「⑭ 十二 種々相(しゅじゅ‐そう)「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む」2025/4/17「歯科を職業とする人には、是非読んでいただくことをお願いする。」 | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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「⑭ 十二 種々相(しゅじゅ‐そう)「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む」2025/4/17「歯科を職業とする人には、是非読んでいただくことをお願いする。」


①「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む①・・・2024/10/04

「手仕事の医療 評伝 石原寿郎( いしはら としろう) 秋元 秀俊 (著) 」を読む

 十二 種々相

ここで「種々相」の中身にふれるが、歯科を専門としない人には、再び少々退屈な話しなので飛ばしてもらっていい。

ただ、歯科を職業とする人には、是非読んでいただくことをお願いする。

「種々相 1下顎位について」は、関節による下顎の位置(顆頭位)と歯列の嵌合によって決まる下顎の位置の関係について、様々な分野の議論を整理し、それを実証的に評価したものである。まず、用語の混乱を正して全体像を示したうえで、中心位と咬頭嵌合位それぞれについて機能的意義と解剖学的な位置と臨床的意義を各論に丁寧に説明している。

やや繰り返しになるが、石原は「下顎運動を最も大きく規制する因子として顎関節の形態学的検討の必要なことは当然であり・・・。これは精密化された運動測定法の陥り易い誤りを大局的に是正する点でも価値がある」と解剖学的な見直しの必要性を数年前から見通していた。

「咬合の議論は、いまタコツボに入っているんだよ。頭で作り上げた論理の中で精確さを追究しているだけだ。俺は、そのタコツボから歯医者を引きずり出してそのタコツボを塞いじゃうよ。5年以内に勝負をつけてみせるから」

時代は遡るが、博士課程を終えて助手に採用したばかりのSをつかまえて、石原はこう言った。Sは、米国ロチェスター大学への留学が決まっていた。院生二人の諍いが絶えず、教室内に不要なゴタゴタを起こすよりは、思い切って外に出すのがいいと考えたもので、本人の強い希望があったわけではなかった。

「タコツボに入っている」

このときSが頭に描いたのは、タコを捕るための漁具ではなかった。タコツボとは、中国大陸で日本軍が多用した敵から身を隠すために縦に深く掘った一人用の塹壕である。ここに歩兵銃と爆弾を抱えて潜み、戦車が偶然にその知覚に向かって来るのを待ち続ける。爆弾とともに飛び込んで自爆することを意図しているが、いざ敵が来ると、出れば撃たれ、出なければ戦車に踏み潰される。タコツボに身を隠しているのは、臨床のための理論のように見えて臨床の目的を忘れて精密な器具操作に熱中し、そこに立てこもっている歯医者である。当時、海外の雑誌に続々と掲載されていたのは、科学的な方法論を無視した咬合理論だったが、それをタコツボに潜む兵隊になぞられたのであろう。

「教養のように奉っているが、それは教義が彼らの独善的な振る舞いに説明根拠を与えてくれるからさ。必要がなくなったら、彼らは簡単に教義を捨てるよ」

ある考え方を「教義のように奉る」ことは、石原の考える学問的態度とは相容れない。

「精密の高いデータが次々と発表される傾向がつよいが、これが研究をどのような方向に導いて行くか、・・・何か徒に複雑精巧な装置を用いて、ただ細かいデータに追い回されているに過ぎぬといった感じがしないでもない。」

理想的な下顎の位置を基準に歯のかみ合わせを新たにつくろうをすると、そのかみ合わせには限りなく高い精度が求められる。

これはちょうど精神疾患の治療とよく似ている。精神科医はいったん精神病として患者を受け容れると、精神病の症状が完全によくなるまで治ったとは言わない。いったん精神科に入院すると、症状が完全に治らないかぎり退院は望めなくなる。健康な人間だって、ときどき気分が落ち込んだり、腹が立ったりするが、いったん入院すると、ちょっと感情抑制がきかないだけでも精神病の徴候にされてしまう。つまり軽度の精神病をつくっているのは、理想的な健康という医師の幻想だと言えないこともない。歯科も同じで、普段はひどいかみ合わせで平気でせいかつしているのだが、かみ合わせの治療になったとたん、理想的な状態が規準に持ち出される。

