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田中角栄を刺し殺した国内勢力・中曽根康弘


「「787」 角栄失脚・最後の真実 (2) 田中角栄を刺し殺した国内勢力・中曽根康弘とそれを支援した米巨大財閥・ロックフェラー家の真相が明らかになった。角栄は「新しい国際際秩序」にとって危険すぎる存在だった。だから皆で刺し殺したのだ。 2006.8.30

アルルの男・ヒロシ(中田安彦)
2006年8月5日記

前回の「角栄失脚・最後の真実(1)」で、私は田中角栄の「資源外交」とは「アメリカ抜きの東アジア共同体構想」であったことを明らかにした。同時に、「ロッキード事件アメリカ陰謀説」に異論を唱える、ジャーナリストの徳本栄一郎氏の著作『角栄失脚・歪められた真実』(光文社刊)は、実質的に何の論拠にもなり得ないことを証明した。

この「第2回」では、ロッキード事件の国内における進展を検証し、「田中角栄を叩きつぶしたロッキード事件」の国内における黒幕が、後に首相になった中曽根康弘氏であったことを論じようと思う。と同時に、アメリカ国内で、ロッキード事件が発覚する元になった「米上院調査委員会(チャーチ委員会)」の実態についても検証していく。チャーチ委員会には、民主党のリベラル派で本当の正義の味方であった フランク・チャーチ委員の他に、ロックフェラー家と縁戚関係にあった チャールズ・パーシー上院議員が参加している。今年になって、「読売新聞」の特集が、このパーシー委員のロッキード事件における役割について注目すべき記事を書いているので、それを紹介する。

結論として私は

「ロッキード事件(とウォーターゲート事件)は、アメリカの東部エスタブリッシュメントの最大実力者であったデヴィッド・ロックフェラーが、地域資本(中西部財閥)からアメリカ政治の主導権を再奪取するという目的のもと、リベラル派の正義の味方を巻き込んで盛り上げた大がかりな政治ショーであった。ロックフェラーは、オランダのベルンハルト皇太子など、海外における自分と同格のライバルを政治的スキャンダルに追い込もうともくろみ、自分の確立したトライラテラリズム(三極主義)によってその後の世界政治の管理を行おうという野望を持っていた。日本においても、中曽根康弘氏という自らのエージェントを後の首相候補として“温存する”形でロッキード事件の追及を盛り上げていった。角栄の外交政策が「アメリカの虎の尾を踏んだ」と行き過ぎを危険視した日本の政治家・官僚・マスコミ関係者たちは暗黙のうちに「角栄殺し」に加担した。だから、彼らは角栄殺しの責任を他者に押しつけたのである。角栄が失脚したことが後の日本にとって良かったのか、悪かったのかという評価の問題は抜きにして、これが歴史の真実である」

と主張する。

<中曽根康弘、昭和28年の夏>

中曽根康弘氏といえば、田中角栄、吉田茂と並び、戦後日本を代表とする総理大臣である。彼は群馬県高崎市に生まれた後、1941年に東京帝国大学に入学、戦時中は内務省に入った後に海軍主計少佐の任にあった。戦後は、1947年の総選挙で初当選、1959年には第2次岸内閣の大臣として入閣している。彼は、早くから鳩山一郎・三木武吉・芦田均らに従い、反吉田・憲法改正を主張した。1953年には改憲して首相公選制にすべきと発表。1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動した。彼の政治上の師は河野一郎であった。彼は河野派に属していたが、党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いる。

続いて、第2次佐藤栄作内閣の防衛庁長官、第3次内閣で運輸大臣を歴任。第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木武夫内閣時代、自由民主党の幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。いわゆる「三木おろし」の際には三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。

1976年(昭和51年)には、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。大平内閣では反主流派に位置したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず早くから本会議での造反に反対するなど三木・福田とは温度差があり、鈴木内閣では主流派に転身する。鈴木善幸内閣では行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ鈴木首相の信頼を得る。そして、1982年に総理大臣に就任した。総理時代には、良好な日米関係を「ロン(レーガン大統領=ヤス(中曽根)関係)のもとに推進、官業の民営化などのいわゆる「行政改革」を推し進めるとともに、「日本はアメリカの不沈空母だ」と宣言し、日米同盟強化を推進した。

1987年に売上税導入がきっかけで退陣、田中角栄を裏切って新派閥・経世会を旗揚げした大蔵大臣の竹下登氏を後継首相に指名した。竹下首相の後は、宇野宗佑が後継問題がこじれたことから短期間のつなぎで総理大臣を務めた後、不可解なセックススキャンダルが原因で失脚し、続いて親米リベラル派の宮澤喜一氏が首相となった。

(ウィキペディアを参考にした)

ここで注目したいのは、中曽根康弘氏-竹下登氏(プラザ合意の主役)-宮澤喜一氏と「確固とした親米派」が首相に立て続けに就任しているという点である。田中角栄が失脚した後は、対米絶対協調が日本の国是になったようである。

しかし、中曽根はもともと憲法改正を強行に主張したタカ派であった。彼はマッカーサーに対して、その占領統治に対して直接異論を唱える建白書を提出したりもしていた。アメリカにしてみれば、必ずしも扱いやすい人材ではなかったのではないか。なぜ、中曽根首相は、「小泉純一郎と同様に対米関係を改善させた政治家」と評価されるようになったのだろうか。中曽根康弘氏が“豹変した“のはいつなのだろうか。

中曽根康弘氏は自伝を何冊か出している。『政治と人生』(講談社・1992年)、『天地友情』(文藝春秋社・1996年)、『自省録』(新潮社・2004年)が有名であるが、彼自身の経歴を知るためには最初の『政治と人生』を読まなければならない。この本は中曽根氏が日経新聞の「私の履歴書」を連載したときの原稿が下本になっているともいわれる。この本以外では、中曽根氏はあまり赤裸々に自分の事を語っていない。最後の「自省録」では都合の悪い部分には殆ど触れずじまいである。

この『政治と人生』の132-135ページと、183-188ページで中曽根氏は外遊物語を書いている。まずは、「日本防衛論を説く」と書かれた部分から引用する。

(引用開始)

日本防衛論を説く

昭和二十五年(一九五〇年)六月、道徳再武装(MRA)世界大会に出席する日本代表団の一員としてフィリピン航空のチャーター機でスイスのコーに着いた.戦後初めての外国である。道徳再武装運動はアメリカのブックマン博士が唱えたもので、イデオロギーや宗教色を排し、「絶対の正直」「絶対の純潔」「絶対の無私」の道徳律を実践して、世界的に手を結ぼうという人類友愛の平和運動であった。

