「発禁「性交ソング」で時代に衝撃 バーキンさん死去」 2023年7/17(月) iza (産経新聞のウェブ版)パリ 三井美奈 | きたざわ歯科 かみあわせ研究所
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「発禁「性交ソング」で時代に衝撃 バーキンさん死去」 2023年7/17(月) iza (産経新聞のウェブ版)パリ 三井美奈


「・・・〇 「 発禁 「性交ソング」 で時代に衝撃 バーキンさん死去 」
2023年7/17(月) iza (産経新聞のウェブ版)  パリ 三井美奈

フランスの歌手で女優のジェーン・バーキンさんが、7月16日、76歳で亡くなった。日 本では、高級ブランドのバッグ「バーキン」の由来となったことで知られる。フランスでは1960年代、事実婚の夫、故セルジュ・ゲンズブールとともに「性解放と自由」のシンボルとなったことで、国民の記憶に刻まれている。

【写真】2011年4月、東日本大震災支援のチャリティーコンサートで来日したジェーン・バーキンさん
仏テレビ各局は、7月16日、バーキンさんを悼み、69年のヒット曲「ジュ・テーム・モワ・ノンプリュ」を流し続けた。 題名は「 愛しているわ。(あなたは? )さあ、どうかな、俺はもう愛していない (副島隆彦が、挿入し、加筆した訳。本当は愛している)」の意味。ゲンズブールと2人で性交中の男女の会話を歌い、喘ぎ声まで挿入されている。エロティックな歌詞は欧州でセンセーションを起こし、バチカンのローマ教皇庁は「性の逸脱」と非難。イタリアでは(当時)放送が自粛された。バーキンさんは当時、22歳だった。
ロンドンで英軍人の家庭に生まれ、女優としてデビュー。最初の夫と離婚後、パリに活動拠点を移し、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画「右側に気をつけろ」(にも出演した。ゲンズブールとは1968年、映画共演で知り合った。 有名なバッグ「バーキン」は、1984年、高級ブランド「エルメス」社長が飛行機内でバーキンさんの隣に座ったのがきっかけで生まれた。
エルメスのバッグは、モナコのグレース・ケリー王妃が愛用した「ケリー」が代表的だったが、3女の母親だったバーキンさんが物がたくさん入るよう、「4倍大きいバッグを作って」と提案したという。
抜群のスタイルと都会的なジーンズ姿で、女性たちのファッション・リーダーとなった一方、人権、社会活動にも熱心だった。2011年4月、東日本大震災から1カ月も経たないうちに訪日し、東京で復興支援コンサートを実施。「みなさんの冷静で、隣人を思いやる振る舞いに、みんなが心を打たれています」と被災者にエールを送った。(副島隆彦加筆。さらに12月にも東京国際フォーラムCホールで、チャリティ・コンサートを開いている)
(パリ 三井美奈)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 次の一枚の写真が、その後の楽しそうな家族全員の再会を撮っている。

(副島隆彦から。ここに、画像を一枚貼る 私のGZEにある )
1986年2月27日、シャルロットはクロード・ミレールの『なまいきシャルロット』の 役でセザール有望若手女優賞を受賞した。ケイト・バリー、ジェーン・バーキン、セルジュ・ゲンズブールに囲まれるシャルロット。  photo : PAT/Getty Images
副島隆彦です。次に、いよいよ、この曲(1969年)の 最高の、ユーチューブの公式版を見て下さい。今聞いても物凄いです。このパリのエッフェル塔の下とか、シテ(中の島)のポンヌフの辺りで、ふたりで抱き合って歌う様子が、すべてを突き抜けて、すばらしい。
〇 Serge Gainsbourg Jane Birkin Je t’aime, moi non plus Subtitles – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=dn7-jOgiP14
Serge Gainsbourg Jane Birkin Je t’aime, moi non plus Subtitles
この「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は、屹度(きっと)今の 10代、20代の若い人たちにも、受け継がれて、今から日本でも、再(さい)大ヒットすると、私は確信する。
早くアメリカのくだらない、あのハリウッドのバカ映画たちの時代が終わって欲しい。50年前(1970年)までは隆盛していた、フランスとイタリアと、ドイツとスウエーデン(例えイングール・ベルイマンの)ヨーロッパ映画たちの時代が、戻って来て欲しい。
やっぱり、フランス文化が最高だ。もうこれ以上のものは、人類にはない。
そして、さらに真実は、この Serge Gainsbourg セルジュ・ゲンズブール と Jane Birkin ジェイン・バーキンの愛(1968年から1980年までの12間。あとは家愛として)が、人間の生(なま)の生(せい)のプロモーションとして最高だ。
私たち人類(人間)の芸術と 文学と 政治のすべては、共同の幻想( mass illusion マス・イルージョン)だ。すべては、人間と言うおかしな生き物が、集団で、共同で作り出す、幻想だ。生(なま)の現実の、私たちのそれぞれの、生活の外側のすべては。 このすべては共同幻想(きょうどうげんそう)である論は、私、副島隆彦の先生だった、日本の思想家の吉本隆明(よしもとりゅうめい、2012年3月、87歳で死)が作って唱えた理論だ。
ジェーン・バーキンから、生まれた「エルメスの “バーキン” の始まり」の私なりの理解は、あとの方で書きます。
私は、この数週間で、次々と語り下ろしで、重要な人たちの一生を振り返っている。去年死んだ、フランスの偉大だった、アヴァンギャルド(前衛)で、ヌーベルバーグの旗手の映画監督、ジャン・リュック・ゴダール のこと。
それから、天才芸術家の、パブロ・ピカソが、なぜ人類の大(だい)天才の画家だったのか、を最後まで生きた、愛人のフランソワ・ジローの101歳の死(6月6日)に触発されて、ピカソのことを、私は大きな謎解きとして語った。 それから、アラン・ドロンの、老体の老醜の話も聞いた。
アラン・ドロンの映画「太陽が知ってる」(1968年)に、何と、ジェーン・バーキンが出ていた。
ゴダールの出世作 「勝手にしやがれ」(1960年作)でデビューした、ジャン・ポール・ベルモンドも、去年の9月に死んだ。アラン・ドロンが、老骨に鞭打ってその葬儀に出来てきた。そこに例のヒロミという、ドロンの別荘(ビッラ)で20年以上、家政婦としてドロンの身の回りの世話をした(共棲でもある)日本人女性が背後に写っている。