石原はしばしば、理想的な状態について「ある幅の中に入っていればいいんだ。人間はそんな機械みたいなもんじゃないよ」と言った。

しかし、わが国では、咬合学は、この後石原の意図からは遠く離れてあたかも中世神学において、針の先で天使は何人踊れるかと論争を続けるように、スコラ学として純化されていくのである。

 

石原は帰国後、「咬合嵌合時の顆頭位」の診断法を確立する前段階として解剖学に戻ることを考えた。これを大学院生の大石忠雄(一九六四~六八年東京医科歯科大学大学院在籍)に担当させた。解剖は、実直で地味な大石にふさわしい研究課題だった。新鮮屍体の観察から解剖学的に顆頭の安定した位置を探らせたのである。ここで見出されたのが、世に知られる大石の「顆頭安定位」である。

「ある夜10時頃、2階の教授室から半地下になっている1階の便所の隣にある研究室に顔を出した石原は、大石から新鮮屍体の柔らかい顎関節を見せられた。下顎頭は常に下顎窩に接触しながら動き、再現可能性をもった運動を示すことに感激し、新しい発見がさらにあれば夜中でも見に来るから連絡してくれ・・・。」

顆頭(下顎頭)が関節窩の中で円板を介して緊張なく安定する位置があり、その位置は関節包靱帯を切断しても再現性があった。ここに力を加えれば後方に動き、力を抜くとこの位置に戻るので、中心位の顆頭の位置を確認することもできた。このことが世界の常識となるのは、なお二〇年ほど待たなければならないが、「一番yくわかっている君が命名しなさい」と石原に言われて、大石はこれを顆頭安定位と名付け、「種々相1」とほぼ同時期に発表したのである。

 

ちょうど同じ時期、石原の八月の札幌講演の一ヶ月前に、保母須弥也が歯科医療管理学会で「オーラル・リハビリテー全」をテーマに延々三時間に及ぶ特別講演を行った。保母はこのとき三〇歳になったばかりである。このときの記録が歯科医療管理学会誌に三六ページに及ぶ講演録として一挙に掲載されたのは、「種々相1」が歯界展望に発表された翌月のことである。

歯科医療管理学会は歯科診療所に経営学の導入を進め、医院経営の近代化を進めた学会だが、その活動で診療予約を前提に診療を進めるアポイントメントシステム、診療所ユニットのレイアウトにあたっての動線分析が瞬く間に歯科の標準になった。学会の創設に加わった慶應の経済出身の木下隆治が、「あなた方がドクターです!」と開業医を持ち上げて、たんなる歯科医師から病院経営者へと脱皮を促す医療管理セミナーを各地で開催したことで知られる。法的には、病院ではなく診療所になるのであるが、病院という表現が好まれた。このころの歯科医師には、まだ多分に手仕事職人的な気分が残っていたが、木下のメッセージはそれを払拭するものだった。

石原の教室では、若い山田が医療管理学会に出席して保母の講演を聴いていた。

「すごいですよ、僕といくつも年が変わらないんですよ。」

山田は、広告チラシの講演者履歴を同僚に見せて、感心してみせた。それはある種の妬みを含んでいた。米国から帰国するなり金属焼付ポーセレンの著書を出版し、講演を重ねる保母の噂を知らない教室員はいなかった。しかし教室の幾人かが、桑田が一時帰国していたときに、石原とともに桑田を囲む歯科技工士の勉強会を訪れ、金属焼付けポーセレン真空焼成法の開発について詳しく聞いていたことはすでにふれた。このためか、教室員たちの間には、すでにこのとき保母に距離をおく空気があった。

 

