壊れ方を調べることによって、引っこ抜いた部品が何だったかを言い当てることができます。音が出なくなったら、音声に関わる部品だったのだろうとか、カラーだったモニターが白黒になってしまったら、色に関わる部品だったのだろうとか。それと同じように、機会論的な見方をすれば、GP2という部品を引っこ抜かれたマウスには何かとんでもない異常が起きるはずです。その異常を調べることによって、GP2がどんな働きを持っているかを明確に言い当てることができるのです。もしこのマウスが、がんになれば、それはGP2がないからであり、GP2は普通はがんにならないように働いている部品だということがわかります。あるいは、このマウスが糖尿病になったとしたら、それはGP2がないからであって、GP2は普通は血糖値をコントロールして糖尿病にならないようにしている部品だということができます。つまり、GP2遺伝子ノックアウトマウスを誕生させ、どこかに異常が見つかれば、その異常こそがGP2の役割だったことがわかるのです。

私たちは苦労して、このGP2遺伝子ノックアウトマウスを作りました。「チョンチョンと切って、つなぎ合わせて」と簡単そうに言いましたが、DNAは大腸菌から取り出した酵素を使って切りました。非常に手間暇かかる作業です。最近はテクノロジーが進歩しているので早く作れるようになりましたが、20年ほど前にこのマウスを作り出したときには3年もの月日がかかりました。昼夜もなく、ぼろ雑巾のように必死に働いて作り、研究費もたくさんかかりました。こんな小さなマウスですが、新車のポルシェを3台も買える研究費が投入されているのです。その研究費も東奔西走して集めました。そんな、手間と時間とお金がかかったマウスにいったいどんな異常が起きるのか、私たちは固唾を飲んで見守っていたのです。

マウスはすくすくと元気に育ち、飼育箱の中を走り回っていました。ところが、いつまで経ってもどこにも異常が見つかりません。いや、そんなはずがないだろう。GP2という大事な部品が完全に欠落しているのです。ちゃんと欠落しているかどうかも調べました。にもかかわらず、どこにも異常が見当たらないのです。

異常はどこかに隠れているのに違いない。皆さんが健康診断で検査するようにマウスの血液を採り、ありとあらゆるパラメーターを則敵しました。しかし、どの値も正常の範囲内に収まっていました。ひょっとしたら、異常は長い時間をかけて現れるのかもしれない。マウスの寿命は2年ぐらいだから、2年間このマウスを観察し続けたら、晩年に異常が現れるかもしれないと期待し、研究を進めました。でも、マウスの寿命が短くなるわけでもなく、老化が早く起こるわけでもなく、通常のマウスと同じように成育していきました。

それどころか、GP2遺伝子ノックアウトマウスはGP2遺伝子ノックアウトマウスと正常に交尾し、次々と子孫を作っていきました。生殖能力にも異常がなかったのです。子孫はこの遺伝子を引き継ぎますから、子ネズミたちはみんなGP2遺伝子ノックアウトマウスとして生まれてきました。でも、GP2がないにもかかわわらず、世代を超えても五体満足、健康なまま「マウス人生」を送っているのです。長い時間と多大な研究費をかけてこのマウスを作り、重大な発見があるに違いない、GP2の遺伝子の作用がわかるに違いないと観察を続けていたのですが、GP2遺伝子ノックアウトマウスには何の異常も現れない・・・・・・。私たちは非常に大きな研究の壁にぶつかり、道を塞がれてしまいました。

そんなとき、私はふと昔呼んだ論文の一説を思い出しました。その論文には、こんなことが書かれていました。「生命は機械ではない。生命は流れだ」と。なんだか詩人の言葉か、哲学者の言葉のように聞こえますが、これは科学者、ルドルフ・シェーンハイマーが言った言葉です。

今から70年ほど前に活躍した科学者ですが、たぶん皆さんのほとんどは知らないと思います。私の本を読んでくださった方は知っているかもしれませんが、一般的にはシェーンハイマーは完全に忘れ去られ、歴史の闇に消えてしまった名もなき科学者です。しかも、シェーンハイマーは43歳という若さで謎の自殺と遂げてしまったため、その存在はますます科学史から遠ざかってしまったのです。一方で、生物学はどんどん機会論的な見方で歩みを進めていましたから、シェーンハイマーの行った実験や彼が主張したことに誰も関心を示さなくなってしまいました。