アラン・ドロンの、衝撃的な映画「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督。ああ、これも「勝手にしやがれ」と同じ1960年作だ)のことも書かなければ。副島隆彦です。 私の頭が、いろいろとこんがらがって、私の脳がおかしくなりそうだ。次に、この「ジュテーム・モア・ノン・プリュ」の曲の6年後に、そのまま、セルジュ・ゲンズブールが監督して、映画(1975年制作)にした。そしてジェーン・バーキンが、主演した。この大(だい)問題作になった映画の、 ユーチューブ版の プレヴュー(宣伝版)を載せます。開いて見て下さい。息をのみます。
〇 【5/29(土)公開】セルジュ・ゲンズブール没後30年記念 初監督映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ 4K完全無修正版』予告編 – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=KMs0IuA_hGA
【5/29(土)公開】セルジュ・ゲンズブール没(1991年)後30年記念 初監督映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ 4K完全無修正版』予告編
副島隆彦です。私は、久しぶりに、実に28年ぶりに、この映画の情景(シーン)を見て、泣き出した。 私にとっての28年前だ。私はこの問題作の映画を、確か1985年に見たから、私は32歳だった。この映画は、1975年にフランスで制作されたのに、日本ではずっと公開禁止だった。それが公開されたのが、確か10年遅れの1985年だ。私は、勘の鋭い、ちょっと精神的に不安定な女性に強く誘われて、この映画を渋谷に見に行った。評判になっていたのだ。
当時、原宿に「ピテカントロプス」という最先端のファッション・リーダーたちが集まる店が有って、そこは、エディターや、テレビのディレクターや、芸術家たちのたまり場だった。裏の方では、大麻(ハッシッシ)を飲み回ししていた。そういう世界を、私も微(かす)かに知っている。私は深入りはしなかった。
この映画は、はっきり書くと、若い女性が、ゲイ(同性愛者)のキレイな青年と、肛門性交(アナル・セックス)をする映画だ。そこに上記の、ジュテーム・モワ・ノン・プリュの曲が、全体に流れて使われていた。監督と主演が、だから、Serge Gainsbourg と  Jane Birkin だった。 きっと、今から、今の時代の、まさしく「やおい」そして「ボーイズ・ラブ」の世代の、日本の女の子たちが、この映画を必ず、見るだろう。
この映画に、ジェーン・バーキンが、まるで少年のアドニス のような感じで、登場して、ハンサムの頂点のゲイの若者と、性交をして愛し合う。そして周りから心配される。ゲイにはゲイの男どうしの血の掟(おきて)があるから、このあとが大変だった。愛する人に裏切られたと感じたゲイの少年は相手を殺すことが多い。
今から50年前の、フランス人の芸術家たちは、さっさとここまで突き抜けていた。時代の先端を生きる、ということは、大変なことで、その最先端を生きる芸術家たちが、それを実行し実践する。体制派からの激しい非難 と、社会からの顰蹙(ひんしゅく)買いと 人々からの軽蔑の果てのところで、次の時代が形作られてゆく。
今はこの映画は、完全版が買えるし、ダウンロードも出来るのだろう。私は、もう見なくていい。あの時代を、思い出して、泣くぐらいで、もう十分だ。愛する人との、それそれの時に、愛し合った気(け)だるい時間が、たくさん過ぎ去っていったので、もうそれでいい。いや、それでも、人間にとっては、幾つになっても、今この時の、今の愛も大切だ。
副島隆彦です。次に。さっきネットを開いたら、この「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の曲の和訳(日本語訳)が載っていたので、ビックリしたので、転載する。 きっとフランス語が良くできる、優れた女性のウエブサイトだ。
私、副島隆彦が、さらにこの訳に、フランス語が良くできる人に、しつこく聞きだして、ようやく(なんと 30年かけて)分かった、より 正確で、精密な日本語訳を、書き加える。
こんな加筆は余計なことかもしれないが、誰かが、これをやらないといけない。外国の文化を、理解し、移植(いしょく。 transplant トランスプラント)し、受け入れ、受容(じゅよう)する、というのは、大変なことだ。長い時間がかかる。
・・・」