保母は、金属焼付ポーセレンのときと同じ歯科医療管理学会で、日本で初めて本格的にオーラルリハビリテーションを紹介することになった。このことがその後のオーラルリハビリテーションの行方に大きな影響を与えることになる。昭和四五年以降の咬合に関する議論は、保母の影響なしには語れない。そればかりか、自覚するか否かは別として、この時代の保母の議論は二一世紀の現在まで影響の尾を引きずっている。このため、ものがたりの脈路を壊して詳しく、保母の議論を歴史的に跡づけておかなければならない。

保母には、複雑な問題を大胆に簡略な図式に還元する編集の才があった。この初めての長大論文で、その才能を如何なく発揮しているが、コンピュータで本をつくる時代ならいざ知らず、その後わずか一年で九〇〇ページに及ぶ同名の大著を上梓してしまうのである。このころは、文字組みこそ写真植字ではあったが、印画紙をネガフィルムにして、これを感光液を塗った亜鉛板に焼き付け腐食させて凸版を作っていた。それを九〇〇ページ分つくるだけで、膨大な労力とスペースを要する。その本がわずか数ヵ月単位で増し刷りを重ねることになった。

 

保母の医療管理学会講演「オーラル・リハビリテイション」は、この後長く、咬合に関する言説に影響を与え続けるので、ここで簡単にふれておく。ここでの議論は、一年後の著書では否定されるのであるが、その後再び復活し、歯科医療分野に大きな影響を与えると同時に、「咬合」と口にするだけで、あたかも呪いにかけられたように歯科医師を呪縛し続けるのである。

まず用語の定義だが、「顆頭が関節窩の最後上方に押さえつけられた状態」の下顎位を中心位(CR)と呼び、上下歯列が嵌合して安定した下顎位を中心咬合位(CO)と呼ぶと定義を確認するところまでは一般論である。

「さて、いま安静位と中心咬合位と中心位という三つの異なった下顎の位置のあることを先生がたにお話しいたしました。おそらく先生がたは、私の講演にたいへん退屈され、あるいは失望されたかもしれません。・・・しかしながら、いままでの話は、私がこれからお話ししたいことのまくらにすぎない・・・。」たしかに、ここからが斬新なのだ。

このCOとCRはほとんどの人で一致しない。ここで一致しないでよいとする学派、反対に一致させるべきだとする学派、広い中心位を主張する学派の三つに分けられると、大胆に断じる。COとCRは下顎の位置であるが、同時に臨床医にとっては患者に咬合紙をかませて歯に印記された点が目に浮かぶ。COが赤、CRが青の点であるとすれば、赤と青の点が別々でよいとするグループ、赤と青の点がぴったり重なるべきであるとするグループ、青がやや広がりをもって赤の点に重なればよいとするグループに分かれるわけだ。

二つ目のCOとCRを一致させるべきだとするのがナソロジー学派で、一致していないものは、患者の自覚症状の有無にかかわらず病的な咬合である。保母自身の調査では、日本人の約九八%が病的な状態にあるという。極めて単純で簡明である。こうなるとオーラルリハビリテーションは、患者のかかえる問題を解決する手段ではなく、もうそれそのものが目的になる。

「このナソロジー学派の人たちにいわせますと、この中心位咬合の咬合状態を追求することこそ歯科の究極の目的・・・と述べているわけです。」

こう書くのは、だれであろう保母本人である。保母は、あくまでも局外に立っているかのように、オーラルリハビリテーションを紹介する。

保母は「理想的な咬合の第一条件」(CR=CO)を前提にして、さらに補綴的な理想咬合像を論じた。

ここでも学者たちを三つに分ける。右でかむときに左の上下の歯が接触するバランスド・オクルージョン、前歯と奥歯が互いに保護しあうミューチュアリー・プロテクティッド・オクルージョン、右のはでかむときに中切歯から最後臼歯まで同時に均等に接触するグループファンクションの三つである。二つ目が、現代のカリフォルニアのナソロジー学派の主張である。ナソロジー以外の学者にとっては『理想的な咬合」の前提がまるで違うのだが、ここではその問題にはふれない。

保母は、さらにオーラルリハビリテーションの術式によって、学者を四種類に分ける。精密な咬合器を必要とするグループ(カリフォルニア・ナソロジー)、犬歯の機能を正しく再現すればよいとするグループ、半調節性咬合器で広いセントリックを与えるグループ、咬合器以外のインスツルメントを使うグループの四つである。