ただ、GP2遺伝子ノックアウトマウスに何も起こらないという事実に改めて向き合ううえで、シェーンハイマーが行った実験や、彼が言ったコンセプトをもう一度思い返し、彼の仕事に光を当てながら生物学を捉え直してみると、「違う風景」が、つまり、機会論的な見方とは違う生命観が立ち上がってことに私は気づかされたのです。シェーンハイマーはいったいどんな実験を行い、何を語ったのでしょうか。シェーンハイマーも、「生命とは何か?」という非常に本質的な問いかけを行っていたのです。

 

昆虫少年だった頃のわたしの夢

小学生のとき、図鑑にも載っていない昆虫を捕まえた福岡少年は、「新種に違いない!」と息せき切って国立科学博物館に駆け込んだ。そんな、見知らぬ昆虫少年に対しても丁寧に対応してくれたのが著名な昆虫学者の黒澤良彦さんだった。結局、カメムシの幼体であることがわかり、福岡少年は落胆したが、科博のバックヤードを目にし、昆虫を分類する仕事があることを知り、昆虫学者になろうとひそかに誓った。

 

小発見

福岡さんが1990年に発見したGP2タンパク質の働きを解明した論文は、2009年にイギリスの科学誌『Nature』に掲載された。

 

GP2は、大腸菌やサルモネラ菌などのばい菌を体内に取り入れて特定し、免疫系に注意を促すという役割を持つことが後にわかった。

福岡さんは、GP2遺伝子を切り取ったノックアウトマウスを使ってGP2遺伝子の役割を解明しようと、青山学院大学でも研究を続けた。

 

なぜ毎日ご飯を食べるのか?

生命は毎日、食べ物を食べ続けなければいけない存在です。私も一日3食、ご飯を食べています。どうしてでしょうか?シェーンハイマーが生きた20世紀前半でも、そんな単純な問いには「人がご飯を食べるのは当たり前のこと」と誰もがそう答えたことでしょう。すでにその頃の生物学は機械論的な考え方が主流になっていて、食べ物と生物の関係も、例えば、自動車とガソリンの関係に置き換えられて説明されていました。つまり、自動車を動かすためにはエネルギーが必要なので、ガソリンを補給します。ガソリンはエンジンルームに送り込まれ、燃焼され、その熱エネルギーが運動エネルギーに変えられて自動車は動きます。あるいは、電気エネルギーに変えられてライトやエアコンを稼働させます。その仕事をすると、ガソリンは消費されます。燃えかすは排気ガスとなって捨てられるので、また新しくガソリンを補給する必要があります。

食べ物と生物の関係も同じように考えられていました。食べ物は食べると体の中で燃やされます。エンジンmkたいに爆発的には燃やされませんが、ゆっくりと燃やされる、つまり、酸化されます。それによって生み出された熱エネルギーは動物の体温になります。運動エネルギーは動物の運動に変えられ、科学的なエネルギーは生物の中の代謝のエネルギーに変えられます。でも、全部燃やされると消費されてしまうので、新しいエネルギーが必要となり、何かを食べます。燃えかすは呼吸中の二酸化炭素や、ふんや尿になって捨てられます。このように、自動車とガソリンの関係が、生物と食べ物の関係と同じだと見なされていたのです。

シェーンハイマーは、その仕組みをきちんと確かめたいと考えました。100の食べ物を食べたら、本当に100燃やされるのか。つまり、100の粒子がすべて燃やされ、酸素と結びついて酸化され、100の排気ガスとなって体外に出ていくのか。食べ物を食べるという行為のインプットとアウトプットの収支がぴたりと合うかどうかを、ミクロn荒れベルで性格に見極めたいと考えたのです。

彼が研究を行っていた1930年代は、そういう実証は簡単にはできませんでした。なぜなら、顕微鏡が発明された17世紀から、生物はどんどん細かく分解されてきたため、究極的な目で生物を見ると、酸素や水素や窒素や炭素といった粒子の集まりだと捉えられていたのです。一方、生物の体内に入る食べ物も、植物性のものにせよ動物性のものにせよ、やはり粒子の集まりです。この食べ物の粒子の集まりが、生物の体内にある粒子の集まりの中に入っていったら、粒子どうしがぐちゃぐちゃに混ざり合い、どの粒子がどこに行ったかわからなくなってしまうでしょう。