団長は石坂泰三氏、日本では相馬雪香(そうまゆきか)女史が中心になって各界に呼びかけていた。財界からは弘瀬現(ひろせげん)、湯浅佑一、大原総一郎氏ら、政界からは北村徳太郎、川島金次氏ら、ジャーナリストとしては栗山長次郎氏らが参加した。占領下、外国になかなか出ることはでぎない。なんとか外国を見たいと念願していた私は、勧誘にあって待ってましたとばかりに一員に加えてもらった。現地で穫MRAの運動を推進している人々の信念と、徹底的に他人に奉仕する精神に感銘し
た。しかし、私は”絶対の”という言葉にこだわってしまい、政治家ではとてもこれを貫き通すことはできないし、できると言えばそれは人を欺くことになると思って、この運動に飛びこんでいくことはできなかった。

六月二十六日、コーの床屋で頭を刈っていたら、隣にいたドイツ人が朝鮮戦争の勃発を教えてくれた。それからは、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカとまわったが、どこでもニュースを注意して聞いた。アメリカ軍と韓国軍は釜山方面に追い落とされていき、日本は大丈夫だろうかと心配しながらの旅となった。

アメリカに渡ったとき、私はたまたま国務省日本課に勤めるロバート・フェアリー氏の家に泊めてもらった。大変な歓待を受けたが、朝食は夫婦が交代でつくると聞いて驚いた。フェアリー氏は戦前、グルー駐日大使の秘書をしており、戦後もダレス氏が二十六年(一九五一年)一月に来日した際、秘書として東京へ来た。フェアリー氏の特別なはからいで、彼を通じてダレス氏に対日講和条約に関する建白書を提出することができた。

ダレス氏への建白書はマッカーサー元帥に出したものの要点を書き、集団安全保障下の日米同盟条約の締結を唱え、特に「講和条約で日本の原子力平和利用研究と民間航空機製造保有を禁止しないでほしい」と要望した。後にダレス氏は、「この二点を特別の関心を持って読んだ」と言っていた。

幸いにもワシントンでは、バークレー副大統領、コナリー上院外交委員長、タフト上院議員らと会談して、対日講和問題について意見交換することができた。
日本に帰って見ると、マッカ!サー元帥の指令により警察予備隊が設置され、内外の情勢は激変しようとしていた。私は外国旅行中から、日本は独立後相応の防衛軍を持ち、日米同盟を締結してアメリカの協力の下に自分で日本を守らなければならないと感じていた。

『政治と人生』(132-134ページ)
(引用終わり)

中曽根氏は、占領軍の諒解の元に行われた初めての外遊でスイスと米国を訪問していることがこれで分かる。MRA(道徳再武装運動)というのは、日本のPHP運動に似たような運動で、労働現場におけるイデオロギー教育の一種らしい。当時は使用者側にとっては左翼的な組合活動の存在は大変な脅威であったということである。ちなみに、アメリカ人ジャーナリスト、ジョン・ロバーツによると、この日本におけるMRA本部(東京・麻布)の建物がそのままロックフェラーのポカティコ会談に参加した山本正氏が理事長を務める、「日本国際交流センター」(JCIE)の初代本部所在地になったということである。ロバーツは、中曽根氏を含めMRA会員には占領中から自由な海外旅行が認められていた、と書いている。中曽根が科技庁長官として入閣した時の総理大臣だった岸信介もMRAの会員であったという。

一九五〇年の訪米では、中曽根氏はアメリカの国務省・グルー駐日大使系(モルガン系)の人物の家に宿泊し、この人物を通じてマッカーサー建白書と同様の内容の書簡をダレス国務長官に提出したと書かれている。ダレスは、ロックフェラー家のお抱え弁護士の一つである、サリヴァン&クロムウェルに所属していたことがあり、事実上ロックフェラー・グループの一員である。吉田茂首相とダレス国務長官は日本の再軍備問題を巡って“対立”していたが、中曽根氏はダレスの関心を引く存在だったようである。

しかし、中曽根氏の外遊は三年後にもあった。中曽根氏は同じ本の別の箇所で一九五三年(昭和二八年)に二ヶ月間のハーヴァード大学国際セミナーに参加したことを書いている。その中で中曽根氏は、長らく続く ヘンリー・キッシンジャー氏との出会いを述懐している。その部分を引用する。

(引用開始)

キッシンジャー博士との出会い

昭和二十八年(一九五三年)七月、私はハーバード大学夏期国際問題セミナーに参加した。参加に際しては、日本ハーバード委員会の英語力の試験を受けなけれぽならなかった。私にこれを勧めてくれたのは、マッカーサー司令部の対敵諜報部隊(CIC)に所属し、よく国会に情報収集に来ていたコールトン氏である。コールトン氏はハーバード大学出身の清潔な正義感の強い人で、吉田首相や自由党に好意を持っていなかった。その点でも私と親しくなっていたのである。

しかし、私の英語力はおぼつかない。猛勉強を開始した。一月から始まる通常国会の間は単語の暗記に明け暮れ、受験生さながらの毎日であった。代議士会の部屋の片隅でも単語力ードをのぞき、英文法の参考書を開いた。試験は英語で時事問題が出て、それに対する所見を英文で解答するものであった。私は三つの見当をつけていた。一つは新しく出現したアイゼンハワー政権の極東政策、二つ目は朝鮮戦争の休戦後の世界経済、三つ目はアメリカの大統領制とイギリスの議院内閣制の比較と民主主義の基本に関する問題である。語学はだめだから、内容で勝負しようと思っていた。

試験は二月中旬、日本ハーバード委員会の小松隆氏を中心に、日米同数の委員の立会いの下で行なわれた。出た問題は、アメリカの大統領制に関するものであった。解答時問は四十分で、恐らく普通は三~五枚の答案を書くのだと思うが、私は七枚半も書ぎなぐり、見直す余裕もなく提出した。ヤマもまずまず当たり、幸いに私は合格した。一緒に受かったのは、NHK解説委員の藤瀬五郎君、国際弁護士の海津芳郎君、右派社会党政策委員会の藤巻新平君、東京都庁で苦情相談の係長をやっていた中野つや女史であった。

セミナーには二十二ヵ国から四十五人の代表が集まった。三つの委員会に分かれて、午前中は討論し、午後はハーバード大学教授やアメリカの有識者の講演があり、さらには各国代表の公開演説などが行なわれる。私は政治委員会に属し、国際問題、地域問題、民主主義の基本、少数民族、労働団体、圧力団体、宗教問題などを論じた。