「StuartとStallardは、補綴学的な理想咬合像としてミューチュアリー・プロテクティッド・オクルージョンを支持し、McColluumとGrangerはバランスドオクルージョンを支持しています。同じように精密な術式を推奨する学派でも、研究者によってこのような、相異のあることを注目していただきたい」

おそらく、この辺になるとほとんどの聴衆は理解困難だったに違いない。そこに聴衆がだれも見たことのない複雑な装置を次々にスライドで示す。スチュアート・インスツルメントとグレンジャー(E,R.Granger)のナソレーターとの違い、パントグラフの記録、トーマス(P.K.Thomas)のカスプコーンテクニック、パンキー・マン・インスツルメント、そしてフェイスボウであると同時に咬合器でもあるトランソグラフの写真をみせて、「日本で買えば・・・200万近い値段になる」と聴衆を驚かす。

そして「私のような浅学非才の人間が、こうした権威のある学説をどれがよくて、どれが悪いという具合に簡単にいいきるのはどうかと思います。しかし・・・」と断っておきながら、なかなか辛辣なコメントを披露したのであった。パンキーとマンのテクニックは「かびのはえたモンソンの円錐説が基盤になっている」から解せない。スカイラーのテクニックは「今一歩精度に欠ける」。マッカラムとグレンジャーは、「バランスド・オクルージョン一点張りの感があり」、スチュアートの方法はわが国にはほとんど紹介されていないが、手間と時間がかかってハイチャージになる、云々。

この保母の「オーラル・リハビリテイション」の講演は、新しいもの好きの開業医の間では大好評になったが、石原教室では、意図的に避けられた。保母の解説は、わかりやすさを求めただろうが、言葉の説明であって、原理の説明ではない。石原の研究は、臨床的な目的、言い換えると個別の患者に適した答えを得るための基礎研究であって、あたかも煉瓦を丁寧に積んでひとつの構造物をつくるように、一つひとつ実証を積み重ねて学説を構築してきた。いかに遅々たる歩みであっても、実証性はないがしろにしたものであった。要領よく受けを狙って説明を変える。それがまたあまりにも明快なので、自分たちの慎重さが踏みにじられ、辱められたような印象を受けた。

ある意味で軽薄に語ることを自分の役回りだと開き直っていたからだろう、山田が保母の「オーラル・リハビリテイション」について口を開いた。

「要するに彼の解説は、世界をナソロジーかそれ以外のものに分けるんです。CRと一致しないCOを全部つくり変えるなんて、何の根拠もありませんよ。だって、CRはただ再現性がある最後方の参照位でしょう。」

ひとりで怒ってみせている山田に、言葉を返したのはやはり山下だった。

「山田先生が言うとおりだと思いますよ。」

この年の十一月に石原は「種々相」で、そこのところをかんで含めるように丁寧に書くが、それを読むまでもなく、山田の言うことが教室内の常識だった。

「山田先生は『プロクルステスのベッド』という話を知っていますか。」

山下はこんなふうに話を高いところにもっていくのがうまい。この教室では、こうした教養が好まれたが、山田のもっとも嫌う展開だ。おそらくギリシャ神話だろうが、知るはずもない。谷下田は曖昧に頷いた。

「プロクルステスは隠れ家をもっていて、通りがかった人に巧みに声をかけて、隠れ家に連れて行き、寝台に寝かせるんです。もし相手の体が寝台からはみ出したら、その脚を切断する。逆に寝台の長さに足りなかったら、サイズが合うまで、体を引き伸ばす拷問にかける。だれひとり拷問を免れる者はいません。実は、プロクルステスは相手の背丈を目測して、寝台を伸ばしたり縮めたりしていたんです。このプロクルステスの恐怖の医療を終わらせたのは、テセウスです。テセウスはからだが小さく、彼は自分の小さなベッドに合うように、プロクルステスの頭と脚を切り落としてしまったというわけです。」