そこで、インプットとアウトプットの収支が合うかどうかを調べるために、シェーンハイマーは食べ物の粒子に印をつけ、生物の体の中のどこに行ったかを追跡するという実験を行いました。でも、当時は炭素や水素などの原子に印をつけることはできないと考えられていました。どころが、1930年の少し前に、物理学から新しいことがわかってきました。それは、同じ炭素原子であっても、普通の炭素原子と質量数が違う炭素原子があることがわかったのです。「アイソトープ、あるいは同位体」の発見です。少し難しいので、詳しい説明は省きますが、この、食べ物の粒子にだけマーカーペンで色をつけたと考えてください。この色は、匂いや味、見た目、栄養価などには一切影響をもたらしません。非常に微妙な原子レベルの差でしかなく、もちろん目にも見えないのでマウスはそれに気づくこともなく、普通の食べ物として食べます。

特殊な機械を使うと着色した粒子が見えるので、体の中のどこに行ったか、あるいは、ふんや尿になって排出されたかどうか、一粒ずつ追跡できる実験方法を使って、シェーンハイマーはマウスが食べたものがガソリンと同じように燃やされ、消費され、排出されて、また新しいガソリンが必要になるということが本当に起きているのかどうかを調べようとしました。

結果は意外なものでした。食べた食べ物の半分以上は燃やされることなく、マウスの体の尻尾の先から頭の中、体の中、いろいろなところに溶け込んで、』マウスの一部に成り代わっていったのです。

これを自動車とガソリンの関係に置き換えると、注ぎ込んだガソリンは燃やされるだけでなく、タイヤの一部になったり、座席の一部になったり、ハンドルの一部になったり、ネジの一部になったりするということです。あり得ないことですよね。でも、生物の体の中では、食べ物の現時や分子がいろいろなところに散らばって、体の一部に成り代わっていたのです。

シェーンハイマーは、この実験を非常に厳密に行いました。

まず、実験をする前のマウスの体重を量っておきました。このマウスは大人のマウスなので、成長期にあるマウスみたいにどんどん体重が増えたりすることはありません。そして、アイソトープで標識した食べ物を食べさせると、体の中に緑色の粒子がどんどん増えていきます。そのプロセスでマウスの体重を量り続けました。それから、このマウスの体から出てくるすべてのものを集めて、どこにアイソトープが存在するかも調べました。閉じた空間の中で飼育し、呼吸もふんも尿も毛も、皮膚から出てくる汗やあかも、全部集めて調べました。

すると、アイソトープが体の中に蓄積し、量が増えているにもかかわらず、体重は実験する前の体重を1グラムも変わらない、ほぼ定常状態で変化がないことがわかりました。食べ物の原子や分子が体の中に蓄積しているのに体重がまったく変わらないなんて。マウスの中で一体何が起きているのでしょう。あシェーンハイマーはいろいろな実験を重ね、この現象を次のように解釈しました。

食べ物を食べると、食べ物を構成している原子や分子は生物の体の一部に成り代わってしまいます。同時に、目に見えないかたちでもうひとつ別のプロセスが動いています。それは、マウスの体を作っていた原子や分子が代わりに分解され、捨てられているということ。つまり、食べ物を食べるというのは自動車にガソリンを注ぎ込むのとは違って、自分自身の体を入れ替え、作り替えているということなのです。

この実験から、マウスも私たちも、生物の体は絶え間なく「合成と分解」を繰り返していることがわかりました。その流れを止めないために、私たちは食べ物を食べ続けなければいけないのです。それは、機械論的な生命観とは違う動的な生命観です。生きているということは、機械仕掛けのミクロなパーツが集まっているだけではなく、パーツ自身が食べ物の原子や分子によって作り替えられ、交換されているということなのです。

 

シェーンハイマーの研究のイメージ。チーズを構成する微粒子が、チーズを食べたマウスを構成する微粒子に成り代わる。