このとき、われわれの面倒を見る責任者になったのが、エリオット政治学部長の下で助教授をしていたキッシンジャー博士であった。ここから私と彼の四十年以上に及ぶ交流が始まるのである。先年、ハワイでキッシンジャー博士と「激動する世界」をテーマに集中討議をしたが、私は「セミナーのとき、あなたの英語は三割くらいしか理解できなかった」と白状したら、彼も「あの頃はドイツ詑りが強くて、そのうえモグモグと話すので分からないという苦情を聞いた」とニヤリとした。

私はセミナー参加に先立って、「アジア地域を代表して公開演説をしてほしい」と要請されていた。そこで戦後日本の状況を紹介し、第一次大戦後のワイマール憲法下のドイツの轍を踏まないように、政治の執行権を安定させる必要性を訴え、”首相公選論”を説く原稿をつくった。これを英文に直し、当時、立教大学にいた、アメリカ人の老婦人に発音を直してもらった。その日本語の原稿を、ご覧いただこう。

「現代の日本はポツダム・サンフランシスコ体制の下にある。ポツダム体制とは、それにより日本が降服したポツダム宣言下の日本であり、サンフランシスコ体制とは、昭和二十六年(一九五一年)に調印された平和条約と安保条約下の日本である。これらの体制が設定されたときは、みなそのとぎの必要を満たして構築された。しかし、共産主義によってアメリカが何回か裏切られた今日において状況が変わった。今や新しい主権国家日本誕生のとぎは熟した。日本はポツダム・サンフランシスコ体制から前進し、新しい地平線に向かって一歩踏み出すときである。

マッカーサー元帥によって与えられた現在の憲法には、多くの長所がある。そして、平和主義、民主主義、国際主義と国民主義の調和、人権の尊重等は正に保持されなけれぽならない。しかし、問題は内容だけではない。民主主義の重要な要素は、その制定の手続きにある。

この憲法は占領軍によって英語で書き上げられ、時の日本国民によって速やかなる外国軍隊からの独立を獲得したいという熱望によって、国民によって受容されたものである。もし、リンカーンの言葉である「人民の人民による人民のための政府」という言葉が真理ならば、日本国憲法は日本国民自らの自由意思でつくられなけれぽならない。もし、このような憲法がつくられるならぽ、アメリカ人は真の日本における民主主義の誕生として満足し、喜ぶであろう。

現泊、世界各国において要訪されていることは政治的安定である。そして、現在の日本のような深刻な困難に悩む国にあっては、議院内閣制(議会が総理大臣を選ぶ制度)によっては政治的安定は確保できない。また、政府の機能は、最近著しく日本においては拡大された。政府は託児所からDDT散布の面倒まで見なければならなくなった。特に、社会の弱者に光を当てるためには、ことさらである。

現在の日本においては、総選挙は頻発し、政党は党略に狂奔し、その結果、伝統的な官僚主義が横行し、政治は彼らの実権の中にある。それらの弱点を克服するため、私は首相公選を唱導する。そして、三権分立を明確にしなければならない。その結果は二大政党制を誘導し、国家を安全にし、民主主義を強固にするであろう。一人の総理を国民投票で選べば、次第に二つの大政党に小政党は統合されるであろう。

日本が、ヒットラーを生んだドイツのワイマール共和国の過失、すなわち政治の混乱と不安定を招来しないためには、首相公選が必要である。日本の長い問の封建制度の伝統や過剰人口や生存競争の苛烈さ、領土の狭小さ等を考えると、国民は焦燥のあまり、将来、独裁政治に走る土壌がないとはいえない。

ヒットラーはワイマール憲法下、小党分立、政局の不安定に乗じて、議会政治の道を悪用して独裁に走った。日本がこの道を避ける方法は、首相公選である」

聴衆はかなり多く、ゆっくりと明確な発音でやったので、よく理解してもらえたようである。「分析と展望が面白い」と好評であった。アメリカ、ドイツ、インド、パキスタンなどの代表が、演壇のところまでやってきて、握手をしてくれた。

エリオット学部長は自費で私の演説のコピーをつくり、国務省や他の大学教授に送ってくれた。エリオット氏は国務省の顧問や国家安全保障本部の要員もしていて、アメリカ政界にも力を持っていた人であった。教え子たちの多くは、国務省や国防省で枢要な地位を占めていた。たとえば、日本の防衛問題で池田蔵相の相手になったロバートソン国務次官もその一人で、私はエリオット氏の紹介でロバートソン氏らにも会った。

私の講演はラジオで中継されていた。一行でニューヨークヘ旅行した際、セミナーのスポンサーの一人である老婦人の大邸宅で歓待された。私が挨拶すると、老婦人は「どこかで聞いた声だ」という。私が「ハーバードで公開演説をしました」と答えると、大きく頷き、「そうです。セクシュアル・アピール(性的魅力)のある声でした」と微笑んだ。私は満更でもなかった。このとき、初めてセクシュアル・アピールという言葉を知ったのである。

『政治と人生』(183-188ページ)
(引用終わり)

中曽根氏はこの演説を一九五三年七月三十日に行っている。締めくくりは、「太平洋をまたぐ友情の虹の橋を霧や雨で消すことがなきよう、互いに忌憚ない意見を交わしながら懸命の努力をしようではありませんか」というものであった。この演説を評価したキッシンジャーが、英文を国務省に送った。エリオット学部長もアメリカの外交政策を学ぶ学生の間では神様の様な存在で、ハーバード大学エリオット・スクールの名前にその影響力が残っている。

これらを読めば判るように、中曽根氏が国際舞台にでビューするきっかけを作ったのは、この一九五三年夏のハーヴァード大学セミナーだったのである。ここで彼はアメリカの外交政策の立案に関わり始めていたキッシンジャー氏に見初められた。中曽根氏にとってキッシンジャーは恩人中の恩人であるわけだ。

二人はその後も読売新聞を中心に外交政策を語り合う対談を何度も行っており、読売新聞社からは対談本まで出されている。この二人の仲を取り持ったのが、自分もキッシンジャーについての著作『大統領と補佐官』(日新報道)を書いている、読売新聞社主の渡辺恒雄氏だろう。

東京大学文学部を卒業して読売新聞社に入社した彼は、「週刊読売」(現読売ウイークリー)記者を経て、政治部記者となった。警察官僚出身の社長・正力松太郎の目にかなって、自民党有力政治家の大野伴睦(おおのばんぼく)の番記者になり保守政界と強い繋がりを持つようになった。ロッキード事件で小佐野賢治氏とともに「黒幕」と噂された児玉誉士夫氏と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したといわれている。大野の死後は中曽根康弘と接近して、今日でもその親密ぶりはよく知られている。