山下の話が、「理想的な健康体」というものについての寓話であることは、山田にもわかった。

 

長々と保母の「オーラル・リハビリテイション」を紹介したが、「種々相」とほぼ同じ時期に発表された咬合に関する総説でありながら、その主張、内容、論理はまったく対照的だった。

翌年一月に発表された「種々相2」の主題は、下顎運動であるが、ここでは顎関節の下顎運動に対する意義、とくに「下顎位」の場合と同様に、解剖学に戻って運動との関係が論じられた。

河野は、断層エックス線写真によってヒンジアキシスの顆頭上の位置を特定したうえで、次に顆頭上の点の運動軌跡を測定していた。ナソロジーの蝶番運動軸理論の意義は、回転中心(中心位)を求め得ることと、「この軸によって下顎全体としての運動を回転rotationと移動translationに分離し得ると考えることである。ただし、後者に関する実証は従来まったく行われていなかった。」元来、ナソロジーの理論には実証的根拠は乏しい。

「Gnathologyの特色は理論だった研究よりも臨床実践であって、このために複雑な顔弓すなわちパントグラフと咬合器が開発された。」

蝶番軸の考え方は古くからあったものだが、フェイスボウ(ヒンジロケーター)を使って回転軸を求めるテクニックを完成したことで、蝶番軸を目に見えるものにした。ここにマッカラムの独創があった。これで模型を咬合器に付着する規準が決まった。その次は、咬合器上で模型を動かすのだが、動かして開閉する操作をするためには、移動と回転を分けることができなければならない。ところが、蝶番運動は移動すると回転軸ではなくなる。

河野が指示されたのは、回転と移動を分離できる顆頭上の特別な点を求めることだった。このために暗室の中で連続して発光するストロボを使う石原教室伝統の手法で、健常者の顆頭の動きを即敵するのである。ただし、この研究では、顆頭の中のどの点がどのように動くかに注目する。一人ひとりの被験者の顆頭付近の一二〇の点を測定する気の遠くなるような研究である。二〇人を越える被験者の顆頭の点を測定することになったが、最初の被験者は院生の中尾だった。開閉口しても幅をもたない軌跡(矢状面)を描く特定点があれば移動する軸と考えられる。石原は、辛抱強く正確に測定し続けることを河野に求めていた。佐久間の研究で、もう数年前から予測はついていた。ホームランはないかもしれないが、ヒット程度の結果が出ることはわかっていた。

ちょうど札幌の口腔外科学会で石原が特別講演をした八月のことだった。河野は、「日中に測定した切歯点部の下顎運動ディジタルデータを読み取り、その夜にセットし一昼夜計算機に計算させて、翌早朝から算出した下顎頭点データをグラフ用紙に一点ずつプロットして、運動径路を求めていく」という毎日を繰り返していた。

「前夜の算出データをプロットしていくうちに、全ての下顎運動を回転と移動とに分離できるだろうを考えられる特異点が現れてきた。早速教授室の石原の机上全面にプロットしたグラフ用紙を広げて説明を始めると、クーラーのまだ入っていなかった部屋の中でシャツ1枚の石原が驚喜し、河野は抱きつかれる。情熱家の彼はそれほどこの回転中心を待ち望んでいたのだ・・・」

ホームランが出た。

実証ということの大切さを理解しない者は、回転しながら移動する軸があると言われれば、それを信じる。そしてそれを教える。教えられた者が、その軸を使わずに軸のおしゃべりをするだけなら困らない。しかし、実際に回転中心を求めて、その基準で模型を咬合器に付けて、模型を動かして調整しようとした途端、はたと困る。実際、下顎を後方に押しつけて開閉口させて回転中心を求めても、測定の度に、位置がずれて蝶番運動軸は容易には見つからない。カリニ蝶番運動をする顆頭点を決めても、大きく開閉口させると、移動したときにはそれは回転軸ではなくなる。

