1940年9月に締結された「日独伊三国同盟」は、日本の対米開戦を不可避にし、日本の運命を決定づけることとなった歴史的な一頁だ。しかしこの条約は、ヒトラーが日本と手を結ぶため、特使としてハインリヒ・スターマーを日本に派遣後、わずか20日でベルリンで調印されるという、非常に短いスパンで締結されたものだったという。なぜ、このような事態が生まれたのか。ジャーナリスト・渡辺延志氏の2021年1月号の記事「新資料発見 日独伊『三国同盟』八十年目の真実」から一部を紹介します。

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条約案の骨子を書いた大島
「『日本は何を考えているか分からない。どんな風か見てきてくれ』とリッベントロップ外相に命じられスターマーはやってきた。条約を結びに来たのではなく成案もなかった。
 東京に着くと最初に私の家にやってきたので、松岡外相に電話をして会うようにした。
「米国の参戦はない」と思い込んでいた松岡洋右外相

『スターマーが来る』という電報が届いた段階で私は松岡に呼ばれていた。松岡は同盟をやるつもりでおったから、今までのいきさつや、やるとしたらどんな形にしたらいいかなどと尋ねた。

私が当時考えていたのは、ドイツにイギリスと一騎打ちをやらせたいということだった。ドイツがイギリスに勝つことは日本にとっても有利だ。それにはアメリカの参戦を阻止して、独英の一騎打ちをやらせたい。

すると『それなら書いてくれ』と松岡に求められ条約案の骨子を書いた。条約にはそのまま私の文言が使われていた」(ナチス政権下の駐独大使として日本の政治や軍事に大きな影響を及ぼした陸軍中将・大島浩の発言)

スターマー派遣のそもそもの目的は、日本の反独感情を見極めることだった。ところが松岡外相と会うなり、前年には結論の出なかった懸案がきれいに解決したとして、たちまち軍事同盟が成立したのだ。しかも、条約案の骨子を書いた大島によれば、英独の一騎打ちをやらせるために、「アメリカの参戦を阻止すること」が三国同盟の狙いだった。だが、実際には、“対米開戦”を不可避にした“張本人”こそ、この三国同盟である。最優先の目的を果たせないほど杜撰な条約だったのだ。

“交渉”の過程も、その名に値しないほど杜撰なものであった。

交渉の当事者は、ドイツが特使のスターマーと駐日大使オイゲン・オット将軍の2人だけ。日本は外相の松岡ただ一人。場所は終始、東京・千駄ヶ谷の松岡の私邸で、通訳も交渉記録もない。