渡辺恒雄(ナベツネ)氏と中曽根氏の関係については、魚住昭氏の『渡辺恒雄・メディアと権力』に詳しいがここでは省略する。彼は読売ワシントン特派員時代に、キッシンジャー大統領補佐官を取材した関係でキッシンジャーとの知己を得ている。中曽根とナベツネがこういう風にキッシンジャーで繋がっているのである。しかも、ナベツネは、中曽根と関係が深かった(後述)、児玉誉士夫氏と関係が深く、児玉氏はロッキード事件で実名で登場してきたロッキード社の日本代理人であった。この二人は角栄失脚後に、政治権力とメディア権力の頂点に調達している。これは明らかに偶然ではない。

本章のまとめとして、「中曽根-ナベツネーキッシンジャー→ロックフェラー」のネットワークが確かに存在したことを確認して頂きたい。続いて、中曽根氏とロッキード事件の関連について見ていく。

<平野貞夫氏の『ロッキード事件 「葬られた真実」』を読む>

ここでようやく、本稿のメインである平野貞夫氏の著書の内容に入っていくことができる。

平野貞夫氏は、前尾繁三郎(宏池会・大蔵官僚出身)の秘書を勤め、最後には小沢一郎の側近として行動した人物である。その情報ネットワークから「野党の野中広務」と称されていた。二〇〇四年に政界から退いた後は、講談社を中心にして、『昭和天皇の「極秘指令」』、『公明党・創価学会の真実』など数々の政界内幕ものの本を出している人物である。

平野氏はこの八月に出した『ロッキード事件「葬られた真実」』の中で、ロッキード事件の真の首謀者は中曽根康弘氏であったと主張している。この説は彼が事件発覚当初から唱えていたもので、二〇〇四年に出した著書でも簡潔に触れられている。

それでは何故、平野氏は「中曽根康弘首謀者説」を採るに到ったのか。彼は、ロッキード事件が発覚した後のいわゆる「ロッキード国会」では、誰も事件の真相を究明しようとはせず、ただ田中角栄を逮捕しようとしただけであったと語っている。検察は検察で「誰でもいいから大物政治家の首を挙げればよかった」と行動していたというのである。

平野氏が、ロッキード事件にはまだ解明されていない闇が確かに存在するという。しかし、それは私の主張するような、「ロックフェラーの世界制覇戦略」の一環であったとは一言も語っていないが、国内において田中角栄を引きずり降ろして権力の座に就こうとした中曽根康弘の思惑が確かに存在したとはハッキリと語っている。私はこの二つはただのコインの裏表に過ぎないという考えである。

平野氏がロッキード事件の構図に疑問を抱くようになったのは以下のような理由からだった。

(引用開始)

私は当時から、ロッキード事件は単なる疑獄事件だとは考えていなかった。昔から幾度も起こってきた、財界から政界への単なる贈賄ではないと確信していたのである。
昭和二〇年(一九四五年)八月一五日、第二次世界大戦に敗戦した日本は、昭和二七年(一九五二年)のサンフランシスコ講和条約発効までの約七年間、歴史上、初めて外国によって占領された。その間も、それ以降も、日本の政治は、多かれ少なかれ、外国の、とくに外国の諜報機関の影響を受けてきた。

実際、自由民主党となった「自由党」と「日本民主党」の保守合同では、結党資金にCIAマネーが流れたのは公然の秘密となっている。また、社会党への国会対策費や総評(日本労働組合総評議会)への懐柔資金としてもCIAマネーが自民党を通じて流れ込み、中国ロビーを通じて中国共産党の金も入っていた。また、日本共産党はソ連からも大量の資金を提供されていた。

ロッキード事件で、真っ先に、児玉誉士夫の名前が登場したのは決して偶然ではない。

のちに詳しく紹介するが、児玉誉士夫はCIAのエージェントだった。それは歴史的な常識でもある。児玉誉士夫がフィクサーと呼ばれ、日本の政界に暗然たる影響力を持っていた事実こそ、日本の政界において隠されてきた「闇」であった。そしてそれが日本の政治を歪め、外交の独立性を損なってきた原因でもある。

ロッキード事件の解明は、いわば、外国の諜報機関によって政界が汚染されてきたという事実、「日本の恥部」を白日のもとにさらけ出し、光を当てるということだ。ということは、ロッキード事件は日本の政治が「真の独立」を果たす千載一遇のチャンスでもあったのである。

であるなら当然、ロッキード事件における最も重要な案件は「児玉誉士夫ルート」となるはずだ。事実、ロッキード社からエージェントたる児玉誉士夫に金が流れ、防衛庁が国産化も視野に入れていた次期対潜哨戒機として、ロッキード社のP3Cオライオンが導入された。一機七七億円以上する機体が四五機も導入され、約三五〇〇億円という巨費が使われたのだ。

これは、一民間企業の丸紅を通じて、これまた一民間企業の全日空にロッキード社のトライスターが導入されたことよりも、はるかに重要である。実際、ロッキード社にせよ、トライスターよりもP3Cの導入のほうに力を入れていたはずだ。だからこそ、児玉誉士夫に二一億円もの巨額の賄賂が渡ったのである。

しかし、現実にはどうだったのか。ロッキード国会において、本筋ともいうべき「防衛庁・児玉ライン」は、一切、究明されることはなかった。むしろ脇道でしかない「全日空ライン」ばかりが槍玉にあげられ続けた。そして、後者に連らなる者として、田中角栄前首相という大物の逮捕ですべての幕引きが行われた。しかし、日本の政界が抱えていた「闇」は白日のもとにさらされるどころか、さらなる漆黒の闇の中へと埋没していったのである。

『ロッキード事件 「葬られた真実」』(48ページ)
(引用終わり)

この平野氏の文章に全てが言い尽くされている。日本の自由民主党の結党資金はCIA(アメリカ中央情報局)の資金から出た。民社党の結成も組合潰しという文脈の中でCIA資金が流れたことは、つい最近公文書で確認されている。社会党は自民党と連携して議席数のバランスを絶妙に維持してきていたという事実も、片岡鉄哉氏の『日本永久占領』などで明らかにされてきた事実である。

そして、CIAの日本側代理人として、戦後日本政界に暗躍したうちの一人が児玉氏であり、もう一人がA級戦犯だった岸信介首相である。安倍晋三氏はこの岸氏を祖父にもち、親米派の安倍晋太郎氏を父親にもち、陸軍・長州閥の根城だった山口県萩出身の政治家であるという非常に複雑な経歴を持っている。ただ、晋三氏の原点はこの祖父・岸にあるといっていい。岸氏の親米派の“遺伝子”が濃縮還元されて純粋培養されて晋三氏に遺伝したのである。

安倍首相を誕生させようとしている勢力は、再び日本を危殆に陥れる可能性がある。同様にして薩摩・海軍の流れを汲み、現在外務大臣を務めている麻生太郎氏の政治信条も祖父・吉田茂の親英米派のエキスが濃縮還元されていると言えるかも知れない。ともに純粋培養だから過激派だということである。