河野は、最終蝶番運動軸とは別のところに、回転しながら移動する特定点を見つけたのである。この実証によって、ナソロジー学派の最終蝶番運動軸を教義とする理論は明確に否定された。反対に、ここで見つけた特定点が表す運動軸を使えば、咬合器上で、模型を動かしながら開閉口することによって下顎の動きをシュミレーションできる。ナソロジー学派が語るように、歯の位置と顆頭の位置が一対一で対応する機械仕掛けではないが、顎関節の運動の自由度が、かなり狭いという事実が明らかになった。

この河野の発見が論文になるのはもう少しあとのことだが、下顎位については、咬頭嵌合時の顆頭位について大石が見出した「顆頭安定位」、そしてのちに全運動軸と名付けられることになる河野の「顆頭上の特定点」という二つの未発表の事実を「種々相」において紹介したのである。

「下顎位や下顎運動に比べると咬合そのものについては研究業績がきわめて少なく、具体的な拠りどころとなる知見がはなはだしく不足し整理されていない・・・。」

その意味では、「咬合と接触関係について」述べた「種々相3」が、重要である。ここで、石原は、「それぞれの個体に対する正常な咬合な何か」という問いを立てる。

「いずれにせよfull balance やcuspid protectionを機械的に考えることなく症例に応じた適応を考え、真に合理的な配分を各個体についてはかるために、いかにすべきかが今後の問題であろう」

 

「種々相」の話はこれで終わる。歯科を専門としない人には、難しく退屈な話しになってsまったことをお詫びしなければならない。

しかし、昭和五〇年代以降、専門家の間で咬合に関する議論が盛んになり、その議論はいまもって答えがないように思われているのだが、実は混乱を極めたその議論が始まる前に、着実に布石が打たれていた。石原の一連の咬合の研究は、咬合学というものを実証的根拠から組み立てようとするものであった。そうすれば、その後の議論のほとんどは雲のように空虚なものとして消えてしまう。「種々相」は、そのことを教えてくれる。

歯科に限らないが、医学系の学問では、この時代でも、正しいか正しくないかの根拠は、まだ信じるか否かの域を大きく出ていなかった。その時代に、石原は咬合学に着実に実証研究を持ち込んだのである。

石原は、その研究生活の初期に咀嚼能率の測定に熱心に取り組んだが、その後、それを臨床評価に活かす研究は、一本義歯の評価くらいで、大きな展開を見ることがなかった。

歯科には、これも特殊な学問で、歯科理工学というしか独特の有機、無機、金属、医療機器を研究する分野がある。この有機化学の権威者、増原英一(一九五五~八六年東京医科歯科大学教授、一九六〇~八六年退官まで同大学歯科材料研究所所長・現医用器材研究所)が石原に「結局補綴学は、咀しゃく機能を中心とした学問」になるのかを尋ねたことがある。歯科理工と臨床の架け橋の役割を意図した創刊間もない学術誌のDE(The Journal of Dental Engineering)の冒頭対談である。

「咀しゃく・・・というか、総合的な口腔の機能ですね。一方、口腔における疾患―歯槽膿漏とか顎関節に向かい合った補綴が、本来のものと思います」石原がこう応えている。補綴学という学問は、早晩、口腔機能学になって消えてしまわなければならない。補綴臨床医の仕事は、当時は専ら補綴物製作であったが、遠くない将来、印象を採って設計をする、それ以降は歯科技工士の仕事になるという展望で二人の意見は一致している。しかし、補綴学の時計の針は五〇年近く止まっており、いまもって機能評価は、補綴学の中心的主題になっていない。

石原の周りには、確かに上昇気流が吹いていた。

「種々相3」の刊行後しばらくして、河野の全運動軸n論文が学会誌に掲載された。その号には、河野の論文二編のほか、教室の川口豊造(一九七五から九八年愛知学院大学教授)の一編、井上昌幸、川口、中尾勝彦、鈴木康夫の共著一編が掲載されていた。教室にはドサッと学会誌の封筒の束が露土句のだが、その日、山田が木を利かして安いシャンパンを買いに走った。以心伝心、山下も気を利かして、教授室に電話をかけた。息せき切って帰ってくると、山田はお世辞にもきれいとは「いえない茶碗を集めて、シャンパンの代わりに買ってきた白ワインを注いだ。声をかけるともなく、茶碗の周りに人が集まったが、そこへ石原が降りてきた。だれともなく、石原に乾杯の音頭を勧めると、狭い地下の研究室は、ひととき和やかな空気に満たされる。