ともあれ、岸・児玉という二人のフィクサーと中曽根氏は非常に関係が深い。日本におけるロッキード事件の告発はこの児玉・中曽根ラインをかすめつつも、部下の佐藤孝行だけが犠牲の羊に供されることで終わった。そして、なぜか小佐野賢治・田中角栄のラインだけが槍玉に挙がった。

民間機の選定という首相の職務権限が絡むかどうか甚だ怪しい行為と政治献金を結びつけられる形で田中角栄は、収賄容疑ではなく、外為法違反で逮捕されたのである。いずれにしても秘書の榎本氏が受け取った5億円は政治献金だったのであるから、これを処罰することは無理だったのである。

この不可解な事実は、これまで多くのジャーナリストがさりげなく指摘してきたが、本格的に追及されることはなかったのである。

平野貞夫氏は、著書の中でこの中曽根氏の巧妙なの立ち回りについて検証するとともに、三木武夫首相の田中つぶしの執念について書いている。だが、私は三木という人物は大して重要なアクターではなかったと判断している。三木としては政権基盤を担ってくれている中曽根を潰すような行動にでなかっただろう。しかし、ただそれだけの話であって、三木首相は「椎名裁定」で首相に就任しただけのリリーフ総理である。ロッキード事件を巡る国際的な政治権力の組み替えには関与はしていないと判断する。彼はひたすら国内政治の論理だけで動いていた小者であっただろう。

中曽根氏と児玉氏のつながりについて、平野氏は次のように極めてすっきりと解説している。

(引用開始)

ただ、ロッキード事件で名前が上がった児玉誉士夫は、現政権執行部の要である中曽根康弘と関係が深かった。児玉誉士夫の秘書である太刀川恒夫(たちかわ・つねお)は、がつては中曽根の書生をしていた人物で、このころも家族ぐるみの付き合いをしているのは周知の事実だった。当然、中曽根と児玉誉士夫との間にまったく接点がないということは考えられない。

実際、事件が発覚した二月五日当日、最もマスコミから疑惑の目を向けられていたのは、当の中曽根幹事長だった。その日の昼には、自ら「今の段階ではノーコメント」と談話を発表。この時点では、ロッキード社から賄賂を受け取った「日本政府高官」と疑われていた。現執行部の幹事長が深くかかわっていれば、当然、内閣は崩壊する。いくら三木政権に好意的な野党といえども、所詮は自民党の首相なのだ。現執行部が事件にかかわっているとなれば、一気に倒閣に動く。となれば、政権延命に固執する三木武夫は、案外、あっさりとこの事件を見過ごす可能性も残っていた。

平野前掲書(56ページ)
(引用終わり)

ここでロッキード事件の最初の矛先は田中角栄ではなく中曽根康弘幹事長だったことがわかる。ところが、翌二月六日、アメリカ国内で共和党のチャールズ・パーシー上院議員が、公聴会で行った質問で、今度は田中角栄の刎頸の友、小佐野賢治の名前が出てくる。この時点で、日本とアメリカのエスタブリッシュメントの連携があったかどうかは分からない。このあと、ロッキード国会では、当の児玉氏・小佐野氏を国会の証人喚問に呼ぼうとする。ここで発せられたのが小佐野氏の「記憶にございません」とい
う言葉であった。ところが、児玉氏は証人喚問を「病気」を理由に退けてしまった。

(引用開始)

一〇年ぶりの証人喚問を翌週に控え、マスコミの目は、児玉誉士夫に集まった。

ところがロッキード事件が発覚した二月五日当日、児玉はすでに雲隠れしていた。そして、のちにセスナ機が飛び込み、火災を起こす世田谷区等々力の豪邸には、留守番役の中憲太郎だけがいた。この中が、「三日から伊豆の温泉にでかけています。児玉は『保養先まで連絡されては気が休まらない』と、いつも連絡先は告げずに行きますので」と答えたまま、児玉自身は公の場から完全に姿をくらましていたのだ。

考えてみれば、ロッキード事件の端緒となるチャーチ委員会は、アメリカ時問姶四日から始まった。その前々日から、都合よく「連絡先も告げず保養にでかける」というのは、偶然にしてもできすぎである。ロッキード社から、「秘密代理人」である児玉誉士夫に対し、「公聴会で名前が出るかもしれない」との連絡があり、身を隠したと考えるのが妥当ではなかろうか。

とはいえ証人喚問が決まれば、出廷しないわけにはいかない。正当な理由もなく出頭しない場合、議院証言法第七条により一年以下の禁固または一〇万円以下の罰金という罰則が適用される。マスコミとすれば、証人喚問以前にぜひとも取材をしたいところだ。そこで、児玉の行方を必死に追いかけていたが、児玉の足取りは杳(よう)として知れなかった。

一部マスコミは、「埼玉県の久邇(くに)カントリークラブでゴルフをしていた」という目撃情報をキャッチ。さらに、ゴルフ場まで児玉誉士夫を送ったとされる運転手が、マスコミの取材後、謎の変死を遂げたという噂が流れるなど、情報は錯綜していた。

ところが、である。その児玉誉士夫の居場所があっさりと判明したのだ。一二日、児玉誉士夫の主治医という東京女子医科大学の喜多村孝一教授が、記者につかま
り、こう発言したのである。

「児玉様の症状から判断いたしまして、証人として国会に出頭することは無理です」

喜多村教授によると、すでに児玉誉士夫は自宅にて加療中で、面会謝絶なのだ、という。私はすぐさま、「なるほど、こういうことか」と納得した。自民党、とくに中曽根幹事長が、よくも児玉誉士夫の喚問に応じたものだと不思議に思っていたが、病気を理由に出頭を拒否する算段になっていたわけだ。(中略)

明けて一四日、アメリカ上院のチャーチ委員会は、日本に関する未公開資料の一部を公表する。二日前、日本政府はチャーチ委員会に、日本関連資料を提供するように要請することを決め、すでにアメリカ国内で大きく報じられていた。

しかし、ヘンリー・キッシンジャー国務長官は、この要請に対して、「ロッキード事件に関する資料は、友好国の政治的安定を乱す可能性があるため、賄賂を受け取った政府山口同官の名前の公表には反対する」と明言していた。そのキッシンジャーの発言通り、一四日に公開された資料には政府育同官を示唆するものは含まれていなかった。しかしこの中には、ロッキード社のP3C対潜哨戒機とエアバスのトライスター売り込みを巡って、丸紅や児玉誉士夫らに金の流れた決定的な証拠となる「領収書」が含まれていた。

こうして児玉誉士夫の国会喚問は、ますます国民の関心を集めることとなった。しかし、それを見越すように、陰謀は水面下で加速していたのだ-・:・。
その日の午後六時過ぎ、私は議長秘書室で親しい記者たちと懇談していた。そこに電話のベルがけたたましく鳴った。

「困ったことになった。平野君、すぐに来てくれ!」

電話口で慌てた声がする。声の主は中島隆衆議院事務局秘書課長だった。秘書課に出向くと、中島課長は、自分のデスクの上を目で示す。
そこに一通の手紙があった。宛名は「前尾繁三郎衆議院議長」の書留封書。裏書きには、児玉誉士夫夫人名の「容子」とあった。

まさか・・・・

開封してみると、児玉誉士夫の「不出頭届」とあり、例の喜多村孝一東京女子医大教授の診断書が添付されていた。
私は、その診断書を口に出して読んでみた。

「脳血栓による脳梗塞後遺症の急性悪化状態により……、これって……」

課長は、私と目が合うなり、やれやれといった感じで首を左右に振った。

「まあ、正式な書類ではあるし、医師の診断書も付いている。平野君、すまんが前尾議長に報告して、決裁をもらってきてくれ」

平野前掲書(73-77ページ)
(引用終わり)

そして、二月一六日に国会は、児玉を診察するために医師団を派遣した。その結果は「重症の意識樟害で、口もきけない状態であり、国会での証人喚問は無理でしょう」
というものだった。平野氏はその当時を振り返って次のように回想している。

(引用開始)

問違いなく児玉誉士夫は、このとき、口もきけない状態になっていた。ごれは信用していい事実なのであろう。
しかし、あまりにも都合が良すぎるのが、ひっかかった。考えてみれば、ロッキード事件発覚からこの日まで、児玉誉士夫の動きは、驚くほどにできすぎていた。

二月五日、ロッキード事件が発覚したとき、児玉誉士夫はその前々日から伊豆へ保養にでかけてのおり、連絡が取れない状態になっていたとされる。そして八日、証人喚問が決定したとき、児玉誉士夫の行方はわからなくなっていた。

そして一二日、児玉誉士夫は高脂血症の悪化によって自宅で倒れ、それを診察した主治医の喜多村孝一教授は「茶飲み話ぐらいならできる」とした。にもかかわらず、夜に行われた記者会見では、「口もきけないので国会への出頭は無理だ」と前言を覆す。

そして一四日の土曜日の夕刻、児玉側からは、喜多村の診断書を添えて、妻名義で「不出頭届」が書留で送付されてくる。これも前日の金曜ではなく、土曜の夕方ギリギリのことだった。ほとんど議長も対処できない時間を狙っていたとしか思えない……。実際、その届けを決裁すべき前尾議長は自宅に戻っており、私が自宅まで行って処理をしたのだ。また、この書類の精査は、週が明けて一六日、証人喚問の当日に行われることになった。

その一六日の夜一〇時、国会から派遣された医師団によって、児玉誉士夫は翌一七日の喚問はできないと診断された。

平野前掲書(92-94ページ)
(引用終わり)

こうして一六日の喚問で小佐野氏は「記憶にございません」との名発言を残す。中曽根氏の秘密を握っていた児玉はこうして喚問を逃れている。やがて、児玉は地検の臨床尋問を受けるのだが、この時点では、当初は事件の関与に困惑の表情を見せていた中曽根氏は、むしろ野党よりも児玉の喚問を積極的に要求し、三木首相の進めるアメリカ政府への捜査資料の公開を推し進めるようになったという。(同書125ページ)これが一九七六年三月五日周辺の中曽根の“豹変”である。まさにフランス革命の時代、様々な政敵を裏切りで倒し自分だけは生き残ったジョゼフ・フーシェを「尊敬する政治家」と答える中曽根氏の風見鶏ぶりの真骨頂といえる。

私はこの一九七六年三月の時点で、アメリカのキッシンジャーの方針が「中曽根は守り、角栄だけを潰す」という風に固まっていたと分析する。さまざまな調整が終わっていたのであろう。

<アメリカ側で角栄を刺したパーシー上院議員はロックフェラー家の人間>

ここで、児玉氏以外のキーマンであった小佐野氏の名前が噴出した一九七六年二月六日公聴会の議事録を、前回引用した徳本氏の著作の中から再度引用しておこう。

(引用開始)

チャーチ委員長「先日、フィンドレー氏が、ロッキード社は児玉に700万ドルを超える金を支払ったと証言した。われわれの情報によると、1970年の支払いは最大で10万ドルだが、1971年はその4倍に達している。この急増の理由は何か」

コーチャン「1968年からL1011(トライスター)を販売する運動を始めたので、彼にそのための努力を強めるよう要請したからです」(中略)

チャーチ委員長「ロッキード社は児玉に、1970年に10万ドル、1971年に40万ドルを支払っている。ところが、1972年には一気に224万ドルという劇的な増加を見せた。この増加で、一体、児玉はロッキード社のために何をしたのか。彼はあなたを小佐野氏に紹介したのか」

コーチャン「そうです。(中略)児玉氏が紹介してくれた小佐野氏とは、私が日本にいる間、大変親密な関係になりました。彼は非常に影響力のある人物で、われわれのために役立ってくれました。日本の政財界は、極めて結束の強い個人グループからなっており、誰かが米国から来て、そのなかにいきなり入っていこうとしても極めて難しいということを理解して下さい」(中略)

パーシー委員「彼(丸紅の伊藤宏専務)は受け取った1億円をどうしたのか」

コーチャン「彼に渡った金は日本政府当局者govemment officials(筆者注・原文の英語は複数形)への支払いのために使われました」(中略)

パーシー委員「1人だけ名前をあげてくれますか。これは米国の外交政策にとって極めて重要だからです。道やエレベーターで会った人から言われたわけではないでしょう。小佐野氏がそう進言したのか」

コーチャン「いいえ、違います」

パーシー委員「それでは誰なのか」

コーチャン「それは……それは差し控えたいと思います。なぜなら、この状況で誰かを名指しすれば、彼らに迷惑をかけ、不必要に非難することにつながりますから」

(1976年2月6日、チャーチ委員会議事録)
徳本著『角栄失脚・歪められた真実』(96-98ページ)
(引用終わり)

この質問者のパーシー議員は、数回の大統領選挙でNY州知事だったネルソン・ロックフェラーを応援し一九六七年に自分の娘であるシャロンをロックフェラー家のジョン・D・ロックフェラー四世(現・ウェストヴァージニア州上院議員)に嫁がせている。シャロンは現在、ペプシコーラの重役を務めるなどアメリカ財界での著名なキャリアウーマンである。このさりげないが極めて重要な事実を日本の研究者はスルーしてしまっている。左翼の本多勝一氏くらいがこの事実をいち早く指摘していた。(『麦とロッキード』)