しばらくしてだれかが、「オクルージョンの研究で、ノーベル賞が取れませんかね。」と、おそらくちょっとした冗談のつもりで軽口をたたいたが、これがいけなかった。石原は、こういう冗談を許容できなのだ。

「何を馬鹿なことを言っているんだ。何のための研究だと思っているんだ」と真顔で叱りつけた。もうお祝いのパーティーは吹っ飛んでしまった。研究は間違いのない臨床のため、臨床は個々の患者のためだ。何も、楽しい席の、軽い冗談に目くじらを立てることもないじゃないかと思うのだが、これはどうにもならない。臨床研究の目的は、基礎科学の研究とは違う。その当たり前のことをもっとも近くにいる教室員が理解していないと感じたとき、石原は笑ってすますことはできないのだった。

山田は、半年程前、第二大臼歯のメタルコアの形成をしよとして、なかなか根管口が見つからず苦労していたことがある。クラウンをかぶせる前に、歯の土台を鋳造コアでつくるのだが、コアに加わる力ときれいに分散させるため、三本の歯根の歯髄がおさまっている根管を拡大して利用する。東京タワーの脚を三本の歯根に突っ込む要領で、壊れた土台を金属で作り直すのだ。このとき根管口から根管を拡大して形成するのが基本なのだが、どういうわけか根管口が完全に塞がっているらしく、いくら探しても見つからない。医局に戻って苦労話をきていたところ、先輩が「馬鹿だな、そんなの適当でいいんだよ」と、若い山田をからかった。たしかにだれにも見えない部分の処置である。石原は、そのときたまたま医局にいて、話を聞きとがめたらいい。突然、激昂し、その先輩も山田も、こっぴどく叱られた。そのことを山田は思い出していた。石原には、冗談でも越えてはいけない一線がある。臨床をないがしろにするなら、臨床をやめろと言ったに違いない。石原は、自分に対しても、絶対に越えてはならない一線というものをもっていた。

その手を抜くことを嫌う癖は、臨床手技だけでなく研究でも同じだった。中尾は、このころ、石原が統計の新しい手法について、自分が不勉強だったと残念がっていたのを覚えている。当然、知っていなえればならなかったと、ひどく悔しがってはいたが、その新しい手法というのが何を指すのか、中尾には考えが及ばなかった。統計ではなく、試験方法の革新だが、臨床試験で二重盲検法が使われはじめたのは、昭和四二、三年ごろである。薬の有効性などを評価する臨床試験で、二重盲検法が初めて日本で使われたのは昭和三二年だったが、それが研究現場で使われるようになったのはようやく昭和四〇年代である。二重盲検法とは、薬と偽薬あるいは二種の薬を比較するとき、検査をする者からも検査を受ける者からも識別できないようにして検定する方法で、検査者の意識的作為だけでなく無意識の偏りを取り除くことができる。補綴学の機能評価、例えばある条件の咀嚼能率を客観的に評価しようとすれば、二重盲検法を採用することが望ましい。

薬の評価をする研究で二重盲検法による臨床報告が強く求められるようになっていたが、昭和四〇年ごろの新薬の臨床試験では、「指導できる医師はもちろん、やったことのある『医師もいない」というのが実状だった。歯科の臨床試験に二重盲検法が導入されるのは、さらにもう少し後のことで、現在では当たり前のようになった無作為比較試験が理解されるようになるのは、その後三〇年を待たなければならない。

この昭和四三年、東京医科歯科大学では、インターン制度に代わって始まった臨床研修医制(学生側は登録医制度と呼んだ)に反発する医学部学生が、付属病院の封鎖、授業、国家試験ボイコットなど、全国の医学部でも際だって激しい抵抗を示していた。