ここで当然疑問にあがるのは、日本の首相だった角栄の線ばかりがこの後クローズアップされ、最初に名前が出た児玉の線に繋がる中曽根のラインの疑獄の有無についてはうやむやにされていることである。チャーチ委員長のリベラル派・正義の味方の立場からすれば、政界汚職の膿を出し尽くすのであれば、両方とも捜査されるべきであったはずで、むしろうやむやにされてはならないのは軍用機の売り込みという「軍産複合体」の問題に絡む、児玉ルートであったはずである。

この件に関しては、長年の謎であったが、今年になって読売新聞の記事が次のように報じたことで謎が解けた。
これは今年の七月二五日の読売新聞の紙面に載った「ロッキード事件三〇年 米国からの証言 (下)」からの引用である。

(引用開始)

■圧力

1976年2月、米上院多国籍企業小委員会が全世界に向けてロ社の不正工作を暴いた後、同社は事態鎮静化のため猛烈な圧力をかけ始めた。狙いを定めたのは同委メンバーで、フランク・チャーチ委員長とはライバル関係にあった共和党の大物、チャールズ・パーシー議員だった。

折悪く、チャーチ委員長は76年の大統領選民主党候補に名乗りを上げ、全米遊説中。ロ社は不在を狙い澄ましたかのように、留守を預かるパーシー議員とロバート・ハック会長が会う約束を取り付けた。

「妥協を余儀なくされるのではないか」。この会合に、チャーチ委員長の代理として同席することになった同委首席調査官のジェローム・レビンソン氏(76)は不安にかられた。パーシー議員は政治姿勢が「企業寄り」と見られていたからだ。

選挙運動中のチャーチ委員長は、同委の超党派態勢維持を優先し、日本などに対し資料をどこまで提供するかについては、パーシー議員の判断に従う意向だった。(中略)

そして重要資料は76年4月10日に東京地検に渡り、7月27日の田中元首相逮捕へとつながった。(中略)

チャーチ委員長は80年の上院選で落選し政界引退。4年後に59歳で死去した。田中元首相は翌85年に脳こうそくで倒れ、93年に死去する。チャーチ委員長は事件後、2度来日したが、2人が顔を合わせることはなかった。
(この連載は吉池亮が担当しました)

『読売新聞』(2006年7月25日) [ロッキード事件30年]米国からの証言(下)思惑阻んだ大女優来訪(連載)
(引用終わり)

この記事にはハッキリと「日本などに対し資料をどこまで提供するかについては、パーシー議員の判断に従う意向だった」と書いてある。実質的にチャーチ委員会の日本に関する調査は、チャーチ議員ではなく、ロックフェラー家の縁戚にあるパーシー議員の手の元にあったのである。

記事の中での「企業より」というのは、反多国籍企業だったチャーチ委員との対比であり、つまりは反ロックフェラーであるという意味だろう。しかも、読売記事は、この重要資料が7月27日の田中首相逮捕に繋がったと書いている。(ただし、平野氏はこの「重要資料」の中に角栄の収賄への関与を臭わせる資料は無かった、と書き、読売は「タナカ」の名前の入った相関図が存在したと書いてある。今年の月刊現代に連載されていたロッキード特集にもそう書いてあった。この食い違いはどういう事なのか。できれば平野氏に直接確認してみたいものだ)

<日米エスタブリッシュメントが共謀しての“王殺し”の儀式だった>

ここで、私はアメリカのロックフェラー勢力が、日本のカウンターパートであった中曽根康弘氏の政治生命延命のために、「中曽根抜き」のロッキード事件のシナリオに対して援助を行ったのである、と確信を持って断言できるようになった。

ロッキード事件で、ついでに角栄を潰しておくことは、ロックフェラーの太平洋戦略に好都合であるし、角栄だけを検察がロッキード事件で捕まえることは中曽根にとっては強敵が一人減ることになる。しかも、ロックフェラーの代理人のキッシンジャーと中曽根はハーバード大学のセミナー以来の交友関係でもある。中曽根が捕まって、児玉などによるアメリカの対日工作、自民党結党の闇が明らかになることは、アメリカの対日戦略にとって不都合極まりない。

以上のような理由から、ロッキード事件は「中曽根抜き・角栄のみ」で決着することになったのである。まさにそれぞれのアクターが合理的に選択した結果、ロッキード事件は幕を下ろしたのである。選択しなかったのは角栄だけだった。

この政治的な決着には、多かれ少なかれ、あの当時の政治家、マスコミ関係者、官僚たちは関与していたに違いない。

田中角栄の行動を詳細に検討した前回のレポートを読めば分かるように、角栄は「日本の自立をあまりにも急ぎすぎた」のである。なぜ、角栄がこのような気にはやる行動を行って、周囲からさながら「ABCD包囲網」のような集中包囲を受けて自滅したのか、その理由が見えない。ただ、角栄にはアメリカが見えていなかったのだ、というしかない。

そもそも角栄は、池田勇人内閣の大蔵大臣時代に娘・真紀子とともにアメリカを訪問し、デヴィッド・ロックフェラー主催の晩餐会に出席した。その時には「外国代表を一堂に招き、日本の政、財界の首脳も加わって談笑の機会を持つことのほうが、どれだけ豊かな実りをもたらすことか。ロックフェラー方式は大いに参考にしたいものである」という感想を持ってすらいた。(田中角栄『大臣日記』新潟日報社・96-100ページ)

権力を持つと角栄ほどの大人物でも周りが見えなくなるのであろうか。それとも、エスタブリッシュメントに入るだけの血筋が無かったと言うことなのか。

いずれにしても、その理由は、ロッキード事件の全体構図の問題とは別に解明されるべき問題である。

しかし、リベラル派、保守派から全てが角栄の「新・大東亜共栄圏=対米自立戦略」を危険視し、暗黙の了解のうちに角栄を刺し殺すという決断をしたことはもはや間違いがないようである。なぜならば、角栄はポピュリストだったからであり、日米双方のエスタブリッシュメントたちにとっては、放っておいては何をするか分からない恐るべき存在に映ったのであるから。

ヴェネズエラのチャベス大統領が、アメリカのCIAの仕掛けたクーデターに見舞われたように、角栄も日米双方の合作というべき政治クーデターによって失脚した。アメリカの謀略に批判的である私でさえも、角栄の自立戦略は、かなりアメリカへの根回しが足りなかったと思う。ポピュリストの欠点は、戦略的に動くことができず、やがてエスタブリッシュメントに潰される運命にあるということなのであろうか。

それにしても、現在政府が推進している「東アジア共同体評議会」構想は角栄の失敗を踏まえて、アメリカにも配慮したメンバーで構成されている。

会長には中曽根康弘、15人居る副議長の中にはロックフェラーと日米欧三極委員会の結成に関わったあの山本正の名前もあり、その他の副議長も三極委員会のメンバーが多い。角栄死して、東アジア共同体構想はアメリカ抜きどころか、それが主導する形で進展している。アメリカは「東アジア共同体からアメリカを抜いたらただでは済まないぞ」という恫喝を折に触れて日本の政治家に行っているのだろう。

<終わりに>

以上で私のロッキード事件の謎解きは終わる。これで多くの謎となった部分に明快な答えを与えられたことになると思う。ロッキード事件は単純なアメリカの謀略ではないにしろ、日本とアメリカの権力者達が意志一致のもとで実行した政治的クーデターであった。国民は何もそのことを知らされていない。あの事件から30年である。ここら辺で戦後史の謎の一つの解明の作業は終わらせていいのだと思う。

最後に、私がロッキード事件にこだわるのかという理由を書いて本稿を終わりにしたい。

私は新潟県の出身である。田中角栄は郷土の政治家である。角栄が新幹線を通したことが東京への交通を容易にした。角栄がいなければ、新潟と東京の距離が狭まるには時間がもっとかかっただろう。

それから、私は1976年の2月の生まれだが、私の生まれた日の新聞各紙は調べてみると、ロッキード事件一色だった。その辺も理由になっている。

そんなことから数年前から私の中ではこの事件への関心が高まっていったのである。
ロッキード事件は日本では「金権政治と闘った検察のストーリー」とか「ウォーターゲート事件を取材した新聞記者のようなジャーナリストの立花隆の物語」として描かれることが非常に多いが、私はこの2つのストーリーのどちらにも興味がない。立花隆の『田中角栄研究』(講談社)は、『ジャパン・ハンドラーズ』を執筆するまでは、読んだこともなかった。この本はそれなりに面白いが感銘を受けるようなものではなかった。

ロッキード事件というのは、田中角栄という背伸びをしすぎた小学校卒業の政治家が、周りの高学歴の官僚・政治家・マスコミ人によってたかって袋だたきにされた事件である。角栄にはロックフェラーが見えておらず、宮澤には見えていた。この一点が政治家の運命を左右したのである。

日本の政治家はアメリカを脅えすぎてもいけないが、極度にアメリカを警戒しいたずらに自立路線を取るようなこともまた自滅への路へと繋がる危険な行為である。角栄門下でありながら、アメリカとのパイプも深い民主党の小沢一郎代表そのバランスを取ることの難しさを実感しているだろう。現実政治はそのように矛盾だらけである。

逆に、今の安倍晋三官房長官(総理大臣候補)には、アメリカしか見えていないように見えてならない。竹中平蔵・総務大臣もアメリカを見に行ったら、アメリカに取り込まれてしまった。アメリカという国は何とも魅力的であり、恐ろしい国であることだろうか。

<所詮、言論は空理空論かもしれない>

最近の日本の言論界では、アメリカを批判することが一種のファッションになっている感がある。私自身もその片棒を担いできた一人であることは間違いない。

しかし、この論文で見てきたように、反エスタブリッシュメントのポピュリストというのはやがて、エスタブリッシュメントに潰される運命にあるのである。戦前の大東亜戦争の数年前に起きた「2/26事件」は、昭和天皇自身が青年将校の意志を裏切る国際協調派であることを明らかにしたし、ロッキード事件は、反米ポピュリストの田中角栄という政治家自身にアメリカが見えていなかったためにロックフェラーの国際戦略とぶつかり失脚する運命を迎えた。

郵政民営化、靖国問題、その他色々の外交・経済問題が原因で日本人の反米感情は90年代に比べると高まっているといっていい。反米にしろ、反中にしろ、日本人のナショナリズムの動きと結びつくことで、再び日本は大きく国の動きを誤ることはないか。最近、私はそのような心配を少しするようになった。杞憂であればよいのだが、日本自体がどんどん外交的にも追いつめられていき、国内的にも格差が広がっている今、そのようなナショナリズムがどういう方向に行くのか。私にはまだ完全には判らない。ただ、日本の自立を唱えることはいたずらに反米を主唱することとイコールではないだろう。

日本の戦後が終わりつつある今、私はこの論文の中で「日本の戦後の総括」を行いたく思った。日本の戦後を規定したのは、冷戦とともに訪れた「吉田ドクトリン」による軽武装・経済重視の戦略であった。憲法九条がその扇の要を果たしたのである。日本はこの「憲法九条」があったおかげで、戦後、自衛隊をヴェトナム戦争にも派遣することを要求されず、経済発展に邁進することができたのである。吉田茂のこのドクトリンを元文藝春秋社のジャーナリスト・堤堯(つつみぎょう)氏は「救国のトリック」であると喝破した。

その意味は戦後日本が、戦後のアメリカのように巨大な軍産複合体を国内に抱え込んで、果てには「戦争経済」が国家を左右するような体制にならなかったという意味である。軍産複合体というものが如何に抜けられない麻薬であるかということは、大平正芳首相のブレーンであった故・永井陽之助(東大教授)の『現代と戦略』(文藝春秋社)に詳述されている。

今、アメリカは日本のナショナリズムを容認し、背後から親米派の財界人を使って支援することで、日本の積極的な安全保障上の「応分の負担」を求めている。しかし、それについてホイホイと乗っかっていくのは愚の骨頂である。

やはり、戦後の繁栄は吉田茂の「吉田ドクトリン」によって築かれたのだ。その路線をアメリカも受け入れていた。その路線で日本が充足していた所に現れたのが田中角栄という異端児だった。彼はあまりにラディカルな日本自立論を唱えてしまったのだ。別の言い方をすれば、田中角栄は「一本筋が通っていた」が、それゆえに間違っていたということである。

このような結論を出す私は思考が分裂しているといわれるかも知れない。しかし、現実はこのような矛盾に満ちたものである。感情的には、私は今でも「田中角栄はえらかった」という思いである。しかし、国際政治の現実、日本の置かれたポジションを考えたとき、彼の行動はあまりにも不用意であった。

つくづく思うのだが、政治言論、とりわけ政治評論というのは、そのような矛盾に満ちた現実を一刀両断する試みである。

政治言論を手がける人間は、屋山太郎氏などのように時の権力に徹底的にすり寄っていく割り切った考えを持つのでなければ、そのような諦めのような境地を保っていなければならないのである。

(私は本論文を下敷きに「“日本の戦後を総括する”という名前の文章を書こうと思っている」」